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天風の剣  作者: 吉岡果音
第九章 海の王
141/198

第141話 課された運命の重り

 空が、震えている。

 激しい戦いの波動を感じる。

 カナフは、険しい表情で雪空を見上げていた。


「ようやく見つけましたよ、カナフ」


 カナフの目の前に、黒い髪の高次の存在が立っていた。

 

「……今は、私のことを構っている場合ではないのではないでしょうか」


 カナフは、キアランと花紺青(はなこんじょう)がパールのほうへ向かったことを、離れた場所から感じていた。しかし、今自分がいる場所のすぐ近くに、自分以外の高次の存在の気配があることも感知していた。

 キアランたちのほうへ、たった今飛び立つべきかどうか、決めかねているうちに、黒い髪の高次の存在が現れたのだ。


「……シリウスさんが、命を落としたことはもう知っていますね?」


 黒い髪の高次の存在が、まっすぐカナフを見つめたまま尋ねる。


「彼の――、悲し過ぎる最期を――」


 黒い髪の高次の存在は、静かに呟く。

 黒い髪の高次の存在の、美しい彫像のような無機質な表情の奥底に――、大きく横たわる悲しみが見えた気がした。


「……ええ。もちろん――。私は近くにいて、なんの役にも立たなかった」


 あのあと、キアランを助けることはできた。でも、あのときキアランや天風の剣、花紺青(はなこんじょう)を守るために、犠牲になるべきは、シリウスではなく自分だったのだ、カナフは拳を握りしめ、悲しみと悔しさに震える胸中を吐露していた。

 それは、ただの追手に過ぎなかった黒い髪の高次の存在に、シリウスへの哀悼、彼自身の心というものを感じられたから――。


「どうしてなのでしょう」


 黒い髪の高次の存在から漏れ出た白い息が、雪の合間に揺れて見える。


「どうして、人間や魔の者と深く関わる者は、変わってしまうのでしょう」


 高次の存在が背負う、白い翼。雪のように白く、軽い両翼。しかし、今のカナフには、自分と目の前の黒い髪の青年の背にある翼が、自由に空を飛ぶ道具ではなく、課された重りのように感じられていた。

 生まれつきの、運命の、重り――。

 カナフは、微笑んでみた。どうしても、泣いているように見えてしまうかな、そう少し戸惑いながら。


「私は、彼らに憧れています。昔から」


「彼ら、とは?」


 黒い髪の高次の存在は、聞き返す。カナフの言葉の意味が、まったくわからないようだった。


「魔の者や、人間です」


 言い切ったあとでカナフは、泣き顔だったような自分が、今はちゃんと笑顔になっているということに気付く。

 黒い髪の高次の存在は、目を丸くしていた。彼にとってカナフの言葉は、まったく理解しがたいものだったに違いない。


「彼らは、自分の心に、とても正直に生きていますから」


「どうして――」


 黒い髪の高次の存在は、呟きながら首を大きく左右に振った。


「彼らは、それぞれの生きる道を自分で見つけ、自分ひとりで歩いていきます」


「どうして――」


 黒い髪の高次の存在は、同じ言葉を繰り返した。今度は、消えてしまいそうなかすかな声で。


「きっと、シリウスさんも、そしてヴァロさんも、彼らを知り、彼らの心と触れ合うことで、心が動き、自分自身の気持ちというものを、大切にしたくなったのでしょう。私が、そうだったように」


「……犠牲になるのが、自分自身の気持ち、とでも――?」


 黒い髪の高次の存在が、叫んでいた。

 叫び――、それは、心の、魂の声。

 黒い髪の高次の存在は、驚いたような顔をした。感情のまま叫ぶという自分の行動が、自分で信じられない、というように。

 カナフは、ゆっくりと首を左右に振る。


「いえ。守りたい。きっと、そう強く感じたのでしょう」


「守る? どうして――!」


「ひとつひとつちゃんと違う、かけがえのない魂を持った存在を――」


 カナフは、早くキアランのほうへ行かねば、と思っていた。しかし、そのいっぽうで、黒い髪の高次の存在との会話を、途中で切り上げて飛び去りたくはない、そんなふうに感じていた。


「……もちろん、私たちだって、かけがえのない魂を持っています。犠牲になることが、よいことだというわけでもありません。また、最初に犠牲となった我らが同胞は、純粋に世界を守りたかったのでしょう。我々の世界も存在も、等しく世界にとって尊いものです。もちろん、人間の世界も、魔の者の世界も同様です。ただ――」


 カナフは思う。自分の気持ちを正確に伝えられるだろうか、と。伝えることが、今の会話が、果たして意味を持つのだろうか、と。


 伝えられるか、意味があるのかなんて、私が考えることじゃない。私は、ただ話しておきたいから、話しているだけなんだ。


「均衡を守る役割の私たちだって、生きものです。もっと素直に自分の気持ちで行動を選択してもいいんじゃないでしょうか?」


 雪が、舞い降りる。純白の、翼に。溶け合う、白い輝き――。


「……結局、自己弁護じゃないですか」


 黒い髪の高次の存在は、呆れた、といった表情を浮かべた。

 黒い髪の高次の存在は、きっと気付かない。そんな「呆れる」という表情が、いつもの高次の存在らしい表情ではない、ということに。


「ええ。そうですよ。捕まりたくないですもん」


 カナフは肩をすくめ、いたずらっぽく笑う。本音半分、冗談半分だった。


 ただの自己弁護ととられても構わない。それが私の、伝えたかったこと――。


 カナフは飛び立とうとした。黒い髪の高次の存在から逃れられるかどうか疑問ではあったが、やれるだけのことはやってみようと思った。


 私の翼で、なんとか逃げ切り、キアランのほうへ――!


「……ところで」


 思いがけず、ごく普通の調子で黒髪の高次の存在に声をかけられ、カナフは飛ぶタイミングを逸していた。


「え」


「……カナフ。ここのところなぜか、あなたと私は関りが多くなっています」


 あきらかに飛ぶ姿勢を見せたカナフだったのに、黒い髪の高次の存在は、それを問い詰めもせず、淡々とした調子で言葉を続けていた。

 カナフは、少し不思議に感じながらも、会話に応じることにした。


「……ええ。そうですね。不思議と」


「あなたは、知っているのでしょうか」


 今度は、カナフがきょとん、とした顔をする。


「私の名を」


 カナフは目を丸くしていた。そういえば、知らない。尋ねる必要がなかったから。


「私の名は、オーレです」


 そのときのオーレは、少しぎこちなく――、しかし間違いなく、笑っていた。




 アステール……!


 シトリン、(みどり)、蒼井の衝撃波の軌跡、そして大きく風を生みながら、めまぐるしく動き続ける巨大なパールの腕や尾をかいくぐり、キアランと花紺青(はなこんじょう)は進み続ける。


 もう少し、もう少しでパールの右腕に……。


 花紺青(はなこんじょう)の板の操縦は的確で、素早く力強いパールの動きを、うまく読んでいた。もう少しで、パールの右腕に刺した天風の剣を掴める、そう思っていた。

 そのとき、パールの青い瞳が、ぎょろり、とキアランのほうへ向いた。

 キアランは、息をのむ。

 パールは、歌うように話し出した。


「ああ。そうだね。この不思議な剣。これは厄介なやつだね。簡単に、今の僕の体に突き刺さった。弾くことのできたシルガーの剣とは全然違う――」


 しまった……!


 パールは、左の人差し指と親指で天風の剣を摘み、刺さった棘を取るように、いとも簡単に抜き取った。


「これ、魂があるよね? 僕にもしっかり感じられるよ。ごめんね、君の大事な剣なんだろうけど。でも、手放した君が、悪いんだよ?」


 パールは、にっこりと微笑む。見る者を戦慄させる、どこまでも純粋で、どこまでも邪悪な笑み。そして――、掴んだ天風の剣を、シトリンや(みどり)、蒼井のいない方角を狙い、遠くへと放り投げる。


「アステール!」


 響き渡るキアランの絶叫。

 天風の剣は、雪の向こうへ飛んで行き、そしてそのまま見えなくなった――。

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