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天風の剣  作者: 吉岡果音
第九章 海の王
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第104話 実像

 黒い糸状のものが外界にあふれ出たとき、ため息のような、かすかな呟き声がした。


『オニキス様――』


 永遠に途切れたままのその声は、人の耳にも、魔の者にさえも聞こえないような小さなものだった。それは、赤目の朦朧とした意識の中で、本人も意図せず漏れ出てしまった声。冷たい月だけが、通り過ぎる夜風だけが、最期の悲しげな響きを聞いていた。

 そのはずだった。

 しかし、その場には物体の意識さえもすくいとる、花紺青(はなこんじょう)がいた。

 花紺青(はなこんじょう)は、その言葉を耳にしていた。


 やはりオニキスの、従者だったのか――。


 伝わってきたのは、純粋な、一途なまでの忠義の心。

 オニキスは、キアランの両親の仇であり、キアランの父であるゴールデンベリルの従者だった花紺青(はなこんじょう)にとっても、憎き仇である。

 しかし花紺青(はなこんじょう)は、同じ従者という立場から、静かに赤目のその声を受け取った。

 単純に敵の情報としてだけではなく、深い敬意を持って――。


 最期まで、従者だったんだね――。


 殺された魔法使いや僧兵たち、そしてヴィーリヤミの死を悼むその場所で、花紺青(はなこんじょう)だけが赤目の死を見つめていた。

 



 ヴィーリヤミの命が尽きると、シトリンはなにも言わず、キアランたちのほうを振り返りもせず、すぐに夜空へと飛び去って行った。

 犠牲者たちは、手厚く埋葬された。死者の冥福を祈り、喪に服すため守護軍の出発はさらに遅れた。

 守護軍の人々の中で、動揺が広がっていた。

 なにも知らない守護軍の人々は、囁き合う。


「あれは、四天王だった」


「ヴィーリヤミ卿は、四天王と通じていたのか」


「闇の住人のような男だった。魔の者に操られたのも、あの男の心が自ら招き寄せたのかもしれない」


「あんな男を入隊させるなんて――」


 ヴィーリヤミに対する疑念は、キアランへと飛び火する。


「そもそも、四天王と人間の間に生まれた男がいること自体、不吉なのではないのだろうか」


「あの四天王は、フレヤ様をさらったやつだった……! オリヴィア様やキアラン殿は、あのときなぜなにもせずにやつを見送ったのだ……!?」


 オリヴィアやキアラン、守護軍自体への不信感も強まっていた。


「こんな恐ろしいところ、俺はもう辞める!」


 志願して入隊した者たちのほとんどが、あの晩のあと逃げるように辞めていってしまった。

 辞めずにそのまま残った一般志願者たちは、かねてより守護軍への入隊を目指し、鍛錬を重ねてきた力のある者ばかりだった。はからずして、ふるいにかけられたような形となっていた。

 不協和音をはらみつつ、守護軍は北上を始めた――。




 ちらちらと、雪が舞う。

 キアランは、テントの中で夕食をとったあと、一人外に出た。花紺青(はなこんじょう)もついてこようとしたが、キアランは、ちょっと外の空気を吸うだけだから大丈夫、とそれを笑って制止した。

 キアランは、ため息をつく。

 あれから、シトリンはもちろん、蒼井も(みどり)も姿を見せない。


 きっと、私たちの立場を考えて、来るのを控えているのだな。


 キアランへの批判は、キアランの耳にも届いていた。


 今更、だな――。


 初めから、キアランに対して批判的な者が多いことは、わかっていた。

 

 スラリ。


 キアランは、腰に差した天風の剣を抜き、その青白く輝く美しい剣身を眺めた。


 アステール……。今の私は、ヴィーリヤミさんが、皆が囁くような悪しき存在とは思えないんだ――。


 キアランも、敵とみなしていたヴィーリヤミ。しかし、彼の最期の姿は、キアランのその考えを変えていた。

 結局、ヴィーリヤミがなにを探ろうとしていたのか、なぜ守護軍に志願したのか、わからずじまいだった。


『これで、私もおしまい。楽しいお茶会も、守護軍に入ったのも……、髪形を褒められたのも……、今までの私の人生のどの幕にもない、非常に得難い体験……、だったよ』


 この言葉が、すべてだったんじゃないか。

 

 ただ、人生を、探りたかった。新たな体験や知識を、貪欲に取り入れたいと考えていた。知らないものを知り、自分の人生の幕を、興味の向くまま自由に彩りたかった、本当はそれだけだったんじゃないかとキアランは推測する。

 キアランは、四天王の力を取り入れたいと考えたヴィーリヤミを知らない。それは、シトリンも知らないヴィーリヤミの闇。ヴィーリヤミと同化した赤目だけが、それを知り、そしてその赤目も永遠に語ることはない。

 守護軍の人々も、キアランも、おそらくヴィーリヤミ本人でさえも、その実像はわからないままだ。人は皆、手探りで生きている。そのことが悲しみを生み、そして同時に光を生み出す。

 雪は、天風の剣やキアランの体に触れると、たちまち消えていく。

 生まれては消え、生まれては消えていく雪。しかし、いつの間にかそのひとつひとつが確かな形として降り積もっていく。


 人の生も、こんな感じなのではないか。


 ささやかなひとつひとつの瞬間。それが積み重なり、かけがえのない大きな物語になっていく。季節が変われば消えるような、はかない物語ではあるけれども、きっと物語は、それを見た誰かの記憶に残るのだろう、そして雪が川となるように、形を変えて永遠をめぐるのだろう、キアランは、そんなことを思っていた。

 キアランは、天風の剣を腰に収めた。

 

「キアランさん」


 不意に、呼びかけられた。


「アマリアさん……!」


 アマリアが、来ていた。


「こんな夜更けに一人で……!」


「まだ、そんなに夜更けではないですよ、夜ですけど」


 アマリアは、ふふっ、といたずらっぽく笑った。


「……近くにいるのに、あまり会えないんですもの」


 アマリアは、ルーイを守る隊列ではなく、ユリアナを守る隊列の配属になってしまっていた。

 アマリアは、キアランの瞳を見ることなく頬を染めつつ、恥ずかしそうにうつむく。

 アマリアの長いまつ毛に、雪がつき、そして消える。

 キアランは、そっとアマリアの細い肩を抱く。


「……送っていこう。危ないから」


 キアランは、男性の多い守護軍の中、夜一人で歩くアマリアが心配でならない。


「私、魔法使いなんですよ」


「知ってる」


 今更のアマリアの呟きに、思わずキアランは吹き出してしまった。


「せっかく来たのに、もう、帰ることになるんですか?」


 アマリアは、不服そうだ。


「でも、道中こうして歩ける」


 二人は、肩を寄せ合った。

 

「……私はずっと、キアランさんに会うのを楽しみにしてたんですよ」


「……私もだ」


 アマリアは、意を決したように、思い切って見上げ、キアランの瞳をまっすぐ見つめた。


「出会いの日の、あの前からです」


「え」


「シリウスさんにキアランさんのことを聞いた日から、ずっとお会いしてみたいと思っていたんです」


 ずっと、って、そこから……?


 思いがけない告白に、キアランの足が止まる。さくり、雪を踏みしめる音が響く。


「なんとなく、予感がしていたのです。きっと、素敵なかたなんだろうなあ、そう感じてました」


「……思いがけず、年季が入っている」


 ついキアランは、率直過ぎる感想を述べてしまっていた。


「えっ、そんな感想!?」


 今度はアマリアが吹き出す。


「キアランさんの、そういうところ、とっても――」


 好きです、たぶん、アマリアはそう言おうとしていたのだろう。

 しかし、キアランの口づけで、その言葉は甘く優しく溶けていった。




 王は手紙に目を落とし、声を震わせた。


「ケネト……! ケネトを呼べ……!」


 王が手にしたのは、守護軍からの手紙。テオドルの上官がしたためたものを、旧守護軍のころから入隊している魔法使いの誰かが鳥に託し送ったものだった。

 王は、声を荒らげた。


「四天王と通じていたのは、ヴィーリヤミだったと報告されておるぞ!」

 

 そのころすでに、守護軍はノースストルム峡谷付近に到達していた。

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