第197話 終わりと、始まり。永遠の――。
キアランは、空から地上を見下ろしていた。
オニキス――。
天から絶え間なく降り注ぐ、白い雪と、金の粉。
地上からの金の光は、天の輝きにかき消され、そしてついに途絶える。
考えたことが、なかった。
キアランは、気付く。今まで考えたことがなかった、と。
仇を討つ、そのあとのことを。
ついに倒した因縁の相手、オニキス。
しかし宿敵を倒した興奮も、悲願を果たした達成感もなかった。
喜びのような感情は、どこにもなかった。
静けさ。漆黒の空に降る雪のように。
考えたことも、なかった。ただ、前に進むことしか――。
気付けば、キアランの頬を、一筋の涙が流れていた。
堰を切ったように、突然、押し寄せる、感情。うって変わり、激しく揺さぶられる、己の魂。
私は。
オニキスを倒しても、両親が帰るわけではない。オニキスによって奪われた、他のたくさんの命も。
ただ、アマリアとフレヤは、救えた。
多くの命を失ったが、目の前の大切な二人の命を、救えた――。
しかし、虚しさ。激流のような様々な感情の底には、いいようのない虚しさも横たわっていた。
空の上独り呆然と立ち尽くす。血に染まった、己の姿。
なんの涙なのか、自分でもよくわからない。
オニキス――、お前は――。
憎むべき宿敵について、深く考える必要はないのかもしれない。
もう、終わったことなのだ、と思う。
そこでまた、止まる思考。
終わったのではない、私が終わらせたのだ。
キアランの心は揺れ動く。
自分の感情に当惑しながらも、思い至る。
私の心は、人、なのだな――。
運命に翻弄される小さな少年のように、キアランは上空を見た。空の、さらに向こうを。
『キアラン』
アステールの声がする。
そうだ。終わりではないのだ。私の使命は、これからなのだ。
キアランは、握りしめた天風の剣を見つめる。
固く握りしめた指。思い。手離すことができるのだろうか、ぼんやりとキアランは思う。
『キアラン。私を、天へ』
うん。
キアランは、少年のようにうなずく。
天にそのまま、右手を伸ばせばいい、キアランにはわかっていた。
重い。重いな。
剣が重いと思ったのは、初めてだ、と思う。
空が、明るい。実際は、厚い雲に覆われ、明るいはずがなかった。
しかし、キアランの感覚は、空全体が金色に輝いている、そんなふうに捉えていた。
空の窓が、大きく開いている――。
アステールの穏やかな声が、聞こえてくる。
『私は、空にいます。あなたが辛いときも喜びに包まれているときも、変わらずあなたを見守っています』
「ありがとう。アステール」
さよならは、言わない。これからも、アステールに導かれ、私は旅を続けていく――。
たとえ、安住の地を見つけても、生きるということは手探りで道を探すということだから、とキアランは思う。
キアランの右手は、導かれるようにまっすぐ天へと――。
「うっ」
キアランは、うめき声を上げていた。
キアランの体を、なにかが射貫く。
激痛。しかし、自分の身になにが起こったのか理解できない。
そんなはずは――。オニキスはもういない。黒裂丸も、赤朽葉も、少なくとも戦える状態ではないはず。いったい、誰が――!
キアランの手から、天風の剣が離れ、落ちていく。地上へと。
アステール――!
キアランは大きくバランスを崩し、乗っていたシラカバの幹から足が離れる。
落ちていく。空から、氷の大地へと。
誰かの叫び声。皆の、悲鳴。
目の前が、真っ暗になる。
私は、世界は――! 空の窓を閉ざすことが――!
朦朧とした意識の中、全身になにか衝撃を感じた。
「キアラン」
その声は、と思う。
「蒼井――!」
「その通り。蒼井だ」
蒼井が、空中でキアランを受け止めていた。
「アステール、天風の剣は――」
「あるよ」
シトリンの声がした。
「アステール、よかった――!」
「ああ。彼女が飛んでくれたおかげで、受け止めることができた」
ニイロの声。シトリンが素早く追いかけて飛び、シトリンに抱えられたニイロが、落下する天風の剣を掴んだようだった。
キアランは得体のしれない攻撃による激痛で荒くなっている息の中、深い安堵のため息をもらす。
「キアランさん……!」
アマリアの声もする。
「キアラン。もう一度、アステールを、空の窓へ」
今度は、シルガーの声。
みんな――。
安堵し、途端に気を失いそうになったキアランへ、拳が飛んできた。
「翠だ。しっかりしろ。キアラン」
扱いが、荒い、と思った。そこで、ハッとするキアラン。思う、ということは、まだ意識がある、ということだった。
「翠さん。ひどいです」
フレヤが、キアランに代わって抗議してくれていた。
笑い。この場に不謹慎ながらも誰かが笑う。たぶんシルガー。
声の近さ、ぼんやり見える姿から、空中にいる皆が周りを囲んでいるのだと思った。
誰かが、もしくは複数の者たちが、キアランの手に天風の剣を握らせてくれた。
「さあ。支えているから。キアラン。そのまま、アステールを送り出せ」
うん、とうなずいたような気がした。手を伸ばす。添えられた皆の手と、自分の強い意思で。
空の、窓へ――!
強い輝き。
痛みさえ遠のく夢うつつのような中、キアランは光を見た気がした。
アステール……。
夢なのかもしれない。キアランの目に映るアステールが、うなずき、優しく笑い返してくれていた。
あたたかかった。
魔法の灯や魔法によるあたたかさはあったが、ずっと、雪と氷の中にいた。
それが、どうしたことだろう。
柔らかく、あたたかい。全身を包み込む、寝具のあたたかさ――。
「寝具!?」
驚き、キアランは跳ね起きていた。
「あっ、キアラン! キアランが起きたよ! すごい! みんなを呼ばなくちゃ!」
元気いっぱいの声。笑顔。それは――。
「ルーイ!」
ルーイだった。
「キアラン、よかったあー」
ルーイの笑顔が、たちまち涙で真っ赤に、そしてくしゃくしゃになる。
「ここは……。そして、いったい、私は……?」
洞窟ではなく、白いカーテンが揺れる、日の光が差し込む清潔な部屋。初めて見る風景。
日の光!? 雪じゃなくて!?
驚くと同時に、自分が横たわっていたのは、ベッドだったのだと気付く。
ノースストルム峡谷じゃ、ないのか。ここは――。
「キアランは、ずっと気を失っていたんだよ」
ハッとし、自分の周りを急いで見回す。
天風の剣が、ベッドのすぐ傍にあった。
「よかった、アステー……」
言いかけて、気付く。ルーイが、沈んだ表情に変わったから。
「そうか。アステールは、もう――」
ルーイが、こくり、とうなずく。
これは、紛れもなく天風の剣。でも、アステールはいない。ただ、剣なのだな――。
キアランは振り返り、真剣な眼差しでルーイを見つめた。
「アステールは、無事、空の窓を閉ざしたのだな――」
「うん……!」
ルーイは、キアランの手を取っていた。キアランの心を、癒すように、励ますように。
「空の窓は、永遠に開くことはないよ。キアランとアステールのおかげで」
私は、無事、使命を果たせたのか――。
「そうか。じゃあ、世界は――」
「うん。魔の者に支配されることはなくなった。魔の者の脅威が、なくなるわけじゃないけど」
それから、あのね、とルーイが打ち明ける。
「僕、四聖じゃ、なくなったよ」
「え?」
キアランが聞き返したとき、窓が音を立てて大きく開いた。
「なんだ! キアラン! 起きたなら起きたと、早く教えろ」
窓枠から、にゅっと、豪快に足が出る。シルガーが、窓から侵入していた。
「シルガー!」
「というか、それは傍にいたルーイに言うべきことだったかな?」
シルガーは腕組みし、笑いながら、どかっ、とキアランのベッドの上に腰かけた。たまたまキアランの足や手が伸びていなかったからよかったようなものの、極力端に座るとか、そういった気遣いは皆無だった。
「今目覚めたばっかだもん、これから皆に言いに行くところだったんだもん」
ルーイが、ぷう、と不服そうに頬を膨らませた。
「お前、独り占めするつもりだったんじゃないか? まあ、キアランを独り占めしてもどうということはないだろうが」
「どうということはないとは、どういうことだ」
キアランが、喰ってかかる。
シルガーは、微笑みを浮かべた。
「その様子だと、すっかり大丈夫のようだな」
すっかり大丈夫なよう――。
そこで、キアランは改めてハッとする。ルーイも、ずっと気を失っていたんだよ、と言っていた。
「私は、どうなっていたのだ? あれから、どのくらい経っている?」
シルガーとルーイは、同時に指を三本立て、どうだ、とばかり、キアランに見せつける。
「三日か!」
首を振る、シルガーとルーイ。
「三分!?」
「短過ぎだろう」
三分は、短い。
まさか――、三年……!?
キアランが超長いスパンを想像したとき、壮大なキアランの構想を察したのか、シルガーが答えを述べた。
「三週間だ」
「三週間も!?」
ああ、とシルガーはうなずく。
「蒼井の盾の力があったから、命を落とさず済んだ。危ないところだった」
「いったい、あのとき、誰が――」
思わず、キアランは胸に手を当てていた。あのとき、胸の辺りを射抜かれたような感覚があった。
「魔法だ。人間の。術者が魔の者か人間かわからぬよう、特殊な道具まで使って巧妙に隠されていたようだが、我々魔の者にはわかる」
人間――。
キアランは、絶句していた。
「まさか! なぜ……!?」
「さあな。もう、真意は聞けないがな」
「真意は、聞けない……?」
シルガーの銀の瞳に、残酷なまでに鋭い光が宿る。
「私が、速攻で殺した」
息をのむ。
確か、シルガーは……。
『あれの過去には、人の血の匂いがしなかった』
あのときの、占い師の老婆の言葉を、キアランは思い出していた。
キアランの考えていたことを察したのか、シルガーは正直に話す。
「人を殺すのは、初めてだ。まあ、ほぼ反射的に、な。どうせなら、もっと強い大物とやりあいたいものだったが」
シルガーのあとから耳にしたという話では、それは、ヴァルッテリとかいう名前の、上層部の中でももっとも権力のある魔導士だったという。その名を聞き、キアランは、複雑な思いで顔を覆いつつ、心のどこかで妙に納得していた。
やはり、そうか――。
「人間どもも、色々と大騒ぎしていたが、後のことは知らん。お前もたぶん、それ以上は知らなくていいことだろう。だが、安心しろ。お前が人間社会の中で広く英雄扱いされていることは、私の目から見て間違いない」
ああ、それから、とシルガーは膝を打つ。
「キアラン。私は、四天王じゃなくなったぞ」
え……!?
ルーイは四聖じゃなくなったというし、シルガーは四天王じゃないという。
そういえば、とキアランは気付く。
シルガーの背にある四枚の翼が、ない……。四天王なら、翼を隠すということもできるようだが――。
シルガーが、話を続ける。
「空の窓が消失し、四聖という立場も、四天王という立場も、同時になくなったのだ。おそらく、高次の存在の、それに匹敵するあの連中も――」
四聖も、四天王も、翼を持つ一族と呼ばれるひとたちも――!
「世界の均衡は、そんな特別な者たちがいなくても、保たれる、ということになったということなのだろうな」
空の窓が永久に開かなくなるということは、すなわち、四聖、四天王、翼を持つ一族という、三つの存在の力が必要ない世界になるということだった。そして、不思議なことに、アステールが空に吸い込まれるようにして消えた瞬間から、自然とシルガーやシトリンの翼が消えてなくなったのだという。
キアランは、シルガーの瞳を、見つめる。
「シルガー、お前……。それで、いいのか……?」
魔の者の、四つの頂点、四天王。それは、戦いを好み、力の高みを目指す魔の者という種族が目指す、究極の到達点なのではないか――。
シルガーは、笑っていた。
「一度なったんだ。なってみて、色々わかった。あとは、もう、どうでもいいだろう」
風に揺れ、日の光を受け光を放つ銀の髪。なにごともなかったように、シルガーは軽やかに話す。
「僕は? キアラン、僕のことは、訊かないの?」
ルーイが、自分を指差し、にこにこと尋ねる。
キアランは、ルーイのわくわくとした眼差しに応え、一応尋ねてみる。
「ルーイ、お前は、四聖でなくなって、いいのか……?」
「いいよ! とっても!」
ばんざいまでしていた。無条件で嬉しいらしい。
ここは、ノースストルム峡谷近郊で一番大きな町。
多くの人々が、日々の暮らしを営み、多くの新しい生命が生まれる町。
キアランは、まだ知らない。
この町の人たち皆に、キアランが世界を守った英雄として知られていることを。
そして誰もが、キアランの回復を祈り、日々待ち望んでいたことを。
もちろん、町の人たちだけではない。
もうすぐ、キアランは知ることになる。
廊下を慌ただしく駆けるたくさんの足音。
キアランの目覚めを、ずっと待ち望んでいた仲間たち。
「キアランさん!」
扉が開く。
それは、笑顔溢れる瞬間。
明るい日差しに満ちた部屋、あたたかな、希望に満ちた未来の始まり――。




