第184話 護る魔法、縛る魔法、そして魔法のような力
魔導士オリヴィアと翠は、麻布の結界の向こう側へと足を踏み入れる。
四聖たちのいる、結界の向こう。濃密な魔法と芳香に閉ざされた空間。
そう、そこは「閉ざされている」、はずだった。
「え……!」
オリヴィアは、言葉を失う。
「誰も、いないぞ」
驚き目を見張るオリヴィアの代わりに、翠が目にしたままの情報を口にする。
揺れるろうそくの明かりの中には、誰もいなかった。
ユリアナ様……! ルーイ、フレヤ、ニイロ……!
祈り続けているはずの四聖たち、そして彼らを見守り、四聖たちの祈りを補佐する役割の、僧の姿もない。
「洞窟の崩落の危険を察し、ここを脱出したのね……!」
結界は、今も完璧に機能している、オリヴィアの感覚は、そう判断していた。
結界としての作用はそのままだし、魔の者の気配も形跡もない。ということは、誰かの誘導で、彼らはここを出た――。
確かに、この場所には最後の手段として、外に通じる抜け道が作ってあった。
しかし、四聖たちの判断、四聖たちを見守る年老いた高僧の誘導ではないはずだった。
なぜなら、ここは外界の情報から遮断された空間、そして強い魔法を受けた彼ら。洞窟の揺れや音など五感に訴えかける刺激も、魔の者の強い気配も、わからないような強力な術がかけられていたはずだからである。
たとえ洞窟の天井や岩壁が崩れ、落ちた岩が体に当たったとしても、侵入した魔の者に襲われ傷を負ったとしても、魔法をかけられた彼らが気付くことはないはずだった。
最悪の場合、祈りの中、自分を守ることさえできず、命を落としてしまう、非常に危険な魔法だった。
長い時の中受け継がれてきた、四聖を護るための魔法は、同時に魂を強力に縛る、恐ろしい魔法でもあった。
オリヴィアは、なかば呆然と呟く。
「麻布の封印魔法の外から入った者しか、彼らを連れ出せないはず――」
「誰が連れ出したんだ」
オリヴィアの思考は、ひとつの結論を導き出す。
魔法が破られていないとすると、考えられる者は、この結界の内容を理解している誰か。魔法を熟知し、高度な魔法を操れる者たち。
「守護軍の上層部の誰か。もしくは、複数――」
翠は、不思議そうにオリヴィアを見つめた。
「お前らの味方か。それならよかったじゃないか。なにをそんなに――」
翠が怪訝そうに尋ねるほど、オリヴィアは自分では気付かず深刻な表情をしていたらしい。
「いえ――。私には、彼らの動きがわからない。彼らの思惑が見えない。それが、不安なのです」
四聖たちを結界の外へ誘導するのは、麻布の結界近くを守る者に限られるとされていた。つまり本当に最後の手段、非常事態のみということのはずだった。
確かに、今はもうすでに、非常事態に突入している。でも、上層部の誰かが入ったのは、それより前。いったいいつ、そしてどういう考えで――。
「とにかく、一刻も早く四聖を探さなくては――!」
オリヴィアは、ぎゅっと拳を握りしめ、それから自分の不安な気持ちを振り払うように、四聖たちが通ったはずの、隠れた通路へと進む。
「お前は、人間たちの群れの中のボスじゃなかったのか」
オリヴィアの背に、翠が率直な疑問を投げかける。
オリヴィアは魔法の明かりを灯しながら、凍った岩と岩の隙間の、細い通路を先に行く。
「私は、ここではなんの権限もないわ」
「お前は強い。魔の者からしても、興味深い存在。そんなお前が?」
「……人間にとって、戦闘の中であっても、集団の中での位置づけは、強さによるものであるとは限らないわ」
「非合理的だな」
「人間って、非合理的な生き物なのよ」
ふむ、と翠は首を傾げたようだった。
「人間とは、もっと統率のとれたものと思っていたが」
「……残念ながら、そうではないわ」
「うまく群れているようだが?」
狭く、ひんやりとした岩壁。オニキスやシトリンたちの激闘のため、足元が揺れ、落ちてきた小石が肩に当たる。なにひとつ確かなものはなく、崩れていく――。
「四聖たちは、安全なのか?」
オリヴィアは、答えられなかった。
翠の疑問が、オリヴィアの心をざわつかせていた。
飛び散る雪。地上に向け、四天王シルガーの放った衝撃波が、雪煙を高く舞い上げ、地面に穴を穿つ。
赤朽葉は、雪のつぶてを超え疾走する。
『生きろよ。赤朽葉。俺も、生きるからさ』
赤朽葉の心によぎる、黒裂丸の言葉。
『……お前のタイミングで、逃げろよ』
まったく、余計なお世話だ、と赤朽葉は思った。
確かに、分が悪過ぎる。
シルガーの攻撃対象が自分だけに絞られた今、はっきりと力の差を感じていた。
逃げろよ、と言われるまでもなく、逃げるのがやっとの現状だった。
黒裂丸の声が、頭の中に響く。
『また、会おうぜ』
ふん。たまたま、操られ仕えた者同士に過ぎないだろうが――。
赤朽葉は苦笑する。
でも、と赤朽葉は思う。
悪くないな。
赤朽葉は、駆ける。空からの攻撃によって上がる、雪柱の合間を縫うように。
そうだな。
降る雪の向こうを見つめる。自分でも気付かず、笑みを浮かべる。
見事生き抜き、あいつの驚く顔を見てやるか。
きっと、おう、お前もなかなかしぶいとな、などとほざき、笑うに違いないと想像する。
誰かからかけられた約束が、呪いのように自分を縛ることも、反対に魔法のような力をくれることもある。
赤朽葉は、間違いなく後者だった。
感覚を、研ぎ澄ませろ……!
赤朽葉は、自らを奮い立たせた。
赤朽葉の優れた嗅覚が、ある重要な情報を拾い上げていた。
これは――!
赤朽葉は、意外な勝機の手がかりを見つけた。




