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天風の剣  作者: 吉岡果音
第十章 空の窓、そしてそれぞれの朝へ
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第172話 なぜ

「ふふふ……! 間もなく、我らの待ち望んでいた刻がくる――」


 地の底から響いてきたような、低く恐ろしい声。蛇のように蠢く黒髪の下、光る金の瞳が、笑う――。


 四天王オニキス――!


「人間ども。お前らなど私の敵ではない――」


 オニキスの姿は、見る間に大きく、見上げるほど巨大なものに変化していった。抱えていたアマリアが、いつの間にか人形のように小さく見える。オニキスは、腕に抱えていたアマリアを、右手のひらで握りしめるように持ちかえた。

 魔導士オリヴィアが、さっ、と魔法の杖を掲げる。


砕氷鳳凰(さいひょうほうおう)……!」


 光を放つダイヤモンドダストのような氷のつぶてが集まり、九本の尾羽を持つ鳳凰のような姿を形どる。

 魔導士オリヴィアが放つ、攻撃魔法だった。

 無数の氷のつぶてからなる、光り輝く鳳凰は、勢いよく四天王オニキスの胸元に向かって飛んで行く。


「四天王オニキス、氷となりて砕け散れ……!」


 ライネが、二本の枝が絡み合ってできたような古めかしい魔法の杖――もう一本のシトリンの魔法の杖――を掲げ、呪文を叫んだ。


「雪よ、四天王オニキスの力を封じ給え……!」


 ダンも同時に呪文を叫ぶ。

 呪文を発動する瞬間、ダンは、どっしりとした樹木の幹のような魔法の杖――(みどり)の魔法の杖――の先端をオニキスに向け掲げていた。


「悪しき魔の王、聖なる大地の力にて、滅せよ――!」

 

 他の守護軍の者たちも、一斉に攻撃魔法を唱えていた。

 いくつもの大きな爆発音。煙に包まれるオニキス。

 攻撃魔法の影響が少しでも長く続くよう、オリヴィアは強く念じ続けていた。

 オリヴィアの全身が、不思議な力で光り輝き、深みのある葡萄色をした長い髪が揺れる。オリヴィアは術を行使しながら、思う。


 アマリアの身に影響が及ばないようにしながらも、皆の魔法は確かに命中している……! いったい、我々人間が結集した力は、今のオニキスにどの程度のダメージを与えることができたのか――。


 煙が霧散して、オニキスの黒い輪郭が見えてきた――。


「ふむ……。なるほどな。なかなかやるものだな、人間ども。しかし、私は倒せぬぞ。その程度では、な」


 聞こえてきたのは、ごく平静なオニキスの声。

 オリヴィアの攻撃魔法はもちろん、ライネやダン、守護軍の攻撃魔法は、確かに有効だった。しかし、大きなダメージを与えることは叶わず、オニキスに当たって砕け、きらきらと光のしずくのように落ちていた。

 オニキスは、視線を下方に向ける。そして、唇の両端をゆっくりと吊り上げる。

 世界でただひとりの、特別な存在、オニキスにとっても、因縁の、特別なひとりに向け――。


「キアラン。お前は、己の無力さを噛みしめながら、死ぬのだ――」




 キアランの心は、不思議なほど静かだった。

 静かでなければならなかった。


『信じることだな』


 シルガーの声を思い出していた。


『瞬間。必ず勝機があるはずだ』


『今までだって、あっただろう……?』


『今ここに生きているというのは、そういう瞬間をすくいあげてきた結果だ。そうは、思わないか?』


 そうだ。私は数々の危機を乗り越えてきた。自分の力ではなく、誰かの、皆の力があってこそだが――。


 シルガーの、揺るがぬ瞳。ライネの、ダンの、花紺青(はなこんじょう)の、皆の、自分を見つめる瞳。

 彼らは、確かにキアランを信じている。だからきっと、力を貸してくれたのだ――。

 見上げるようなオニキス。キアランは、四天王の息子でありながら、飛ぶことも魔法を使うこともできない。アマリアを救い出し、オニキスに勝つのは、奇跡に近いと思う。

 しかし、キアランは天風の剣を握りしめる。


 奇跡に頼るんじゃない。私が、奇跡を生み出すんだ――!


花紺青(はなこんじょう)


 キアランは、傍らの花紺青(はなこんじょう)に呼びかける。


「私を乗せて飛んでくれ」


「もちろん!」


 花紺青(はなこんじょう)は、シラカバの幹に乗り宙に舞い上がる。キアランは、花紺青(はなこんじょう)が操るシラカバの幹に、飛び乗った。


 オニキス……!


 雪風を切り裂くように、空を飛ぶ。皆の魔法の守護の光が、キアランと花紺青(はなこんじょう)を包む。


「ありがとう、皆。力が、湧く――!」


「キアランさん!」


 キアランを見つめ、アマリアが叫ぶ。


「キアランさんっ! 私のことは気にせず、オニキスを――!」


 オニキスの手の中、気丈に叫ぶアマリア。


「う……!」


 アマリアが、声を飲み込む。オニキスが手に力を込めていたのだ。アマリアは、悲鳴を上げまいと必死にこらえているようだった。


「アマリアさんっ!」


「ふん。気に入らんな――!」


 オニキスは苛立ったように吐き捨て、握りしめたアマリアを自分の顔のそばに近付けた。


「…………!」


 アマリアの声は聞こえない。悲鳴を飲み込んで、必死で耐えているに違いない。


「泣き叫べばいいじゃないか。痛い、苦しいと!」


 オニキスの冷酷な声に、アマリアは沈黙を保ち続ける。


「アマリアさんーっ!」


「握り潰されてしまうぞ? 人間など、実にもろいもの――」


「やめろーっ!」


「キアランの目の前で、お前を潰す……! どれほど爽快な気分だろうな?」


 アマリアの声は聞こえない。


 アマリアさん!


 キアランと花紺青(はなこんじょう)を乗せたシラカバの幹が、突き進む。

 オニキスの急所、心臓の辺りへ向かって――。


 頼む、間に合ってくれ……!

 

 不思議だった。

 考えたくもない、恐ろしい悲劇の音は聞こえない。

 アマリアの、悲鳴も。

 オニキスは、アマリアを見ていた。


 なぜ……?


 キアランは、疑問に思う。

 オニキスは、アマリアを見ている。

 天風の剣が、今にも突き立てられようとしているのに。

 ただ、見ている。アマリアだけを――。


 なぜ……? あのときも、オニキスは、奇妙な反応を――。


「私を、殺しなさい! 四天王オニキス!」


 アマリアの叫び声が、キアランの耳に届く。


 だめだ! アマリアさん! そんなことを言ったら――。


「オニキス! 四天王ともあろう者が、人間一人に、なにをそんなに手間取っているの?」


 アマリアさん! だめだ、どうしてそんな挑発――。


 ふっ、と、消えた。

 目の前にあるのは、雪空。

 

 え……?


 キアランは、当惑する。

 天風の剣が、突き刺す寸前、オニキスの姿が消えていた。


「! アマリアさん!」


 急ぎ、キアランと花紺青(はなこんじょう)は飛行軌道を変える必要があった。

 オニキスが消え、支えを失ったアマリアが、急降下していたのだ。


 オニキスは、アマリアさんを手放して、消えた……?


 なにが起きたのか、起きているのか、キアランにはわからない。

 天風の剣を腰に差し、キアランは両腕を広げる。


 ドッ。


 腕に感じる、確かな重み。


「アマリアさん……!」


「キアランさん!」


 キアランの腕の中に、アマリアがいた。


「やったね!」


 花紺青(はなこんじょう)が歓喜の声を上げる。

 胸いっぱいに広がる、優しい香りと切望していたぬくもり。

 キアランは黙って、アマリアを抱きしめていた。




 どういうわけだ……!


 オニキスは、自分の作った空間の中にいた。


 なぜ、私はこんなにも混乱している……?


 オニキスは、自分の胸をかきむしるように手を当てる。

 心に浮かぶのは、アマリアの強い眼差し。そして、あたたかで、柔らかな感触。


 私は、キアランの目前で殺すため、あの女を捕まえていたのではなかったのか……?


 不可解だった。

 すべては、あの女の魔法のせいに違いない、オニキスはそう結論付けようとした。


 なぜ、こんなにも落ち着かないのだろう……?


 同じことを繰り返している、自分でもわかっていた。


 四天王になっても、高次の存在を取り込んでも、どういうわけか、心が乱れたままだ――。


 不完全だ、とオニキスは感じる。


 四聖(よんせい)を取り込んだら、私は完全体になるのだろうか……?


 他の魔の者たちが活動を始めていると、オニキスも気付いていた。


 あの女のことを考えるのは、後だ。他の魔の者に取られる前に、四聖(よんせい)を手にしなければ――!


 そう決意したオニキスの頭の中、引き戻されるように叫び声が思い出される。


『私を、殺しなさい! 四天王オニキス!』

 

 オニキスは、顔をしかめた。

 傷の癒えたはずの胸を、強く押さえ続ける。


 なぜ――。


 この痛みは、と思う。

 もう傷のついていないはずの、胸。

 

 これは、痛み、なのか……?


 オニキスの心の中、渦巻く疑問と怒り。怒りは、いったいなにに対してなのか、もやもやと、出口を求めくすぶり続ける。

 動揺を鎮めようと、オニキスは自分自身に問う。


 私はいったい――、なにを望んでいるのだろう……?


 ふと、望み、と思った。四聖(よんせい)を得ること以外に、得体の知れない欠乏感を解消できるなにかがあるのだろうか。


『キアランさん!』


 もし、とオニキスは考える。


 あのように、私の名を呼んでくれたら。


 もし。それはきっと気まぐれに浮かぶ仮定に過ぎないのだろう。そのとき思考は、流れる雲のように、とりとめもなく自由だった。


 敵意ではなく――、他のもの――、たとえば――。


 たとえば、と、立ち止まる。そして、思索の雲は動き、現れたのは――。 


 笑顔を向けてくれたなら……?


「ばかな……!」


 なぜそんなことを考えつく、自分への怒りのあまり、ぎりぎりと奥歯を噛みしめる。


「なんなんだ、いったい――!」


 オニキスは、自分の右手を強く握りしめた。

 鋭い爪が、己の肉を突き刺す。血が滴るのも構わず、オニキスは空っぽとなった手を、握りしめ続けた。

 握れば握るほど、空っぽであるということを強く意識する。


 ついさっきまで、そこには――。


 手に感じる痛みより、傷のないはずの胸の痛みが、オニキスを苛み続けていた。

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