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天風の剣  作者: 吉岡果音
第九章 海の王
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第120話 最高の食事

 美しい夢を見ていられればそれでいい、そう思っていた。

 海の底でずっと静かに眠り続けていたい、そう思っていた。

 しかし、様々な魂と出会ってしまった。様々なエネルギーを、心を知ってしまった。

 夢を見続けるための食事が、いつの間にか変わっていた。


 今、僕の心は熱く、喜びに震えている――。


 もっと刺激を、と思った。

 もっと新しい体験を、自分の外側の世界を知る感動を、突き動かされるように欲した。


 ああ、僕は生きているんだね……!


 風が頬を撫でる。

 自分だけの世界から、外の世界へと飛び立つ喜び。完結した夢のためだけではなく、変わり続けていくための食事。活動し続け外界と関わり続ける中の、夢は副産物であると気付く。


 早く、会いたいよ……! 早く、みんなを、抱きしめてあげたい――。


 四枚の漆黒の翼が躍動する。

 四天王パールは、恍惚の笑みを浮かべた。

 



 ダンは、鉛空の向こう、確実に近付いて来る巨大な魔のエネルギーを見据えていた。

 冷たい風が吹き抜け、愛馬バディが大きく首を振り、たてがみを揺らす。

 ダンは、改めて(みどり)からもらった魔法の杖を握りしめた。


 風向きが変わった――。


 ダンの深みのある茶色の前髪が、今までとは違う方向へ風に吹かれたそのとき――。


「ダン! あんた一人だけ英雄にはさせないぜっ」


 思いがけず、後ろから馴染みの声。ダンは驚き振り返る。


「ライネ……!」


 愛馬グローリーに乗ったライネが、笑っていた。


「ライネ、なぜ来たんだっ。おとりは私だけで……!」


 つい、本心が出てしまった。ダンは、おとりとなるため、そこにいた。

 黙って微笑むライネ。

 ライネはグローリーに視線を落とし、グローリーの月毛色の首元をぽんぽん、と軽く叩いた。そして独り言のように呟く。


「……前にダンにも言ったと思うけど、この馬、グローリーという名前は『栄光』という意味があるんだ」


 グローリーは、ライネの言葉がわかっているのか、つぶらな瞳でダンを見つめ、誇らしげに尻尾を高く掲げる。よしよし、とライネはグローリーを撫でた。

 それからライネはダンに視線を戻し、ニッと笑い、ダンに向かって親指を立てて突き出した。


「グローリーから、ラッキーもらって生き残ろーぜ!」


 ライネ……!


 胸が熱かった。危険も顧みず、ライネは駆け付けてくれた――。

 ダンは、心を震わせつつ小さく呟く。


「……お前にも、魔法をかけておけばよかったな」


「あ? ダン、なんだって?」


 ライネの性格からすれば、充分考えられることだった、ダンは己の判断の甘さを悔いる。


 いや……。ライネ。絶対にお前を死なせはしない……! どんな手を使ってでも、ライネだけは――!


 自分一人で充分だ、ダンは思う。英雄気取りをするな、そうライネは怒るかもしれないけれど。

 そんな思いを悟られぬよう、ダンは精一杯さりげなさを装い、他愛もない質問をした。


「……ライネ。今まで、グローリーの幸運、ご利益あったか」


 ついため息がまじり、涙がにじみそうになる。さりげなさを装う、不器用な自分にとっては大変難しい芸当だ、と密かにダンは自嘲した。

 ライネは、ダンの質問が思いがけなかったようで、目をぱちくりさせた。それから首を傾げつつ天を見上げ、うーん、とうなりつつ腕を組む。


「……あった、んじゃないかなー? たぶん」


 純朴でおおらかなライネは、決意と心の揺れを気付かれまいとするちょっと不自然なダンの態度について、まったく疑問に思わないようだった。


「……きっと、これからがグローリーの初のご利益になるぞ。今までのぶんの、特大のやつな」


 笑い合う。お互い、自然な笑顔だった。

 脅威が近付いて来る。だからこそ、笑い合った。


「生きるぞ。ライネ」


「ああ! ダン、あんたも生きるんだ! なんたって、あのじゃじゃ馬と対等に渡り合える男は、世界中でただ一人、あんたしかいねえんだからな!」


 ソフィアのことだ、ダンは苦笑する。


「彼女は、すぐ幸せになれると思うが――」


 ライネは、大げさな手振りをしつつ自分の耳を塞いだ。


「俺はなにも聞きませーん! 伝言だって聞かねーぜ!」


「ラ、ライネ……」


 ライネはいったんダンを睨みつけ、びしっと指差した。

 

「ダン! 縁起でもない弱気なこと考えてる暇あるんだったら……」


 それから、ふっ、と笑った。


「再会したときに囁く、愛の言葉でも考えとくんだな」


 今度はダンが目を丸くした。そして、たちまち自分の頬が真っ赤になるのを感じた。

 ダンは急いで返す言葉を探す。ライネに返す適切な言葉、それはすぐに見つかった。


「……ライネ。そういうお前も考えておくんだな」


 魔導師オリヴィアとライネの心が近付いていることを、男女のことに疎いダンでも知っていた。そして、喜ばしく思い、おおいに応援したいと思っていた。


「……俺はいつだって考えてるよ。言えるかどうかは別として」


 ライネが口を尖らす。顔も真っ赤だった。


 ライネは、幸せになるべき人間だ。そして、ソフィアさんも、オリヴィアさんも――。


 ライネはああ言ってくれたが、ソフィアの隣には自分よりもっとふさわしい男性が現れる、そうダンは思っていた。


 きっと、皆、幸せになる……!


 アマリアと、キアランも。アマリアとキアランにも思いを馳せ、ダンは少し胸が痛くなる。


 アマリア。ごめん。兄さんも、みんなのところへ先に行くぞ――。


 ダンは、父や母、亡くなった親族たちの顔を思い浮かべていた。




 重い空だった。

 風向きがまた変わった。ダンとライネは、同時に空を見上げた。

 不吉な風に感じられた。冷たく、恐ろしく、不吉な風――。

 

「速度が急に上がった! ものすごい速度でこちらに向かってくる――」


 シュッ……!


 突風。ダンを乗せたバディがいななき、ライネのグローリーもいななきながら立ち上がり、前足をばたつかせた。


「な……!」


 息をのむ。背筋を冷たい汗が流れ落ちる。

 一瞬にして、気温が大きく下がった気がした。まるで凍り付いたような空気に、体が強張る。目が離せない。目を逸らすつもりも、逃げるつもりももちろんないが、強い力で押さえつけられたように、支配されたように体が動かない。

 

「やあ。そっちの黒髪の君は、見覚えがある。だけど、君は初めまして、だね?」


 すらりとした青年が立っていた。流れるような金髪に、すっと通った鼻筋、涼やかな目元の中輝く宝石のような青の瞳。そして一糸まとわぬその姿は、高名な芸術家が創り上げた彫像のようだった。

 完璧に整った肉体美の中、一か所だけ不自然なところがあった。

 右足。右足の指先や足の甲だけが灰色の硬い肌、鋭い赤い爪をつけている。

 シルガーに吹き飛ばされた部分だった。他の魔の者の足をつけたようだ。


 これが、四天王パール……!


 呪文を発動させようとした。しかし、圧倒されるような強大な魔のエネルギーの前に、うまく舌が、唇が、顎が動かせない。

 ライネも、同じようだった。二人は――それぞれの愛馬バディも、グローリーも――、金縛りにあったように立ち尽くす。


 動け、動け、動け……!


 ダンは、自分の体に強く命じた。


 動け、動け……!


 冷や汗だけが流れ続ける。魔法の杖を握る手が、小刻みに震える。


「今まで、僕は早くたくさん食べたいな、そう思ってた」


 捕食者に睨まれた被食者のように動けないダンとライネの反応を気にも留めず、パールは歌うように話し続ける。


「でも、色々出会ってみて、食事は楽しいほうがいいな、もったいなかったなって気付いたんだ」


 パールは、美しく微笑んだ。


「君たちをおいしく食べるには、君たちの大きさに合わせたほうが素敵だなって思ったんだ」


 動け、動け、動け……!


「食べて吸収することで、記憶や感情も僕の中に流れ込んでくる。人間たちは、最高に食事を楽しみたいとき、入れる器にも気を配り、食事を並べる台にも、辺りを照らす明かりにも、流れる音、音楽っていうんだってね、そんなものにさえこだわるんだってね。だから――」


 パールの青い目にぞっとするような強い光が宿り、唇が裂けたように大きく吊り上がる。


「僕も、最高を味わうために工夫してみようと思ったんだ」


 動け――!

 

 時が、流れ始めた。


「風の精霊、悪しき魔を吹き払え!」


「雲間から差す聖なる光、魔を打ち砕けっ!」


 カッ……!


 ダンとライネは、ほぼ同時にそれぞれが手にした魔法の杖を掲げ、パールに呪文をぶつけていた。


 やつの急所は、尾びれのつけ根……! ということはきっと、人間の姿のときは足首……!


 (みどり)からもらった樹木のようなダンの魔法の杖が光り、シトリンからもらった木の枝が絡み合ったようなライネの魔法の杖が光を放つ。


 届け――!


 風が刃となってパールの足首を目がけて走り、雷のような光が大地に落ち、それから輪となってパールの足首を囲む。


 バンッ……!

 

 衝撃で、まるで爆発が起きたように煙が立ち込める。


 確かに、当たった! 強い魔法だったが――。


 ダンは目を凝らし、煙の向こうに意識をとばす。


 四天王パールは――。


 四天王パールは、笑っていた。


「君たち、とても強いね。人間にしては、だけど――」


 ああ、そうだった――。


 ダンは思い出す。キアランやライネ、アマリアの話では、シルガーの攻撃も四天王アンバーの攻撃も、パールに大きな損傷を与えるのは難しいようだった、と。

 絶望に近い思いで呆然とするダンの目に、つう、と流れる黒い液体が目に入る。

 四天王パールの足首が、血に染まっていた。


「うん。それはとっても魅力的だよ」


 蛇のように蠢く金の長い髪。光る青い瞳。

 パールは熱に浮かされたような笑顔を浮かべ、舌なめずりをした。

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