第172話 なぜ
「ふふふ……! 間もなく、我らの待ち望んでいた刻がくる――」
地の底から響いてきたような、低く恐ろしい声。蛇のように蠢く黒髪の下、光る金の瞳が、笑う――。
四天王オニキス――!
「人間ども。お前らなど私の敵ではない――」
オニキスの姿は、見る間に大きく、見上げるほど巨大なものに変化していった。抱えていたアマリアが、いつの間にか人形のように小さく見える。オニキスは、腕に抱えていたアマリアを、右手のひらで握りしめるように持ちかえた。
魔導士オリヴィアが、さっ、と魔法の杖を掲げる。
「砕氷鳳凰……!」
光を放つダイヤモンドダストのような氷のつぶてが集まり、九本の尾羽を持つ鳳凰のような姿を形どる。
魔導士オリヴィアが放つ、攻撃魔法だった。
無数の氷のつぶてからなる、光り輝く鳳凰は、勢いよく四天王オニキスの胸元に向かって飛んで行く。
「四天王オニキス、氷となりて砕け散れ……!」
ライネが、二本の枝が絡み合ってできたような古めかしい魔法の杖――もう一本のシトリンの魔法の杖――を掲げ、呪文を叫んだ。
「雪よ、四天王オニキスの力を封じ給え……!」
ダンも同時に呪文を叫ぶ。
呪文を発動する瞬間、ダンは、どっしりとした樹木の幹のような魔法の杖――翠の魔法の杖――の先端をオニキスに向け掲げていた。
「悪しき魔の王、聖なる大地の力にて、滅せよ――!」
他の守護軍の者たちも、一斉に攻撃魔法を唱えていた。
いくつもの大きな爆発音。煙に包まれるオニキス。
攻撃魔法の影響が少しでも長く続くよう、オリヴィアは強く念じ続けていた。
オリヴィアの全身が、不思議な力で光り輝き、深みのある葡萄色をした長い髪が揺れる。オリヴィアは術を行使しながら、思う。
アマリアの身に影響が及ばないようにしながらも、皆の魔法は確かに命中している……! いったい、我々人間が結集した力は、今のオニキスにどの程度のダメージを与えることができたのか――。
煙が霧散して、オニキスの黒い輪郭が見えてきた――。
「ふむ……。なるほどな。なかなかやるものだな、人間ども。しかし、私は倒せぬぞ。その程度では、な」
聞こえてきたのは、ごく平静なオニキスの声。
オリヴィアの攻撃魔法はもちろん、ライネやダン、守護軍の攻撃魔法は、確かに有効だった。しかし、大きなダメージを与えることは叶わず、オニキスに当たって砕け、きらきらと光のしずくのように落ちていた。
オニキスは、視線を下方に向ける。そして、唇の両端をゆっくりと吊り上げる。
世界でただひとりの、特別な存在、オニキスにとっても、因縁の、特別なひとりに向け――。
「キアラン。お前は、己の無力さを噛みしめながら、死ぬのだ――」
キアランの心は、不思議なほど静かだった。
静かでなければならなかった。
『信じることだな』
シルガーの声を思い出していた。
『瞬間。必ず勝機があるはずだ』
『今までだって、あっただろう……?』
『今ここに生きているというのは、そういう瞬間をすくいあげてきた結果だ。そうは、思わないか?』
そうだ。私は数々の危機を乗り越えてきた。自分の力ではなく、誰かの、皆の力があってこそだが――。
シルガーの、揺るがぬ瞳。ライネの、ダンの、花紺青の、皆の、自分を見つめる瞳。
彼らは、確かにキアランを信じている。だからきっと、力を貸してくれたのだ――。
見上げるようなオニキス。キアランは、四天王の息子でありながら、飛ぶことも魔法を使うこともできない。アマリアを救い出し、オニキスに勝つのは、奇跡に近いと思う。
しかし、キアランは天風の剣を握りしめる。
奇跡に頼るんじゃない。私が、奇跡を生み出すんだ――!
「花紺青」
キアランは、傍らの花紺青に呼びかける。
「私を乗せて飛んでくれ」
「もちろん!」
花紺青は、シラカバの幹に乗り宙に舞い上がる。キアランは、花紺青が操るシラカバの幹に、飛び乗った。
オニキス……!
雪風を切り裂くように、空を飛ぶ。皆の魔法の守護の光が、キアランと花紺青を包む。
「ありがとう、皆。力が、湧く――!」
「キアランさん!」
キアランを見つめ、アマリアが叫ぶ。
「キアランさんっ! 私のことは気にせず、オニキスを――!」
オニキスの手の中、気丈に叫ぶアマリア。
「う……!」
アマリアが、声を飲み込む。オニキスが手に力を込めていたのだ。アマリアは、悲鳴を上げまいと必死にこらえているようだった。
「アマリアさんっ!」
「ふん。気に入らんな――!」
オニキスは苛立ったように吐き捨て、握りしめたアマリアを自分の顔のそばに近付けた。
「…………!」
アマリアの声は聞こえない。悲鳴を飲み込んで、必死で耐えているに違いない。
「泣き叫べばいいじゃないか。痛い、苦しいと!」
オニキスの冷酷な声に、アマリアは沈黙を保ち続ける。
「アマリアさんーっ!」
「握り潰されてしまうぞ? 人間など、実にもろいもの――」
「やめろーっ!」
「キアランの目の前で、お前を潰す……! どれほど爽快な気分だろうな?」
アマリアの声は聞こえない。
アマリアさん!
キアランと花紺青を乗せたシラカバの幹が、突き進む。
オニキスの急所、心臓の辺りへ向かって――。
頼む、間に合ってくれ……!
不思議だった。
考えたくもない、恐ろしい悲劇の音は聞こえない。
アマリアの、悲鳴も。
オニキスは、アマリアを見ていた。
なぜ……?
キアランは、疑問に思う。
オニキスは、アマリアを見ている。
天風の剣が、今にも突き立てられようとしているのに。
ただ、見ている。アマリアだけを――。
なぜ……? あのときも、オニキスは、奇妙な反応を――。
「私を、殺しなさい! 四天王オニキス!」
アマリアの叫び声が、キアランの耳に届く。
だめだ! アマリアさん! そんなことを言ったら――。
「オニキス! 四天王ともあろう者が、人間一人に、なにをそんなに手間取っているの?」
アマリアさん! だめだ、どうしてそんな挑発――。
ふっ、と、消えた。
目の前にあるのは、雪空。
え……?
キアランは、当惑する。
天風の剣が、突き刺す寸前、オニキスの姿が消えていた。
「! アマリアさん!」
急ぎ、キアランと花紺青は飛行軌道を変える必要があった。
オニキスが消え、支えを失ったアマリアが、急降下していたのだ。
オニキスは、アマリアさんを手放して、消えた……?
なにが起きたのか、起きているのか、キアランにはわからない。
天風の剣を腰に差し、キアランは両腕を広げる。
ドッ。
腕に感じる、確かな重み。
「アマリアさん……!」
「キアランさん!」
キアランの腕の中に、アマリアがいた。
「やったね!」
花紺青が歓喜の声を上げる。
胸いっぱいに広がる、優しい香りと切望していたぬくもり。
キアランは黙って、アマリアを抱きしめていた。
どういうわけだ……!
オニキスは、自分の作った空間の中にいた。
なぜ、私はこんなにも混乱している……?
オニキスは、自分の胸をかきむしるように手を当てる。
心に浮かぶのは、アマリアの強い眼差し。そして、あたたかで、柔らかな感触。
私は、キアランの目前で殺すため、あの女を捕まえていたのではなかったのか……?
不可解だった。
すべては、あの女の魔法のせいに違いない、オニキスはそう結論付けようとした。
なぜ、こんなにも落ち着かないのだろう……?
同じことを繰り返している、自分でもわかっていた。
四天王になっても、高次の存在を取り込んでも、どういうわけか、心が乱れたままだ――。
不完全だ、とオニキスは感じる。
四聖を取り込んだら、私は完全体になるのだろうか……?
他の魔の者たちが活動を始めていると、オニキスも気付いていた。
あの女のことを考えるのは、後だ。他の魔の者に取られる前に、四聖を手にしなければ――!
そう決意したオニキスの頭の中、引き戻されるように叫び声が思い出される。
『私を、殺しなさい! 四天王オニキス!』
オニキスは、顔をしかめた。
傷の癒えたはずの胸を、強く押さえ続ける。
なぜ――。
この痛みは、と思う。
もう傷のついていないはずの、胸。
これは、痛み、なのか……?
オニキスの心の中、渦巻く疑問と怒り。怒りは、いったいなにに対してなのか、もやもやと、出口を求めくすぶり続ける。
動揺を鎮めようと、オニキスは自分自身に問う。
私はいったい――、なにを望んでいるのだろう……?
ふと、望み、と思った。四聖を得ること以外に、得体の知れない欠乏感を解消できるなにかがあるのだろうか。
『キアランさん!』
もし、とオニキスは考える。
あのように、私の名を呼んでくれたら。
もし。それはきっと気まぐれに浮かぶ仮定に過ぎないのだろう。そのとき思考は、流れる雲のように、とりとめもなく自由だった。
敵意ではなく――、他のもの――、たとえば――。
たとえば、と、立ち止まる。そして、思索の雲は動き、現れたのは――。
笑顔を向けてくれたなら……?
「ばかな……!」
なぜそんなことを考えつく、自分への怒りのあまり、ぎりぎりと奥歯を噛みしめる。
「なんなんだ、いったい――!」
オニキスは、自分の右手を強く握りしめた。
鋭い爪が、己の肉を突き刺す。血が滴るのも構わず、オニキスは空っぽとなった手を、握りしめ続けた。
握れば握るほど、空っぽであるということを強く意識する。
ついさっきまで、そこには――。
手に感じる痛みより、傷のないはずの胸の痛みが、オニキスを苛み続けていた。




