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天風の剣  作者: 吉岡果音
第二章 それは、守るために
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第12話 願いに近い、思い

 森を抜けた。風の向こうに、町が見える。


「キアラン……。大丈夫?」


 心配そうに見上げるルーイに、キアランは微笑みで答えた。


「大丈夫だ。あれからなんの異常もない」


 使い魔という得体の知れないものを体に――おそらく体内に――つけられてしまったキアラン。気にならないかといえば嘘になるが、それがもう逃れられない事実なのであれば、なるべく意識しないようにしよう、そしてそれよりも自分が今生きている、そしてルーイもアマリアも無事であるという喜ぶべき現実のほうへ目を向けよう、そう考えていた。


「町に着いたら家へ連絡するんだろう? それから昼ごはんだ。ルーイ、もうすぐだぞ」


 ルーイが安心するよう、キアランは楽しみな話題に変える。


「キアランさん……」


 アマリアの琥珀色の瞳も、心配の色をたたえていた。


「アマリアさん。ところで、すっかり聞きそびれていたが――」


 キアランは、アマリアの不安も打ち消すように、なるべく明るい声にして尋ねた。とはいえ、もともとほがらかな性格とはいえないキアランである、ほぼ棒読みに近い口調であった。


「なんでしょう……?」


「この馬の名は、なんというんだ?」


「え。あっ……。バームスです」


 アマリアの馬、バームスは、青鹿毛の美しい毛並みをしていた。


「バームス。いい名前だ」


 キアランは、バームスの首のあたりを撫でてやった。バームスは嬉しそうに目を細めて黒く艶やかな尻尾を高く振り上げ、いかにも軽快な足取りになる。そんな様子を見て、アマリアの顔にも自然と明るさが戻る。


「実は、『天風の剣』にも名がある」


「そうなんですか?」


「うん。昨晩名付けた。アステールという」


「アステール! 素敵な名前だね! よろしく、アステール!」


 ルーイが弾んだ声で「アステール」に呼びかける。


「改めて、私はアマリアです。よろしくお願いしますね、アステールさん」


 アマリアも、キアランの腰に差された「アステール」に柔らかな笑顔を向けた。

 キアランは、ルーイとアマリアの、天風の剣への明るく親しみを込めた挨拶を見て、思わず口元をほころばせた。

 当の天風の剣は、というと――。


「あっ! アステールさんも、私とルーイ君によろしくお願いしますって、おっしゃってます……!」


「すごいな! アマリアさんはアステールの言葉がわかるのか……!」


「はい。正確には言葉としてではなく、なんとなく気持ちや仕草がイメージとして伝わってくる感じです」


 アマリアが言うには、アステールは、はにかみながら水色の長い髪を風にそよがせ、笑っていたのだという。


「バームスとアステールも、笑顔で挨拶を交わし合っているようです」


 バームスの蹄がリズミカルな音を響かせる。いつの間にか石畳の街道に入っていた。




 町は、活気にあふれていた。

 街道沿いに様々な店が立ち並び、行きかう人も多い。


「結構大きな町だな。珍しいものもたくさん売られている」


 キアランは、軒先の大きな果物に目を留めた。ひょうたんのような形で、不思議な虹色をしていた。話し好きの店主によると、みずみずしくて大変甘く、栄養もあるらしい。アマリアとルーイも初めて見るようで、目を輝かせて眺めている。キアランは、皆で切り分けて食べる様子を想像し、一つ購入した。


「あっ! あそこに伝書局があります」


 アマリアが赤い屋根の店を指差す。伝書局とは、手紙を配達してくれるところだった。その場で手紙を書き、配達を頼むことができた。

 ルーイが人ごみを縫ってそちらのほうへ駆け出す。アマリアもルーイの後を追ってついていく。キアランは、バームスをいったん通行の邪魔にならない道の端に寄せ、馬上から降りる。


「旅の人。お前さんはずいぶん変わっておるな」


 ふいに声をかけられた。声の主は、黒いフードを被った老婆だった。


「お婆さん……。私のことか……?」


 見知らぬ老婆は、息の抜けたような奇妙な笑い声を立てた。


「お前さん以外に誰がいるというのだ」


「…………」


 キアランは、金の右目で老婆を見据えた。魔の者の気配は感じられない。


「私は、この先の路地で占いをやってる者だよ」


「……どうして私に声をかける」


 老婆は興味深いといった面持ちで、キアランを眺めていた。


「私は数日前、この町で、魔の者を見たのだよ」


「なに……!?」


 キアランは思わず聞き返す、もしかして、その魔の者とは――。

 老婆の目には、老人とは思えない鋭さがあった。


「銀の、長い髪の男だった」


「それは……!」


 やはりシルガーだ、キアランは拳を握りしめた。


「あの魔の者も、奇妙な男だった」


「お婆さん――」


「あれは、旅人の姿をし、人に紛れ、人のように過ごしていた。とても危険ではあるが、人に対する関心は低いようだった。魔の者の中には、人を殺して食う者や人の心を狂わせて楽しむ者がいる。しかしあれは、それらとは違うようだった」


「違う……?」


 キアランの横を、多くの人が通り過ぎていく。しかし、その人々の声も足音も、不思議なくらい耳に入ってこなかった。風が止まり雑踏は消え、まるで老婆と自分、その二人だけの静かな空間にいるように感じられていた。


「私には、過去が見える。本当は、占い師たるもの依頼をしてきたお客の過去しか、見てはいけないものなのだろうけど、私はなにぶん好奇心が強くてね」


 老婆は、ふぇ、ふぇ、とまた奇妙な笑い声を上げた。


「あれの過去には、人の血の匂いがしなかった」


「人の血の匂い――」


 老婆は、キアランを鋭く見据える。


「どちらかというと、あんたのほうが血の匂いがするな」


「私は人殺しなど……!」


 キアランは、自身の潔白を訴えていた。


「そうだな、人は殺してはいない。人を傷つけることもしていない。だが、人以外は斬っておる。その強い力の剣でな――」


「……いったい、なにが言いたいんだ……!」


 老婆の顔に広がる、不気味な笑み――。


「お前さんは、自分に近いものを斬っているな」


「自分に、近い……!?」


 どくん、キアランの耳に、自分の鼓動が大きく聞こえていた。


「なにを……!」


 そのとき、キアランの胸から、深紅のトカゲが飛び出した。


「おお……!」


 老婆は眼前に突如現れた炎のようなトカゲの姿に、たじろいだ。


「くっ……!」


 キアランはとっさに使い魔のトカゲを掴もうとした。しかしその感触はなく、深紅のトカゲはキアランの手をすり抜ける。

 トカゲの姿は、キアランと老婆にしか見えないらしく、通行人は変わらぬ足取りで歩き去っていく。


「そうか……! それのせいか……! お前さんが魔の者に限りなく近く見えるのは……!」


 老婆は、その顔にはっきりと恐怖を貼りつけながら、後ずさった。


「お前さんは、そんな恐ろしいものを……!」


 シルガーの使い魔のせいで、魔の者に限りなく近く見えた……?


 キアランは、密かに安堵していた。もしかして、老婆の目には自分が魔の者そのもののように見えているのでは、と危惧していたのだ。


「お婆さん……! これは、お婆さんの見たという魔の者によってつけられたのだ……! なんとか、取り除く方法は……」


「いけない……! いけない……! もう私はなにも見ない……!」


 老婆は、大きく頭を左右に振りながら、震える声でそう叫んだ。


「お婆さん……! これは、いったい――」


「私は、なにも知らん……!」


 老婆は慌てて駆け出し、あっという間に人の波に紛れ込んでしまった。


「うっ……」


 使い魔のトカゲは、キアランの胸に吸い込まれるようにして消えた。キアランの胸に、一瞬刺すような痛みが走る。


『お前は、人ではないな……!』


 シルガーの声が脳裏に蘇る。


 違う……! 私は人だ……!


 キアランは、心の中で叫ぶ。たくさんの、人が歩き去っていく。いくつもの顔、いくつもの足音――。自分も、その中のただ一つに過ぎないんだ、キアランはそう強く思った。願いに近い、思いだった。いつの間にか握りしめた拳の中の爪が、自分の手のひらに強く食い込んでいた。


「キアラン! お待たせ! 手紙を出してきたよ!」


 ルーイのほがらかな声に、キアランはハッと顔を上げた。


「あ、ああ……」


「キアラン、大丈夫っ? 顔色が悪いよ?」


「いや、大丈夫だ――」


 キアランは、大きく深呼吸をした。平静を装うことにした。


「それより――」


「お昼ごはん……?」


 ルーイがいたずらっぽく首を傾けながら、キアランの言葉を継いだ。


「そうだ……! お昼ごはんだ……!」


 キアランは、とっさに笑顔を作った。ルーイやアマリアを心配させないように。

 

「私は、いい店を探そうと思っていたんだ」


 嘘までついていた。


「えっ? いい店、あった?」


「えっ? い、いや、これから探すところだ」


「なーんだ! これからかあ!」


 ルーイは両手を頭の後ろに組み、笑った。その横でアマリアは――、少し心配そうにキアランを見つめている。キアランは、アマリアにも笑顔を向ける。


 アマリアさんは、私がひとりの間に、きっとなにかあったと感じている……! なにか、なにか話題を振らねば――。


「アマリアさんは、その、なにが、なにが、食べたい、ですか……?」


 たどたどしい口調になっていた。急いで話を振ろうとしたら、まるで女性をデートに誘っているみたいな口ぶりになってしまっていた。キアランは後悔する。かえって怪しさが増してしまったような――。


「キアランさん……。体調は、本当に大丈夫ですか?」


「あ、ああ。本当に大丈夫だ」


「お食事は、キアランさんの体の負担にならないものにしましょう」


「あ、ああ――」


 アマリアの、変わらぬ穏やかな笑み。老婆のこと、自分について、使い魔のこと、そしてアマリアに変に思われなかったか、キアランの心は慌ただしく動いていた。


 大丈夫だ――、きっと――。


 客を呼び込む威勢のいい店主のかけ声。見知らぬ人々の明るい笑い声。そして、ルーイとアマリアの、自分を気遣ってくれる優しい声――。


 私はきっと、大丈夫だ――。


 キアランは街路樹の下、踊る日差しの中、一人呟いていた。




 暗い路地、老婆は一息つく。


「ふう……。好奇心ってやつは危ないねえ……。まったく、見るんじゃなかったよ……」


 老婆は、首を左右に振りながら独り言を呟いていた。先ほど自分が見たものを頭から振り払おうとしながら――。


 さらり。


 目の前を、銀色の糸のようなものがよぎる。美しい、銀色の、なにか――。

 冷たい空気が、老婆を包み込む。


「なっ……!」


 いつの間にか老婆の目の前に、銀の髪の――、魔の者が立っていた。

 銀の髪の魔の者は、ニヤリ、と笑った。吊り上がる、赤い唇――。


「私の過去に、血の匂いがしなかったと……?」


「ひいっ……」


 老婆は飛び下がり、建物の壁に背をつけた。


「ふむ。それならば、今から、その匂いをまとうというのは、どうだろう……?」


 銀の瞳が、冷たい光を放つ。


「お前が、名誉あるその第一号になるというわけだ――」


 老婆は腰を抜かし、壁に背をつけたまま、すべるようにしてしゃがみこんだ。


「ひいい……! すまなかった! すまなかった……! 私はなにも見ていない……! なにも気付かなかった……! どうか、どうか、許されよ……!」


「ふん……。くだらんな――」


 銀の髪をひるがえし、魔の者――シルガー――は老婆に背を向けた。

 老婆は、震えながらただその姿を見送る。


「くだらん……。弱く小さきものを相手にしても、なんの退屈しのぎにもならん……」


 老婆は、地面に座り込んだまま、ただ呆然としていた。

 

「ふふ……。私を覗き込もうという人間は、どんな強さを持つ者かと思ったのだが、とんだ無駄足だったな――」


 銀の髪が遠ざかる。暗闇に、溶け込むように――。

 町の喧噪、子どもの笑い声が老婆の耳に届く。

 冷たい空気は嘘のように消え、老婆の肌に昼間のぬくもりが戻る。

 老婆は、自分が命拾いしたことを知った。

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