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天風の剣  作者: 吉岡果音
第九章 海の王
112/198

第112話 最期の時間くらい

「これは、あのときの術……」


 四天王パールは、うつろな瞳で呟いた。

 四天王アンバーの術「封印の鎖」が、パールの尾の部分からすぐに全身へと広がっていく。

 やがて、パールの動きが止まった。


「よかった……。一応、術が効いているようですね」


 冷静な声でアンバーは呟く。


「この前のときより、私自身の状態はよいですが、やつの力自体が格段に増しています。術が有効な時間や効力は、あのときより劣るかと――」


「やつの急所を破壊する!」


 アンバーの説明を遮り、シルガーが叫ぶ。そしてシルガーは、パールの急所である尾びれのような形状の部分と尾の境目を目がけ、衝撃波を放とうとした。

 その瞬間――。


 ゴオオオオオ!


「なっ……!」


 一瞬の、一瞬のできごとだった。

 動きが止まったと思われたパールの口から、衝撃波が放たれていた。

 アンバーの術は確かに、パールの尾の部分の動きを縛り続けていた。しかし、上半身への術の影響は、不完全なものだった。

 シルガーは、なぜ、と思った。

 なぜ、自分は無事なのか。

 そして、なぜ自分がパールの衝撃波の軌道から外れているのか、と。

 アンバーだった。

 今、シルガーの瞳に映るアンバーは、左手を伸ばし、左の手のひらをパールに向けている。


「アンバー!」

 

 シルガーは、自分が強くアンバーに突き飛ばされ、パールの衝撃波から逃れられたのだ、そう悟る。

 アンバーは、エネルギーを吸収するという左手で、パールの衝撃波を受け続けていた。アンバーの体の周りには、アンバー自身の力で透明な壁が張り巡らされ、パールの衝撃波の一部はアンバーの左手のひらに吸い込まれ、そして吸収されなかった過剰なエネルギーは、アンバーの周りに沿って流れるように後方へ飛んで行く。

 

「アンバー! 無理だ!」


 シルガーは絶叫した。

 アンバーの体は、光の洪水の中、ほとんど見えなくなっていた。

 地上から、無数の金の光の柱が放たれる。それはおそらく、シリウスを筆頭とする、アンバーを守ろうとする高次の存在たちの守りの力。

 それでも、無理だ、シルガーは激しく首を振った。

 アンバーの輪郭が、欠けていく。漆黒の大きな四枚の翼が、失われていく。炎の中、溶けてしまうように。そして魔のエネルギーの中心部、急所から遠い体の先端から、失われていく。

 急所を破壊されない限り、生き続け、復活が可能な魔の者。しかし、パールの放った業火のような衝撃波は、やがてアンバーの急所も焼き尽くしてしまうだろう――。

 シルガーは、目を逸らした。シルガーが見届けるべきは、そこではなかった。

 まっすぐ見据える、その銀の瞳は燃えていた。

 それは、四天王の座を奪おうという野心から、ではなかった。

 怒り、だった。

 今この瞬間、自分がとるべき行動を、シルガーは知っていた。


「パール……! 今度こそ、貴様の最期だ……!」


 シルガーは、撃った。衝撃波を。パールの急所目がけ、まっすぐに――。


「なに……!」


 シルガーは息をのみ、大きく目を見開く。

 あの巨大な尾が、尾びれが、目の前から消えていた。シルガーの衝撃波は、ただ青空を切り裂いていっただけだった。

 シルガーは振り返る。まさか―、まさか――。

 パールの顔は、そこになかった。

 パールにも、自分や他の魔の者たちのように、空間を移動したり、一瞬で姿を消したりする能力があるのかと思った。しかし、どうも様子が違う、そう感じた。

 シルガーは、見つけた。落下していく、パールの姿を。

 パールは、人間の姿に変身していた。巨大なその体を一瞬で人間の大きさに変え、シルガーの攻撃の照準から逃れたのだ。


 バッ……!


 青年の姿のパールの背から、四枚の漆黒の翼が現われ、空中で開く。


「それじゃ、また会おうね」


 シルガーは、衝撃波を撃つ。しかし、翼の生えた青年の姿のパールは、笑い声を残しながらどこかへ飛び去って行った。

 シルガーは舌打ちし、それから、


「アンバー!」


 急いで振り返り、アンバーの安否を確認する。


「アンバー……」


 風が通り抜ける。乱れた自身の髪で、視界が遮られる。

 気配で、わかる。しかしシルガーは、自分の意思で自在に操れる長い銀の髪をわざわざ手で払いのけ、アンバーの姿をその目で見つめようとした。

 アンバーの姿は、なかった。

 空中に、なにかが浮かんでいる。それは、小さななにか。見た目ではそれがなんなのかわからない、小さな物体が浮かんでいた。

 シルガーは息をのみ、そしてその小さななにかに手を伸ばす。

 おそらくそれは、肉塊。

 急所を中心とした、アンバーの最後の一部分。そこには、きらびやかな衣装も、漆黒の四枚の翼もない。


「アンバー……!」


 シルガーは、震える両手でそれをそっと包み込むようにした。


『そのときが、来ましたよ』


 アンバーの声が聞こえる。それは、小さな焼け焦げた物体から発せられた、かすかな声。


「アンバー……。すまない……。あなたが身を挺して、パールを仕留める時間を作ってくれたのに――」


 パールを仕留められなかったことを、シルガーは詫びる。

 シルガーにはわかっていた。アンバーがなぜ、衝撃波から逃れず受け続けていたかを。

 アンバーは、シルガーを守ると同時に、シルガーに託していたのだ。今度こそ、パールの息の根を止めるようにと――。


『いえ、シルガーさん。そんなことより、あなたの待ち続けていた時間が、やっと来たのです』


「私の……、待ち続けていた時間……?」

 

 シルガーは、自分の声が震えていることに気付く。

 目が、熱い。そして頬が、熱い。

 あふれてきて、頬を伝い落ちていくなにか。


『さあ。今度は、あなたが、四天王になる番です』


 小さな塊が、告げる。夢が叶うそのときが来たのだ、と。


『私を殺して、あなたが四天王になるのです。白銀(しろがね)黒羽(くろは)は、きっとあなたの――』


 ヒュッ。


 小さな塊が、言い終わらないうちにシルガーは飛んでいた。小さな塊を、胸に抱きつつ。


『どこへ向かおうというのです! 私の命は、もうじき消える。その前に、あなたの手で私を殺さないと、新四天王はあなたではなく新しくどこかで誕生することに――!』


 シルガーは、黙って飛び、眼下の森に向かって急降下していく。


『シルガーさん! 早くしないと、あなたの求めていたその座が――』


 シルガーは、森に降り立つ。

 そこには、白銀(しろがね)黒羽(くろは)、それからカナフがいた。


「アンバー様……!」


 白銀(しろがね)たちも傷を負い、激しく疲弊していた。


「アンバー……、様……!」


 シルガーは、白銀(しろがね)黒羽(くろは)が重ね合うように差し出した手のひらの上に、小さな物体をそっと置いた。

 白銀(しろがね)黒羽(くろは)は、変わり果てた主人を抱きしめるようにして――、泣き崩れた。


「私の求めるものは、自分の選んだとき、自分の意思、自分の手で掴み取る」


 シルガーは、そう言って長いため息をつき――、


「最期の時間くらい、自分のために使え」


 絞り出すような声でそう呟いた。そして、長い銀の髪をひるがえして、背を向けた。

 ぱちん、踏みしめた小枝が音を出す。

 かすかに胸が、痛い。まるで小枝が、胸に刺さっているかのようだ、シルガーは自分の胸に当てた手のひらを強く握りしめる。そう考えてから、ふと、魔の者にとって、果たしてそんなものが痛みといえるのだろうか、シルガーは疑問に思う。

 ささいな痛みが、打ちのめすくらいの威力を持って胸に迫るのはなぜだろう、森の緑が歪んで見えるのはなぜだろう、シルガーは不思議に思う。

 シルガーは、一瞬立ち止まり、振り返ることなく呟いていた。


「あなたの座が奪われることはない。誰にも。あなたは、永遠に四天王だ」


『……ありがとう。シルガーさん。ありがとう。白銀(しろがね)黒羽(くろは)。カナフさん。本当に、ありがとう……』


 風に乗って届く、かすかな声。


白銀(しろがね)黒羽(くろは)。本当に、ご苦労でした。あなたがたは、もう自由です――』


 ほどなくして聞こえてきたのは、おそらく白銀(しろがね)黒羽(くろは)の絶叫と嗚咽。

 葉擦れの音が、頭に大きく響く。

 どんなに耳を澄ませても、どんなに意識を集中させても、アンバーの声が二度と聞こえてくることはなかった。 


 これが、涙か。


 シルガーは、自分の頬を手の甲で拭い、見つめた。

 どこかで、新しい命が生まれるだろう。

 新しい四天王の誕生。それが、繰り返されてきた歴史。


 どうでもいい。


 シルガーは、どうでもいい、そう思った。新しい四天王がどこで生まれたのか、そしてそれがどんな強さの四天王か、知りたいとは思わなかった。


「どうでもいい……!」


 シルガーは飛び立ち、叫ぶ。

 自分が倒すべき四天王はただひとり、シルガーは己の拳を強く握りしめていた。

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