第六十二話.黒い魔物
蠢く魔力の奔流へと近づけば近付くほど、それがどれだけ強大なのかが三人の身に叩き込まれる様な気がした。
それでも足を止めることなく進み続け、あと少しで街を抜け出し目的地に辿り着く──そんな時に、マイはため息をついた。
「この雨も中々に厄介ね」
崩壊した街の中を走りながら、マイは空を見上げてそうこぼした。
身体に当たる度に心の底から冷えるような恐怖が湧き上がる黒い雨。普通の人間が当たれば、数秒もせずたちまち気が狂うと確信する。
「タローくんは恐怖そのもの。恐怖を取り込み魔力に変える事で気候の変化が起きる。ただ一つ特殊な所は、その雨は恐怖を増幅させるという事。彼の怖い所の一つだよ」
「へぇ? よく知ってるわねそんな事」
「伊達に何百年も追い続けてる訳じゃないからね。彼が魔王だった時から、アタシはずっと彼の事を……」
「はいはいそんな話はどうでもいいから、早く先を急ぎましょ」
「どうでもよくないっ! 純粋くんは凄く優しかったし、アンタが知らないような事もアタシは知ってんだよ!?」
「な、何言い争ってるんですの!? よくこんな状況で言い争えますわね!?」
恐怖の雨に打たれながらも、そんなマイとナズナはタローに関する言い合いをしながら走る。
そうしなければ底しれぬ恐怖に飲まれてしまうような気がした。
あと少しで街から抜ける。後は魔力の渦が広がる森へと向かうのみである。
しかしそんな時、一つの叫び声が聞こえてきた。それはすぐ横の瓦礫を隔てた先からで、声の高さから女性だと分かる。
三人は目を合わせる事も話すことも無く、その声の主の元へと進路を変更した。
崩れている瓦礫を飛び、道なき道を進んでいく中でようやくその姿を捉える。
「って、シズク!?」
そこには見慣れた姿──シズクが立っていた。対峙しているのは狼型の魔物。しかし姿が黒い霧のようなもので覆われぼやけている。ゆうに二メートルは超えているであろうことは推測できるが、それ以上の事は何も情報がない。
長い事冒険者をやってきたマイですら、初めて見る魔物であった。
次にマイはシズクへと目を向ける。
雨に紛れて分かりにくいが、何度か攻撃を打ち合ったのかシズクの息は上がっている。
(でもあの叫び声は……)
最初はシズクが叫んだのかと思ったが、違う。シズクの後ろに目をやると、そこには腰を抜かして座り込んで少女──ティファの姿があった。彼女が発したのは一目瞭然である。
「ま、マイさん……すみません……この魔物……強い……」
視界の端にマイを捉えながらも、視線は魔物に固定させたまま謝罪の言葉をこぼす。
「なんでここにいるかとか聞きたいことはあるけれど、話はあとよ。とにかく今はこの魔物を倒さないと」
腰に携えた鞘から剣を引き抜き、それと並行してマイは地面を蹴る。
「はあっ!」
目にも止まらぬ速さで接近し、魔物が反応しきれていない内に横腹目掛けて切っ先を突き刺す。
「なっ……」
だが甘かった。
普通ならば刺さる筈の刀身は感触も無く通り抜けたのだ。
「ぐっ!?」
態勢を崩したマイの脇腹に向かって尻尾らしきものがめり込む。その勢いのままマイは吹き飛ばされ、瓦礫の山へと叩き付けられた。
「がっ……!」
「姉さま!?」
肺に溜まった空気が一気に押し出される。
身体はそれを補うかのように荒い呼吸を繰り返す。
(ただの魔物……じゃなさそうね)
剣を支えにして立ち上がり、マイは剣を構え直す。
まるで手応えがなかった。まさに雲を斬っているかのような、そんな感触であった。
何年も冒険者として各地を巡ってきたが、こんな魔物を見るのは初めてだとマイは思考を巡らせる。
(……いや……見たのは初めてじゃない……)
何処か既視感を感じる。
真っ黒なオーラを纏う魔物。何処かで見たはずだ。
……いや、戦った。
そうだ、見るのは初めてではない、とマイは記憶を遡る。
それは合成獣と戦った時だった。漆黒のオーラを纏い全貌を確認出来ず、並々ならぬ力を持った魔物だった。結局タローがあっさり倒してしまったが、マイ、エミル、シズクの三人がかりでさえ負けかけた程の強さ。
その魔物に、何処か似ている雰囲気を感じる。
「……まさかこれって……その仲間だったり……?」
答えなど返ってくるわけない。
黒い霧に覆われた狼は、様子を窺うかのように小さく唸るのみだ。
(こんなところで時間を潰すわけには……でも……)
無視するにはあまりにも強すぎる事を、さっきの一撃でマイは理解していた。相手との実力差がありすぎるために、逃げる事は到底叶わないだろう。
例え奇跡的に逃げられたとしても、なんとか避難出来た住民や、逃げ遅れた住民らが被害に合う。
だからといって戦えば、例え勝てたとしても消耗は避けられない。まだタローの件が残っている今の状態で消耗するのは得策ではない。
どうすれば。
どうすれば──
「アタシがやるよ」
──ふと聞こえたのは、ナズナの声。
さも当たり前かのようにマイから剣を奪うと、魔物に対してゆっくりと歩みを進める。
「えっ、ちょ、ちょっとナズナ!?」
あまりにも自然すぎた行動だったので反応が遅れたマイだったが、すぐ正気に戻るとナズナを止めようとする。
しかしそれは杞憂であったと、すぐさま思い知らさられることになる。
「そういえばマイには言ってなかったっけ」
雨に濡れたせいで緑を基調としていた受付嬢の制服は黒く滲んでいる。しかしそれが逆にナズナの黒髪と調和していて、まるでこれが元の姿なのだと錯覚させる。
そんないつもとは違う雰囲気を醸し出すナズナは、一歩、また一歩と着実に魔物との距離を縮めていく。
そこに恐れなどない。その気迫に押されたのか、魔物は無意識に一歩後退した。
ナズナは笑う。
「来なよ。後悔させてあげる」
その言葉を合図としてか、魔物は地面を蹴りつけ、ナズナとの距離を一気に縮めた。その速度はベテランの冒険者でも反応することが難しく、現にマイは目で追うのがやっとのスピードであった。
何とか地面を蹴ったマイだったが、既にその口は大きく開き、ナズナの首元を喰い千切ろうと迫っている。
──間に合わない。
「えっ──!?」
驚きのあまりマイは間抜けな声を漏らしてしまった。
喰い殺そうと大きく開いた口が、寸前の所で止まったのだ。まるで時間が止まったかのように不思議な状況にマイは目を丸くする事しかできなかった。
「流石……強いね」
ナズナはそれだけ呟くと、眼前の大きく開いた口に手を触れた。
ただそれだけで魔物は吹き飛んだ。何メートルも何十メートルも、止まることなく倒壊した家をも巻き込んでその姿が見えなくなる。
ナズナは服についた砂埃を適当にはたいて落とすと、マイの方へと振り返る。
「じゃあ早く向かおうか」
「いやいやいやいや!? 何よ今のッ!?」
何事も無かったかのように進もうとするナズナに思わずマイはツッコミを入れてしまう。やはり誤魔化すことは出来なかったかとナズナは苦笑する。
「アタシの固有能力みたいなものと思ってくれていいよ」
「初耳なんだけど!?」
「まぁ言ってないし……ていうか今はこんなことしてる時間もないのわかってる?純粋くんの気配がどんどん増してる。早くしないと手遅れになっちゃう」
「そ、そうね。ごめんなさい取り乱したわ」
あまりの衝撃に本来の目的を忘れかかけていたマイは自分の頬を叩いて邪念を払う。
「あ、あの……その……助けて……くれて……ありがとう……ございます……」
後ろから控えめに感謝の言葉を述べたのはシズクである。
それに対してナズナは軽く笑ってみせる。
「いいよいいよそんなこと。あ、それならそこの……ティファちゃんだっけ? 気を失ってるみたいだから目が覚めるまで見ていてくれない? 丁度隠れるのに最適な瓦礫もあるしさ」
「は、はい……わかりました……」
「多分この雨に打たれたせいだから、少ししたら目が覚めると思う。そしたら出来れば一緒に私たちと合流してほしいな。もちろんティファちゃんも一緒にね」
「合流……それって……やっぱり……」
「考えている事で間違いないよ。出来そうかな?」
「は、はい……!」
しっかりとシズクが頷いた事を確認したナズナはまたタローがいるであろう場所へと向き直す。
「じゃあ早く向かおう。手遅れになったら笑えないよ」
「そうね」
「はいですわ!」
彼女たち三人はまた駆け出した。それぞれがそれぞれの思いを抱えながら、魔王のもとへ向かう。
マイはかつてのタローを取り戻すために。
エミルはマイを悲しませないために。
ナズナはかつての仲間を助けるために。
(そう……手遅れになる……早く向かわないと──)
ナズナは走りながらも唇を噛んで表情を固くした。
(純粋くんが殺される……っ……)




