第六十話.暴走
エミルは脚に力を入れ、思い切り地面を蹴った。一秒でも速く走る為に、元の場所へと戻る為に。
幸いな事に、場所はそれ程離れていなかった。あと数分もしない内に辿り着く事が出来る。
──着いた所で、自分に何かできるのか?
当たり前の疑問が浮かんでくるが、エミルはそれを振り払ってただ走り続けた。
そうだ。そうだった。助けを呼ぶなんて自分らしくない。お姉さまが狙われているから助けを呼ぶ? なら自分はどうしてここまで這い上がってきた?
何度も何度も自問自答を繰り返し、やがて元のマイ達が居る場所へと戻ってきた。
爆発音が聴こえた。遅れて突風が吹き荒れ、恐怖を乗せてエミルを押し戻そうとする。
それでも──逃げる訳には行かないのだ。
「お姉さまッ!」
──エミルの視界にまず映ったのは、倒壊した建物にひび割れた地面、所々に小規模なクレーターであった。次に、瓦礫に背中を預け動かないナズナに、更に肥大した黒い塊。さっきの爆発音は、ナズナがここに吹き飛ばされた時の衝撃音だったのだろう。
──マイは、そんな化物と正面を向き合って対峙していた。
今にも襲い掛かりそうな化け物に対し、マイは一歩も動く事なく、ただ化け物を見つめるのみである。
不思議な空間であった。まるで時間が止まっているかのように、今にも動き出しそうなのにどちらも動く事はない。
「タロー」
マイが呼び掛けた。
化物はマイの言葉に反応し、びくりと身体全体を震わした。
「悩んでる事があるなら頼りなさい。苦しいなら頼りなさい。それは『逃げ』なんかじゃない、立ち向かおうとする勇気なんだから」
マイの言葉一つ一つに呼応してか、肥大化し、マイの目の前まで迫っていた黒いオーラが縮小していく。
──声が聴こえた。
苦しいと言う、誰かの声。恐いという、誰かの感情。それら全てがタローを飲み込まんとしていた源なのだとエミルは理解した。
そしてその感情と今、タローが闘っている事も。
エミルは歯を食いしばった。ここで言わずして、いつ言うのかと。
何も変わらなくていい。これでタローが元に戻るという確証は無いし、そんな自惚れも持っていない。
もしかしたら今の状況よりマイナスに働くかもしれない。
それでも、エミルは大きく息を吸い込んだ。
「──早く正気に戻るんですのっ!! また……またいつも通りに過ごすんですわこのブタローッ!」
エミルが出せる限りの声が、荒れ地へと変貌したこの場所に行き渡った。
一つの雫が流れた。その感情はマイ以外に見せた事のない弱さであり、エミルが捨て去った筈のものである。
タローはエミルの方へと顔を向けた。包むオーラによって黒く塗り潰されたその顔面には、まるで懐かしいものを見るかのような表情が感じられた。
少なくとも、エミルはそう感じた。
「ま……イ……さん……」
黒いオーラーが行き場を失い、散っていくのが見えた。完全には取り切れていないが、タローの顔は右半分程見える状態までには収まっていた。
「ボくは……ぼくハ……」
タローの瞳から涙が溢れた。それは透明で、本心から出た感情なのだとひと目でわかった。
マイは首を振る。まるで子どもに言い聞かせるようにゆっくりと、優しく諭すようにマイは話す。
「それ以上はいいわ。何があってこんな事になったのかは分からないけれど、悩みに悩んで、苦しんで、悲しかった事だけは分かるもの」
マイはすぐ側まで歩み寄り、タローを優しく包み込んだ。
「貴方は冒険者よ。冒険者タロー。他の何者でもないわ」
「た……ろ……ぼく……僕は……たろー……」
「そうよ。だから早く、ここに帰って来なさい」
ぎゅ、っと、抱き締める力が強くなる。それはマイによるものではなく、タローが自ら行ったものであった。
止まることのない涙が頬を伝い、マイの肩へと当たる。それを全て受け入れたマイは、タローの髪を優しく撫でた。
エミルはホッと、肩を緩めた。渦巻いていた感情はほとんど無くなり、この場に溜まっていた緊張感も幾らかは落ち着いた。
「……わたくしが来なくとも、良かったんですわ」
あの男に急かされてここに来たが、それも杞憂で終わった。
エミルはそうやって自嘲気味に嘲笑った。
──だからこそ、油断していた。
一瞬、うめき声が聴こえた。
何処からしたのか、そんな事は考えるまでもなかった。
赤い液体が、地面を流れる。この空間に、再び強い鉄の臭いが充満した。
目を疑った。信じたくなかった。今すぐ視線を外して、これは夢なのだと自身に言い聞かせる他なかった。
「──おや、おやおやおや。これはこれは駄目じゃないですか。せっかく立たせた舞台を無下にするなんてねぇ。えぇ、えぇ、そんな事は許されませんとも……。ねぇ、フォボス?」
──何時の間にかマイの背後に立つのは、乱雑に絵の具を混ぜたマーブル模様のシルクハット、道化師のような仮面に、シルクハットと同じ色をした派手なロングコートを身に着ける男。
彼はタローごと貫通させたマイの身体から手を引き抜くと、タローとマイは自身の血で作られた赤い絨毯に倒れ込んだ。
エミルは知っていた。この人物を。この元凶を。
──アーケイン。それが、彼の名である。そして、自称魔王軍の一人であり、すべての元凶である。
普通に考えたら分かる話だ。あのタローが自ら進んでこんな事をするわけが無い。魔王軍へ戻った理由が、『仲間の命を保障する』事であったとしたら。
「ま……い……ちゃん……? ね……ぇ……まい……ちゃん……」
タローは倒れながらも、必死にマイの体を揺すった。しかしそんな努力も虚しく彼女は微塵も動く気配がない。それでも何度も、何度も何度も何度も、タローはマイを揺すり続けた。
そんなタローを前に、アーケインは仮面を外し、醜く焼け落ちた顔を晒してタローへと顔を近付ける。
「無駄ですよ。彼女の心臓は貫きました。そちらにいるお嬢さんは蘇生されたみたいですが……これだと生き返る事も出来ません」
「あ……ァ……」
先程よりも酷く濃い『感情』が、タローを中心として広がり始める。それはエミルからも溢れ出し、タローへと吸われていく。
「僕は貴方と約束した筈だ。僕達の目的を達する為に力を貸す事。そうすれば貴方の仲間には手を出さないと」
「あァ……アァ……っ…………」
「しかしですねぇ……貴方は約束を破りました。仲間だったとはいえこの女の戯言に絆され貴方は逃げた……だからこれは必然の結果です」
既に醜い顔が、より一層醜く歪む。
「えぇ、えぇ。つまり貴方が殺したんですよ。彼女を、その醜い『感情』で」
タローの中で抑制されていた感情が──決壊する。
「あぁぁぁあぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁあぁぁぁああああぁぁぁぁあぁぁあぁああぁぁぁぁァァアァァァァァアアアアァァァァアアアァァァ──」
渦巻いていた感情が爆発した。それは一瞬で街を包みこみ、止まるところを知らず何処までも恐怖が肥大化していく。
街が、世界が、恐怖の渦へと呑まれていく。
「──ハハ……ハハハハハ……遂に……遂にこの時が来ました……」
アーケインは仮面をつけなおすと、屈んでいた状態から立ち上がり、ゆっくりと歩き始めた。
「さぁ……世界の救済を始めましょう」
ここから盛り上がる……と思わせて次の話は少し時間が戻って店長の視点から始まります。戦闘シーンの予定です。本当はこのまま続けるのがいいんでしょうがすみません。




