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天風の剣  作者: 吉岡果音
第九章 海の王
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第132話 満月前夜

 エリアール国から遠く離れた、ある異国の地。

 雪も降らない冷たい深夜、小望月が空に浮かぶ。


 明日の晩、ついに空の窓が開く――!


 赤子を胸に抱いた、長い黒髪の女が、月を見上げて笑みを浮かべた。

 赤子は、異形の姿をしていた。

 赤子の頭部は、成長途中の胎児のようだったが、体は黄褐色の虫のさなぎのような形状をしていた。成長すれば、古い皮膚を突き破って新しい体が現れ、また形態が変わるのかもしれない。

 赤子は、ギ、ギ、と不気味な鳴き声を上げた。


「血が騒ぐのですね。私を含め、世界中の魔の者が皆、興奮し、喜びに震えています」


 そう述べてから、女は、ふう、とため息をつく。


「でも、残念ながら間に合いますまい。この度の空の祭りは、四聖(よんせい)の気配がまるで感じられないこの場所から、見上げているしかありません。次の祭りには、きっと――」


 女は、知っていた。自分が赤子を抱えているのは、赤子の術のせいだ、と。

 こうして愛しげに赤子に話しかけているのも、赤子に操られているからだ、と。

 赤子の背には、翼があった。小さな、漆黒の四枚の翼。


 私は、この赤子の親でもなければ、従者でもない。ただの、魔の者だ。


 どうしてこの赤子に出会ったのか、女は思い出せない。きっと、呼び寄せられたのだろう。

 女は、赤子の目的を知っていた。知っていたのに、抗えない。どうしても、抗いたいと思えない。

 月が、黒い雲に隠れる。

 女を見上げる赤子の目が、赤く光る。血塗られたような、赤い目玉――。


 ああ。なぜだろう。この赤子が、愛おしい。愛おしくてたまらない。この子に、すべてを捧げたい――。


 女は、熱に浮かされたような微笑みを浮かべる。


「おなかがすいたのですね。四天王――」


 赤子が大きく口を開ける。顔すべてが口だったのではないかと思われるほどの大きな口。歯は四列に並び、すべての歯が牙のように鋭い――。

 水に溶かした墨のような雲が流れ、ふたたび月が辺りを照らす。

 

 ギ、ギ。


 さなぎのような体に、バッタのような足が生えていた。赤子は、ぴょん、ぴょん、と跳ねながらどこかに消えた。確かに、その体ではそう遠くまで行けそうになかった。

 四聖(よんせい)を探すより、赤子には先にやるべきことがあった。

 従者を見つけることだ。

 生まれついての四天王の赤子、通常なら、すでにたくさんの従者が集まってくるはずだった。しかし、なんらかの事情で従者たちの姿はない。四天王の座を巡った争いが起きたのか、外部の魔の者からの襲撃にあったのか。赤子が気付いたときには、目の前にはたった一体の魔の者しかいなかった。腹をすかせた赤子は、それが従者かどうかもわからぬまま、目の前にいた魔の者を夢中でたいらげてしまっていた。

 それから、空の窓が開く前の特別な時間帯のため、従者に生まれついた者たちさえも、祭りの前の熱狂の中にいるのか、赤子の前に一向に現れない。赤子は自分で従者を探さなければならなかった。

 赤子が去ったあと、辺りはなにもなかったように静けさに包まれる。

 血の付いた、一房の黒髪だけが残されていた。




 シルガーは、凍った湖の前にいた。

 風が吹く。さざなみが生まれるはずの湖面は、月や星の光を忠実に映している。

 シルガーは、氷の下にある水の世界を見極めようとするかのように、じっと湖を見つめ続ける。


 私は、四聖(よんせい)の居場所を知っている。二体の四天王の急所も知っている。


 二体の四天王とは、パールとシトリン。

 今更、なぜそんなことを考えるのだろう、銀の長い髪が揺れる。

 血が騒いでいた。魔の者の血が。


 殺セ、殺セ――。


「……『殺セ、殺セ……! 四聖(よんせい)ヲ、ソシテソレヲ守ル者ドモヲ殺セ……! ソシテ――! 裏切リ者ノ子ヲ殺セ……!』」


 シルガーの唇に、言葉がついて出る。それは、魔の者に流れる、ある共通の認識。

 シルガーの手に、いつの間にか炎の剣が握られている。


 今まで、退屈をせず過ごしてきた。まったく、風変わりな日々だった。おかげで私は、ずいぶんと変わった。


 だから、どうだというのだろう。変わり続けるというのが生きるということだとするなら、また変わることもあるのではないか、シルガーは自分に問いかける。

 すぐ目の前に、大きな変革のときが近付いている。シルガーは、炎の剣を見つめる。


 すべてを、手にすることもできるのかもしれない。

 

 体中を、血が走る。熱く、冷たく、残酷な血が。

 シルガーは、瞳を閉じた。シルガーの心に映る湖は、海のように波立つ。

 

 殺セ、殺セ、殺セ――。


 シルガーの心は、映し出す。それは、近い未来、自分が作るかもしれない一場面を。

 積み上がる四聖(よんせい)たちの屍。そして、あの従者たちと二体の四天王の死骸。それから、もう一体の四天王も。白い大地は、おびただしい血に染まり、その上にひとり立つ。

 そして――。裏切り者の子、キアラン。彼を倒すのは、いかにもたやすい。いつかのように、炎の剣で貫けばいい。一突き、ただ、それだけでよいのだ――。

 なぜ、血にまみれたキアランは、きっとそう問うだろう。目に涙を浮かべ、なぜ、と。


 あいつはきっと、自分を殺すことより、他の連中を殺したことのほうを問うのだろうな。


 シルガーの袖を掴みながら崩れ落ちるキアラン。シルガーは、難なく天風の剣を手にする。そして、新しい世界を――。


 新しい世界……?


 誰もいない新しい世界。彼らの笑顔が、失われた世界。それはきっと凍った湖のような、無限のさざ波を封じ込めた世界。


 それは、新しい体験に満ちた心躍るものなのか。それとも――、永遠の退屈か。


「シルガー!」


 皆、私の名を呼んだ。


「シルガー」


 たくさんの笑顔が、向けられてきた。少しも――いや、ときには少しはあったかもしれない――ためらわれることなく。


 銀の髪が、強い風に吹き流される。

 あらわになった耳に、冷たいものを感じる。雪が降りだしたのかもしれない。


『魔の者も、互いに癒すことはできるはずだ――。魔の者も、きっと――!』


 キアランの声が、ぽつり、と心に灯る。変わらず照らし続ける星の光のように。


 あいつは、あいつのままだ。魔の者の血が、騒いだとしても。


 シルガーは、銀の瞳を開く。


 殺セ、殺セ、殺セ――。


 ふっ、とシルガーは笑った。

 

「私は、魔の者だ……! 誰の意思にも従うものか……! 私が動くのは、自らの意思のみ……!」


 以前、自分が発した言葉を叫ぶ。言葉は、湖の上を滑り抜け、木々の中へと消えていく。

 氷の下の水の流れは、誰に知られることもない。


「我ながら、ばかげている」


 シルガーは、湖に背を向けた。湖からは、シルガーの表情は見えない。

 片頬で笑っているのは、自嘲か、新たな決意か。

 そして、歩き出す。

 新しい雪が重なり続けていく道に、かすかな足跡を残しながら――。

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