第156話 赤朽葉と、黒羽
大きな音を響かせながら、大木が倒れる。衝撃で、辺り一面煙のように雪が舞い上がる。
赤朽葉の鋭い爪が、木をなぎ倒していた。
赤朽葉が切り裂くはずだった標的は、黒羽。黒羽は、爪が襲いかかる一瞬前にその場から飛び避けていたのだ。
黒羽の艶やかな赤い唇が動く。刃とも弾丸ともなる魔の力の加わった、呪文となる言葉を、生み出そうとしていた。
「うっ……」
雪風とは違う、真横から風が迫る。
黒羽から呪文が発せられる前に、赤朽葉の左腕が黒羽の右側頭部を破壊しようとしていた。黒羽は、左腕が到達する前に、身をかがめながら後方に飛び下がる。
攻撃から次の攻撃への時間が非常に短い……! 攻撃呪文を発動させる隙が無い……!
黒羽がそう感じたその瞬間に、光る軌道。襲い来る、赤朽葉の爪だ。黒羽は舌打ちし、なんとか身をかわす。
ドーン……!
思いがけない爆音。
黒羽の長い黒髪が、大きく乱れる。黒羽の目の前に、黒い物体が落下し、爆発していた。白銀が弾いた黒裂丸の攻撃だった。
そうか。気にかけるべきは、目の前の敵だけではない。
黒羽は、寸前に察知し、右手に大きく飛んで避けたので、爆発によるダメージは免れていた。
白銀の身を案じつつも、黒羽は急ぎ考えを巡らす必要があった。
黒羽は、雪が荒れ狂う空を見上げる。
空から、戦うか。
魔の者にとって、翼がないことがすなわち飛べないことではないが、今までの攻撃の内容から、赤朽葉はおそらく、地上戦が得意な魔の者のように思われた。黒羽は、黒裂丸の流れ弾のようになった攻撃から逃れるためにも、自分に有利な空へ逃れようと考える。
空は、稲光のような光と凄まじい音。シルガーと青い翼の従者が、激闘を繰り広げていた。下からも、天に昇る赤い龍のような風が、らせんを描きながら吹き上がるのが見えた。
あの赤い風は、四天王レッドスピネルの衝撃波――。
空は、シルガー、青い翼の従者、レッドスピネルの衝撃波と、大きなエネルギーのぶつかり合う激戦場となっていた。
今、空に向かうのは危険……!
黒羽は、駆け出した。地上で決着をつけるしかないと判断した。木々の間を走り抜け、黒羽は急いで次の策を考える。
赤朽葉の破壊力はすさまじく、また硬い棘のような毛で覆われた体も頑強。打撃や私の長い髪を使った攻撃など、接近戦は不利。また、私の放つ衝撃波では、どの程度ダメージを負わせられるか……。やはり、遠隔からの呪文攻撃が一番か――。
黒羽は息をのみ、長いまつ毛にふちどられた目を、大きく見開いた。
速い……!
見上げるほどの大きな体でありながら、物音を立てず気配を極限まで消し、赤朽葉が移動していた。
黒羽の目の前に。
しまった――!
その場から移動しなければ、黒羽のしなやかな筋肉が、躍動しようとしていた。しかし――。
「うっ……!」
黒羽は、思わずうめき声を上げる。
赤朽葉の大きな手が、黒羽の背にある、コウモリのような形の両翼を掴んでいた。
これは……!
「黒羽とやら。私は、ずば抜けた鋭い嗅覚と共に、鋭い目も持っている」
黒羽は、息をのんだまま、美しい蝶の標本のように動きを止めていた。
黒羽には、赤朽葉がなにを言おうとしているのか、もうわかっていた。
「通常、急所を探れるのは、自分よりはるかに力の劣る魔の者相手までという。しかし私は、自分と同等、もしくは少し上程度の魔の者までなら、急所を見つけられるのだ――」
すぐ後ろで、爆発音が聞こえる。シルガーたちか、あるいは弾かれた黒裂丸の攻撃。どちらによるものか、黒羽にはわからない。と、いうより、黒羽の耳には、爆発音すら響いていなかった。
聞こえるのは、赤朽葉の声。目の前の、自分の命を握る、男の声――。
ああ。アンバー様。私も――。
ぎり、赤朽葉の手に、力がこもる。
どくん、黒羽の魔の力の中枢が、ひとつ脈打つ。
「黒羽。お前の急所は、その両羽の付け根部分だな――」
黒羽は、思う。自分の攻撃呪文は、もう間に合うまい、と。
黒羽の目は、赤朽葉を映す。しかしそのとき、黒羽の瞳は、亡き主、アンバーを見ていた。
黒羽は、心の中で呟く。
アンバー様。私も、あなたのもとへ――。
黒羽の唇は――、微笑みを浮かべていた。
白い雪が、渦を描く。舞い上がる、黒髪。
風に紛れて、声が聞こえた気がした。
『……命は、大切にしたほうがいいですよ』
それは、四天王アンバーの声。
黒羽の脳裏によみがえる、懐かしい声。
それは、四天王シトリンたちに向けた言葉、笑顔――。
『生き急いではいけませんよ。決して――!』
それも、シトリンたちへの言葉。なぜ、今思い出すのだろう、黒羽は不思議に思う。
私にではなく、四天王シトリンたちへ、おっしゃった言葉。でも、それが、アンバー様のご意思。他者に対する確かな思い――。
続けて聞こえる、アンバーの声。それは、雪嵐の音を、黒羽の願望が勝手に頭の中で置き換えているに過ぎないのだろうけれど――。
『白銀、黒羽。本当に、ご苦労でした。あなたがたは、もう自由です――』
黒羽は、ハッとした。
アンバーの最期の言葉。その真意を、その瞬間、はっきりと理解する――。
黒い瞳が、揺れる。頬に、あたたかいものが流れ、そして落ちる。
アンバー様は、最期まで、私たちが生きることを強く願ってくださっていたのだ――!
空が明滅し続けている。気が付けば、絶え間なく爆音が響いていた。
黒羽の意識は、現実へと戻る。
そうだ……! 私には、新しいご主人様がいらっしゃるのだ……!
地上から、赤い龍のような光が昇る。四天王レッドスピネルの、強力な破壊エネルギー。
黒羽の瞳に、力強い光が宿る。
シルガー様を、お守りせねばならない……!
「……なぜ、笑っていた……? そして、それは……、涙、と呼ばれるものか……?」
赤朽葉の手は、ずっと動きを止めていた。黒羽が、微笑んでいたからだ。とても美しい、微笑みを浮かべていたから――。
黒羽の中で止まっていた時間が、動き出す。
アンバー様……! あなた様のご恩に報いるためにも、私は自分の命の炎を燃やし続けます……! そして、必ずシルガー様をお守りする……!
黒羽は、叫んだ。自分の持つ魔の力、すべてを乗せ――。
「我が羽を掴む汚らわしき二つの腕、跡形もなく砕け散れ……!」
ザッ……!
「むっ……!」
赤朽葉の両腕から、血が噴き出す。しかし、黒羽の呪文の通り、砕け散ることは叶わなかった。
それで、上出来だった。一瞬ひるんだ赤朽葉、黒羽は赤朽葉の手から逃れることができた。
「さっき私が笑っていた理由、そして涙を流した理由、明かすわけにはいかない。急所を見通すあなたのその目でも、きっとそれはわからないはず」
黒羽は、さっと羽をはばたかせ、高い木の枝の上から赤朽葉を見下ろす。
「でも、これからは違う理由で笑う! 私は生き抜く! 最期の瞬間まで、使命に生きる……!」
赤朽葉は、両腕から血を流しながら黒羽を見上げる。
「使命――、従者として、か」
「そう……! 私は、従者、黒羽……!」
「死」ではなく、「生」を見つめて笑おう、そう黒羽は誓う。
きっと、アンバー様も喜んでくださるはず――。
黒羽の瞳には、アンバーの笑顔が見えていた。
「……従者か。お互い、呪われた身だな」
赤朽葉は、一瞬身をかがめ、雪を蹴散らしながら飛び上がる。
「そんな運命を背負っていなければ、もっと楽に生きられるだろうにな……!」
赤朽葉の爪が、ふたたび黒羽に襲いかかろうとしていた――。




