第182話 もう一度、あのお茶を
宙に浮かんだ金の護符の輪郭が、揺らぎ、薄れかけていた。
魔導士オリヴィアの魔法の護符の向こうに、濃密な魔の気配。四天王オニキスの黒い影が、かすかに透けて見える。
四天王オニキスを封じる魔法は、破られつつあった。
この命、引き換えにしても、止めなければ……!
オリヴィアは、強く念じ続ける。己の力のすべてを、ぶつけるようにして。強い力を行使し続け、心身共に激しく疲弊していた。流れ落ち続ける汗と、抑えきれない全身の震え。しかし、オリヴィアは歯を食いしばり、四天王に立ち向かい続ける。
危険なのは、四天王オニキスだけではなかった。
オリヴィアのすぐ後ろでは、激しい音と、飛び散る火花。
黒裂丸が、四聖へと続く結界を破壊しようとしていた。
オニキスへの術で精一杯のオリヴィアに、なすすべはない。
オリヴィアは、心の中で叫ぶ。
キアラン、ライネ、誰か……! 四聖を、守って……!
ライネ。そう考えたとき、オリヴィアの心にふと浮かぶ、ライネの声、ひとつの記憶。
『いつでも、元気の出るお茶を差し上げますっ。だから――』
ライネに淹れてもらったお茶を、ふたり並んで飲んでいた。
あたたかい湯気が、包んでいた。甘く、ほっと心がほどけるような、優しい味わいの薬草茶。穏やかに、ゆっくりと流れていたあの時間。
ライネ――。
オリヴィアは、思う。必ずきっと、キアランや、ライネや、誰かが四聖を守ってくれる。でも、それは自分の命の灯が消える前ではないのかもしれない。
腕が、足が、震える。
最高位の魔導士として、四聖を守る立場として、今そんなことを考えるのは不謹慎ではないかとオリヴィアは思う。
しかし、思いが、あふれていく。
もう一度、会えたら――。
あのとき、ライネは、お湯のある限りお茶を淹れると言い、そして笑い合った。
『はい。オリヴィアさん。どうぞ』
いつも明るく元気なライネの、少しはにかんだ、笑顔。
もう一度、あのお茶を、ふたりで――。
オリヴィアの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
そのとき、光。光を感じた。
オリヴィアは驚き、目を見張った。
衝撃に飛ばされた様子の、黒裂丸。なにかが、黒裂丸に攻撃を放っていた。
今のは――。
兵士たちの怒号が聞こえる。
しかしまだ距離も遠く、あきらかに彼らではない。
オリヴィアの目の前にいたのは――。
「お待たせ。遅くなって、ごめんね」
「キアラン、頭ぶつけないように気を付けてね」
花紺青が、叫ぶ。
キアランと花紺青は、守護軍の陣営の奥、洞窟内を飛行していた。
四聖のいるほうへと駆けていく守護軍の兵士たちの頭の上を飛んでいるため、洞窟の天井ギリギリのところを進んでいたのだ。
「四天王と従者たちが侵入した! キアラン殿、花紺青殿、どうか、頼む……!」
兵士たちが口々に、ものすごい速度で皆を追抜くキアランと花紺青に向かって叫んだ。
四天王と、従者たち……?
キアランは、違和感を覚える。
守護軍の陣営にたどり着いたときからここまで、兵士たちの中に死者はおろか、負傷者らしき者もいなかった。
倒れた様子の者たちが大勢いたが、皆立ち上がり、駆け出している。
戦っていたような痕跡が、あちこちにあった。でも深刻な被害がないのは、どうしてなのだろう。オニキスと黒裂丸が通った後にしては――。
被害がない様子に安堵しつつも、キアランは疑問に思う。
あっという間に兵士たちを追い抜いたキアランと花紺青は、さらに狭くなった洞窟内の真ん中を飛ぶ。
どうか、間に合ってくれ……!
キアランは、天風の剣を握る手に、いっそう力を込めた。
洞窟は緩やかな曲線を描き、キアランと花紺青は、曲線の向こうへと抜ける。
キアランと花紺青は、目の前の光景に、ハッとした。
空中に浮かぶ、腕。男の腕が、浮かんでいた。
ドーン……!
響き渡る衝撃音。宙に浮かぶ腕に、誰かが攻撃をしかけている。それは――。
「シトリン……!」
四天王シトリンの姿が、そこにあった。
「私たちも来るのがだいぶ遅れたけど、キアランおにーちゃん、花紺青おにーちゃんはもっと遅かったね」
いたずらっぽい笑顔で答える、四天王シトリン。
そして、その後ろには、魔法の杖を掲げ続けるオリヴィア。
「オリヴィアさん……!」
かなり疲弊した様子だが、オリヴィアは無事だった。キアランの声に、思わず喜びの色が混じる。
オリヴィアの向こうには、黒裂丸と、ある「ふたり」の姿。
黒裂丸と戦っている「ふたり」とは――。
「翠、蒼井……! 無事だったか……!」
翠と蒼井だった。
翠と蒼井は、一瞬だけキアランのほうを振り返り、答えるように微笑みを送る。
翠も蒼井も、外見上変わった様子はないようだった。翠の切断された体も、元通り繋がっている。
キアランは理解する。先ほど兵士たちが報告してきた四天王と従者たちとは、シトリンと翠と蒼井のことだったのだ、と。
兵士たちが戦おうとしていたのは、シトリンたち。だから、兵士たちに負傷者がいなかったのか。
宙に浮かぶ腕。その腕の持ち主も、当然キアランはわかっていた。
「翠と蒼井の回復に、ちょっと時間がかかっちゃったの。結構ひどくやられてたから」
キアランに説明しつつ、もう一度シトリンは空中に浮かぶ腕に向かって、衝撃波を放つ。洞窟が揺れ、洞窟の天井から砕けた氷や岩が、落下する。
腕の主は、オニキス――!
宙に浮かぶ腕は、大きなダメージを受けた様子はなかった。そして続けて現れる、肩、頭――、オニキスは金の護符を大きく破り、上半身を乗り出す。
「ふふふ……! 効かぬぞ、四天王シトリン――」
四天王オニキスが、笑う。そして、ついにオリヴィアの術を完全に破り、その全身を現した。
「先ほど守護軍の陣地へ向け飛んで行ったのは、シトリンと翠と蒼井」
暗闇の中、荒れ狂う吹雪。
シルガーは、ひとり呟く。
キアランと花紺青も、すでに守護軍の陣営へ向かった。
「ということは、私がまず対峙すべきは――」
シルガーは、吹雪の向こうに視線を移す。
走りくる、赤い獣。
「赤朽葉……!」
姿形が変わっても、ビリビリと肌に伝わる魔の波動から、シルガーは判断する。
ガアアア……!
獣の咆哮が、雪原を突き抜ける。




