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桜咲くを見上げる君に

作者: そめみ

 桜って不思議だ。

 誰しもが口を揃えてきれいだって言うのに、そこに抱く想いはきっと人それぞれに違う。

 私はピンクの綿菓子みたいな樹々の並びをスキップでもしたくなるくらいに浮かれた気持ちで見つめていた。道行く人たちもひらひら舞う花弁を見上げて、残念がりながらも顔を綻ばせていた。

 だけど、その人の後ろ姿はちっとも楽しそうじゃなかった。黒い学生服の後ろ姿は胸が苦しくなるほどの切なさを帯びていて、それでも一心に薄紅色の花弁が舞う様を見ている姿は、見ているこっちがしんどくなりそうだった。

 あの人は桜を見上げて何を想っていたのだろう。

 一つの絵のような情景に吸い込まれそうになった私を現実に引き戻したのは、少し離れた場所から聞こえてくる鐘の音だった。ヤバい。遅刻しちゃう。

 私は慌ててその場から駆け出した。その人はまだ、桜の樹を見上げていた。


 中学校までは、私にとって学校という空間は、ほんの少しだけ居心地の悪い場所だった。

 いじめられていたわけでもないし、仲の良い友だちもいた。クラスにだってそれなりに馴染んでいた。

 だけどちょっとだけ成績が良くて、ほんのちょっぴり真面目だっただけで、周りからわずかだけど遠巻きにされていたというか、一歩引いて見られている気配を感じていた。見えない壁が作るわずかな隔たりは、自分がここにいることが場違いであるように感じさせて、どうにも居心地が悪かった。

 でも受験というふるいをくぐり抜けて高校生になれば、中学校ではちょこんと飛び出ていたとしても、その飛び出ていた人たちが集まって平らに均されるから、きっと飛び出ることなく平均値になれる。

そう信じていた私の目論見は、見事に的中した。

 得意科目は平均点よりちょっと上、苦手科目は平均点よりちょっと下の成績。つまりは学年全体で見れば、中の中の成績だ。クラスの子たちも、私と同じようなタイプばかりで、仲の良い友だちだってできた。

 ただそんな中でも、抜きんでる人というのはやっぱりいるもので、三崎先輩はまさしくそのタイプの人だった。

 県内の公立高校で最難関と言われるうちの高校に首席で合格して、入学式では当然新入生代表の挨拶を務めたらしい。入学後もテストではいつも学年トップ。勉強だけじゃなくて、我が弓道部のエースでもある。生徒会から何度も勧誘されているけど、断っているらしい。

 それだけなんでもできる人だと性格が悪そうなものだけど、そんなことは決してない。人当りが良く穏やかで、上級生からも同級生からも好かれている。私たち下級生にも優しくて、男女問わずに慕われている。

 そして背が高くてかっこいい。先輩曰く平均身長らしいけど、平均身長もない私からすれば一七五センチなんて、見上げないと目を合わせられない。普段は物静かで落ち着いた雰囲気なのに、弓を構えたら周りの空気さえ変えてしまうほどに凛としていてかっこいい。もちろん普段もかっこいいんだけど。

 リコちゃんが言うには、私が三崎先輩について語ると間違ってはいないけど三十五パーセントくらい上乗せして美化しているらしい。失礼な。たぶん十パーセントくらいだ。

 つまり私は三崎先輩に惚れている。

 高校に入学して少し経った頃、リコちゃんに誘われて弓道場を覗きに行った。その時、一人で黙々と矢を放っていたのが三崎先輩だった。

 三崎先輩が弓を引く音と矢が的に当たる音だけが響く弓道場は、凛とした空気が張りつめて心地よい緊張感に包まれていた。私もリコちゃんも息を呑んで、その光景に目を奪われていた。男の人の立ち姿をきれいだと思ったのは、初めての経験だった。

 その後にやって来た他の先輩たちに勧誘されて、説明を聞いている間も、私の意識は三崎先輩に囚われたままだった。

 一応言い訳すると、弓道部に入ったのは三崎先輩目当てだけではない。弓道自体にもちゃんと興味を持ったからだ。

 そんなわけで、三崎先輩に憧れる高校生活を送っているわけだけど、目下最大の問題は三崎先輩が完璧すぎることだ。

 平々凡々の平均値を目指して、せっかく安堵できる居場所を見つけたのに、こんなに普通の子じゃ三崎先輩に釣り合うはずがない。

 安心できることといえば、三崎先輩には今彼女がいないらしいということ。これは二年生の先輩たちにも聞き込みしたから間違いない。だけど一方で不安な噂も聞いた。三崎先輩はこれまでに告白してきた女の子全員をフッているらしいのだ。

 それから、あと一つ不安なことは……、

「はぁ……今日も三崎先輩かっこいい……」

 突然耳元で囁かれて驚いた。誰だ。私の心の声を言ったのは。

「なーんて考えてんでしょ。本当、有紗ってばわかりやすいなぁ」

 リコちゃんだ。振り返ると、人の悪い顔をしてにやにやしていた。私はつんと顎を上げてみせた。

「別にいいでしょ。それに他のことだって、ちゃんと考えてるんだから」

「へえー。当ててあげようか」

 リコちゃんはわざとらしく腕を組んで考える素振りをしてみせた。一瞬の沈黙の後、にやりと笑ったかと思うと、一転して悩ましい表情を浮かべた。

「エミ先輩くらい美人じゃないと三崎先輩に釣り合わないかな。てゆか、あの二人ってやっぱりつき合ってるのかな。うー気になるー……正解?」

 私はぐうの音も言えず、押し黙った。くそう、何でリコちゃんは私の心が読めるんだろう。

 悔しいと思いながらも、未練がましく二年生の先輩たちが練習している方へと視線を向けた。三崎先輩とエミ先輩が構えの姿勢を確認している。二人とも袴姿がかっこいい。私なんかまだ全然着こなせていない。

 エミ先輩は三崎先輩と同じ二年生で、長くて艶のある黒髪を一本に縛っているのがかっこいい和風美人だ。ついでに言うと胸が大きくて背も高めで、さらに言うと三崎先輩と並んでいると絵になる。その上私が見たところ、男女含めてうちの部内で三崎先輩と一番仲が良い。

「……やっぱりつき合ってるのかなぁ」

「まぁ、つき合ってない方が変だよね」

 リコちゃんの冷静な指摘に、私は盛大な溜め息を吐き出した。二年生の先輩たちは、三崎先輩に彼女はいないって言ってたけど、実は隠しているか知らないのかも。

 ──「三崎はやめたほうがいいよ」

 一か月前に言われた言葉がまだ耳の奥に突き刺さっている。やっぱりああいうことを言うってことは、そうゆうことなんだよね。

 もう一回溜め息を吐いたら、リコちゃんにからかわれて、二人でふざけているのを竹下先輩に怒られた。部活中はちゃんと集中しよう。


 私が悶々としている間にも時間はあっという間に流れた。

 中間テストが終わって、制服が夏服に変わり、文化祭が終わった。三年の先輩たちの引退試合が終わって、夏休みが近づいてきた。

 そして梅雨の名残のような雨が降ったその日、私に最大のチャンスが訪れた。

 私は珍しく駅のホームへ向かう階段を一人で下りていた。高校に入学して以来、一人で帰るのは実は初めてだった。いい友だちが沢山できたなぁとしみじみ思う。

 ホームには自分の家の最寄り駅の階段に近いところなのか、まばらにうちの学校の制服を着た学生たちが立っていた。私も最寄り駅の階段に近いところへ向かおうとして足を止めた。心臓が一気に高鳴る。全身が熱を持つのがわかった。

 私は駆け出したくなる衝動を堪えて、努めて冷静を装ってその人に声をかけた。

「三崎先輩」

「久住」

 三崎先輩は読んでいた文庫本から視線を上げて私を見た。いつもどおり爽やかな笑顔だ。かっこいい。

「今日は相沢と一緒じゃないんだな。珍しいな」

「リコちゃんは今日は委員会があって」

 答えながら、私はもやもやしたものを感じていた。三崎先輩はリコちゃんがいた方がよかったのかな。リコちゃんかわいいしなぁ。

「久住もこっちの方面?」

「え?」突然の問いに、私は何のことかわからずに間抜けな返答をしてしまった。三崎先輩の話しを聞き逃すなんて、何やってんの私。

「電車。こっちの方面なのか?」

 三崎先輩がホームの線路側を指さして言い直してくれた。勢い込みそうになるのを抑えてゆっくり頷く。

「はい。えっと三崎先輩はどこまでですか?」

 三崎先輩が答えた駅名は、私が下りる駅の四駅先だった。結構遠い。しかもターミナル駅だから、もしかしたら更に乗り継ぐのかもしれない。でも手前の三駅までは一緒だ。

 気がつくと、三崎先輩は読んでいた文庫本を閉じて鞄の中にしまっていた。ホームに電車が滑り込んでくる。ドアが開き、ぼんやりしていた私は三崎先輩に促されて、慌てて電車に乗った。

 車内は冷房が効いていて涼しいはずなのに、全身が火照ったように熱かった。心臓がものすごい速さで脈打っている。どうしよう。私、三崎先輩と一緒に帰ってる。しかも二人だけで。

 緊張で頭の中は真っ白だ。変なことを言っちゃわないか心配で、迂闊に口を開けない。でもせっかくだから先輩と話したい。気持ちばかりが急いて、何も言葉が出てこない。

 その時、電車ががくんと揺れた。

「うわっわっわっ」

 吊革に掴まっていなかった私は、揺れの衝撃でよろめいた。みっともない。恥ずかしい。足に力を入れて堪えようとしたら、横から強い力で腕を引かれた。

「大丈夫か?」

 三崎先輩が私の腕を掴んで支えてくれていた。別の意味で倒れそう。ブラウスの袖の上からなのに、触れられた箇所が熱かった。日焼けを気にして長袖にしなければよかった。……いや、直接触れられたりなんかしたら気絶しちゃう。

 気がつくと、電車は駅に停まっていた。駅名を確認したら、もう私が降りる駅の一つ前まで来てしまっていた。あと一駅で終わっちゃう。せっかく三崎先輩と二人きりになれたのに。

 そっと目だけで隣りに立つ三崎先輩を見上げた。こんなチャンス、きっともう来ない。先輩に直接訊きたいことを訊くなら今しかない。

 彼女いないって本当ですか?よかったら私とか……。

「あの、三崎先輩」思い切って出した声は震えそうだった。電車の中だから大きい声にならないようにしなくちゃ。色んなことを考え過ぎたせいで、私の口は思いもよらないことを言い出した。「一緒にどこかに出かけませんか?」

 三崎先輩が少し驚いたような顔をして私を見下ろす。「今から?」

 正直言うと、三崎先輩よりも私の方が驚いていた。何言ってるの、私。よく言った、私。

「ごめん、バイトあるから今からはちょっと……」

「ですよね!すみません!急に変なこと言って」

 思いつく前に言ってしまったのに、意外と期待してへこんでいる自分が心底馬鹿だと思った。恥ずかしくて顔が上げられない。三崎先輩、呆れてるんだろうな。

「明後日なら」上から先輩の声が降ってくる。見ると、先輩はスマートフォンをいじっていた。「部活も休みだしバイトもないから空いてるよ」

 一瞬何を言われたのかわからなかった。ぽかんとして先輩を見上げる。明後日ならって、空いてるって、それって、それって……。

 車内アナウンスが、まもなく私が降りる駅に到着することを告げる。

 私は三崎先輩と、明後日の放課後に駅で待ち合わせる約束をして電車を降りた。


 梅雨も明けた快晴のその日、私は暑さよりも緊張にくらくらしていた。学校の最寄り駅で、三崎先輩が来るのを待つ。駅構内のコンビニのガラスに映る自分の姿を何度も確認してしまう。制服だから変な格好も何もないのだけど、お気に入りのグレーのベストが変じゃないかなとか、リボンが曲がってないかなとか、些細なことが気になって仕方ない。

 髪はホームルームが終わった後、リコちゃんがいじってくれたから問題ないと思う。編まれていたり結ばれていたり、自分でもどうなってるのかわからない。

 気になり始めたら止まらなくなって、私は鞄の中のポーチから鏡を取り出した。前髪ならと、引っ張って整えてみる。メイクはしてないけど、ピンクのグロスをつけてみた。昨日の部活帰りにリコちゃんと買いに行ったものだ。

 そんなことをしているうちに、三崎先輩がやってきた。にこりと微笑まれてどきりとした。夢じゃなかったとほっとしつつ、心拍数が上がり始める。私、本当に三崎先輩とデートするんだ。

 とりあえずお昼ご飯を食べに行くことになった。今日は午前中で授業が終わったから、私も先輩もまだお昼ご飯は食べていない。

……しまった。どうしよう。この辺のお店なんて、コンビニとファーストフードのお店くらいしか知らない。

「パスタ、カレー、定食、オムライス。どれがいい?」

 おろおろする私の前に選択肢が提示された。三崎先輩だ。私がパスタを選ぶと、先輩は学校とは反対側の出口に足を向けた。先輩の後をついていく。

 駅のこっち側に来るのは初めてだ。高校に入学してから、部活にも入っちゃったから、学校の周りを探索するので精いっぱいだった。見慣れない街並みが新鮮だった。

 三崎先輩に案内されたお店は、チェーン店じゃないイタリアンのお店だった。こじんまりしているけど、外観も内装もおしゃれだ。

 こういうお店って高いんじゃないかな。財布の中身が心配になったけど、ランチは千円ぽっきりでパスタにサラダとドリンク、デザートまでついていた。この辺りは他にも高校が二つあって、学生が多いから良心的な値段にしてくれているのかも。

 料理の注文をして、何を話そうとどきどきしていたら、三崎先輩が先に口を開いた。

「その髪って自分でやったの?」

 痛いところを突かれた。見栄をはってもボロが出るのは間違いないので、私は正直にリコちゃんにやってもらったことを白状した。

 三崎先輩は感心したように、まだ私の髪型を見ている。リコちゃんの評価が上がったのは間違いないだろうな。でもアレンジが上手いのと似合うのは別の話しで、私には派手すぎたんじゃないだろうかと不安になる。

「あの、変ですか?」

「え?あ、ごめん。似合ってるけど、つい癖で」

 さらりと似合ってるって言われた。嬉しい。リコちゃんありがとう。でも「つい癖で」ってどういうことだろう。

 私が小首を傾げると、三崎先輩は困ったように笑って言った。

「最近、弟が妹の髪いじるのに凝っててさ。それで妹が俺のとこに見せに来ては感想聞いてくるんだよ」

 だから、女の子の髪型とか気になるようになっちゃって。苦笑する三崎先輩の表情からは優しさが滲んでいる。いいな。兄弟仲良さそう。てゆか三崎先輩がお兄ちゃんって羨ましい。

「妹さん、いくつなんですか?」

「いま四歳」

 思ったより小さかった。でもそのくらいの年なら、確かにお兄ちゃんに見せに行きそう。おしゃれとか気にし始める年頃だ。

「三崎先輩も髪いじってあげたりするんですか?」

「まさか。俺不器用だし、センスないから無理だよ」

「先輩が不器用なのって意外です」

 ちょっと親近感が湧いた。でもある意味完璧すぎる。欠点すら長所に見えてしまう。こんなんだから、皆に三崎先輩馬鹿って言われるんだろうな。でも好きな人のことなら、どんなことでも良く見えちゃうよ。

 それから出てきたパスタはもちもちしていて、ソースも美味しかった。もちろんデザートのプチケーキも絶品だった。その後に観に行った映画も、事前に調べた甲斐あって面白かった。三崎先輩も面白いって言ってくれた。

 映画が終わっても夏の日はまだ高くて帰るには早かった。目についたカラオケに入る。先輩とカラオケに来るなんて初めてだ。何を歌うんだろう。

 三崎先輩はJ-ポップはあまり聞かないって言ったけど、アルバム借りたからって歌ってくれた曲はCMにも使われてる有名な曲で、めちゃくちゃ上手くてかっこよすぎてくらくらした。カラオケで本当に上手い人って初めて見た。どこまでもかっこよすぎる。

 半日たっぷりデートして、先輩と沢山話すこともできた。楽しくて幸せすぎる一日だった。

ただ一つだけ気になったのは、交差点とか人が多いところで何度か先輩が辺りを見回していたことだ。まるで誰かを探しているみたいに。気になって尋ねても「何でもないよ」と返されちゃったから深くは追及しなかった。しつこくして嫌われたくない。それに先輩が隣りにいるだけで十分幸せだった。

この日のことを思い出しては、にやにやして、うっとりしている内に一学期が終わり夏休みになった。

 そして浮かれていられない現実が私を待ち構えていた。

「ねえ、エミ。どう思う?」

「うーん。構えの姿勢だけなら有紗ちゃんが一番きれいなんだけどなぁ。何でだろ」

 エミ先輩とアヤ先輩が揃って首を傾げる。私はただでさえ小さい身体を、更に縮こまらせていた。

 夏休みに入って、ようやく私たち一年生も道場で矢を打たせてもらえるようになった。皆次々に的に当てては歓声を上げていたのだけど、八月の下旬になっても私だけが一回も的に当てたことがなかった。

 おかげで弓道部の女子ツートップであるエミ先輩とアヤ先輩が、私一人につきっきりで指導してくれている状態だ。贅沢すぎて申し訳ない。しかも二人とも美人だから、男子部員からの嫉妬の目が怖い。ごめんなさい。

「弓が合ってないんじゃないか?久住小柄だし」

 別の所から声が飛んできて、私は顔面から血の気が引くのを感じた。三崎先輩だ。情けないところを見つかってちゃった。恥ずかしい。

「ちゃんと引けてるから、弓は合ってると思うよ」

 アヤ先輩の答えを聞いて、三崎先輩がこっちにきた。なんか男子部員からの視線が更に怖くなった気がする。あと女子からの目線も。いたたまれなくなって、私はうつむいた。

「久住、やってみて」

 私はのろのろと顔を上げ、三崎先輩が見ている中、弓を構えた。いつも以上に緊張する。頭の中はパニックで、何とか身体を動かして矢を番えて放つ。

 当然、私が放った矢はあらぬ方向へと飛んで行った。周囲から落胆の声が聞こえる。私が一番溜め息を吐きたい。というか、いつの間にか道場中から注目を集めてしまっていた。三人もの目立つ先輩たちに囲まれているのだ。注目されない方がおかしい。

「ね、どう思う?」

 エミ先輩が三崎先輩に尋ねる。三崎先輩は、すぐにもう一度やってみせるように指示した。

 私は先輩の指示に従って、今度はちゃんと教えてもらったことを思い出しながら、矢を番えた。

「ストップ」

 弓を引き切った状態で、三崎先輩が制止の声を上げた。私は身体を硬直させて、動かないように気を引き締めた。緊張で深く息が吸えない。弓を構える腕が震えそうになる。三崎先輩が見ている。

「速水、どう?」

「狙いは合ってるよ」アヤ先輩の声が、すぐ後ろから聞こえる。

「久住」三崎先輩の声が静かに響く。心音が高まる。「そのまま手離して」

 私は矢を放った。当たれ。当たれ。……お願い、当たって。

 私の願いも空しく、矢は的にかすりもしなかった。私の背後から、アヤ先輩が悩ましく呻く声が聞こえた。

 もう少し続けようとしたところで、竹下先輩の号令が道場に響いた。時計を見ると、もう最終下校時刻が近づいていた。

「久住」

 三崎先輩に呼ばれる。正直どんな顔をすればいいのかわからなかったけど、私は恐る恐る顔を上げた。三崎先輩は、私の他にエミ先輩にも声をかけた。

「明日、九時に道場に集合」

「アヤは?」

「速水は家遠いし、エミだけでいいよ」

 明日は元々全体での練習は休みで、自主練に当てられていた。私ははっとして、三崎先輩とエミ先輩に向き直った。

「あの、大丈夫です!明日元々自主練するつもりだったんで」

 しかし私の訴えは即座に却下された。

「構えがおかしかったら、自分じゃわからないだろ」

「それに最初に変な癖ついちゃったらよくないし」

 頷き合っている先輩たちを見て、私は二重に落ち込んだ。一つは先輩たちを自主練に付き合わせることになってしまったこと。本当に申し訳が立たない。もう一つは、やっぱり三崎先輩とエミ先輩って仲良いんだなってこと。アヤ先輩は名字で呼んでるのに、エミ先輩は名前で呼んでるし。

 三崎先輩が練習見てくれるのは、単純に嬉しい。エミ先輩も上手いし、面倒見が良くて優しくて憧れの先輩だ。だけど二人が並んでいるところを一日見続けるのは、想像しただけでもへこむ。

 嬉しいんだか、悲しいんだか、申し訳ないんだか。複雑な気持ちを抱えたまま、私はリコちゃんたちと帰宅した。その日の夜は、色んなことを考え過ぎてあまりよく眠れなかった。


 タンっ!

 私が道場に着くと、早くも矢が的に当たる音が聞こえてきた。他にも自主練しに来ている人がいるのかと覗いてみたら三崎先輩だった。慌ててスマホの時計を見ると、まだ八時だった。

 道場には三崎先輩しかいなかった。私が見ているのに気づかず、黙々と矢を放っている。すごい集中力だなって改めて思った。

 四月に初めて三崎先輩を見かけた時を思い出した。あの時も先輩は一人で練習をしていた。一心に矢を放つ姿に、私は一目惚れして、弓道にも惚れた。いつか私も、あんな風に凛とした姿で弓を構えられるようになりたい。そして自分が放った矢が的に当たる音を聞きたい。

 よし、と拳を握る。私は気合を入れて、道場の入り口に向かって駆けた。

 八時半にはエミ先輩も来てくれて、三崎先輩と二人で私の構えを直してくれた。だけど矢は一向に当たってくれなかった。ここまで当たらないと、自分は弓道の神様に嫌われてるんじゃないかと思って落ち込む。

 たぶん落ち込んでいるのが顔に出ていた。エミ先輩が休憩しようと提案してくれた。

「三崎、ジュース買ってきて」

 エミ先輩が三崎先輩に言うのを聞いて慌てた。三崎先輩をパシリにするなんて、私には到底真似できない。

 三崎先輩はちょっとだけ顔を顰めたけど、私とエミ先輩のリクエストを聞いてくれた。やっぱり優しい。

 道場を出る間際、三崎先輩が振り返った。

「久住、矢を放つとき何か考えてる?」

「え?えっとえっと、当たれーとかです」

「それ、止めな」

 私は虚を突かれたようにぽかんとした。三崎先輩は続けて言った。

「基本を全部思い出して、矢を番えて弓を引いたら後は何も考えるな」

 三崎先輩がいなくなった道場で、私はしばらく呆然としていた。エミ先輩が気遣うように顔を覗いてくれた。「どうする?休む?」

 私は首を振って立ち上がった。ゆっくり丁寧に弓を構えて矢を番える。エミ先輩は少し離れたところから、黙って見ていてくれた。

 弓を引き、矢を放つ。的を外す。いま、何も考えないということを考えた。

 もう一度、構える。外す。もう一度。

 何度も繰り返していくうちに、全身に神経が張り詰める感覚があった。弓を引く。その一瞬、頭の中が無意識に真っ白になった。澄み切ってクリアな状態だ。

 タンっ!

 乾いた音が鼓膜に響いた。私が放った矢は、的に突き刺さっていた。エミ先輩が歓声を上げて、喜んで褒めてくれる。だけど私は、呆然としていた。

 矢が当たった喜びに勝る思いが込み上げてきて、私は衝動的に駆け出していた。急に走り出した私に驚いたエミ先輩の声が聞こえたけど、私は立ち止まらず、道場の外へと出て行った。

 校舎に向かって走る。真夏の照りつける日差しが眩しい。袴が足に絡みついて走りにくい。

 矢を放った瞬間、初めて三崎先輩の心に触れた気がした。

 二人で一緒に帰った時よりも、デートに出かけた時よりも、もっと近く鮮明に。 自動販売機コーナーに三崎先輩はいた。息を切らして走ってきた私の姿を見ると、先輩は驚いた表情を浮かべた。

「あの、三崎先輩」先輩が何か言う前に、私は荒い呼吸を繰り返しながら口を開いた。「先輩は何を忘れようとしているんですか?」

 矢を放った瞬間、思考が真っ白になって、何も考えなかった。一瞬、自分の周りの全てものが消えたようにさえ思えた。三崎先輩の言ったとおりだった。何も考えない状態で放った矢は、真っ直ぐに的に当たった。

 これが三崎先輩の見ている世界だと気づいた時、ある考えが唐突に閃いた。一人で一心に矢を放ち続ける先輩の姿を思い出した。全ての思考から解放されるあの瞬間、そのために先輩は矢を射続けているのではないだろうか。

 三崎先輩は切れ長の目を見開いて私を見ていた。私はようやく我に返って、自分が変なことを言っていることに気づいた。忘れるために矢を射るって、そんなことあるわけない。

 訂正しようと開きかけた口を閉じた。

 私から目を逸らした三崎先輩が、苦しそうな表情を浮かべていたのだ。その表情で、私の思いつきが間違いではなかったことが証明されてしまった。

 その時、私はもう一つの事実にも気がついた。あの桜満開の入学式の日に見た、学生服の男の人。あれは三崎先輩だ。どうして今まで気づかなかったんだろう。違う。気づくはずがない。三崎先輩は隠していた。あの時に感じた、苦しいほどの切なさを内に秘めていることを。

 いま目の前にいる三崎先輩は、あの時と同じだ。苦しいくらいに切ない想いを、抱えきれずに溢れさせている。

 気がつくと、私は思いつくままに言葉を紡いでいた。

「忘れなくていいんじゃないですか」先輩が桜を見上げていたことと、無心で矢を射続けていることはきっと無関係ではない。そしてそれは、先輩にとってすごく大事なことのはずだ。「無理に忘れようとしなくていいと思います」

「……なんだよ、それ」

 低い声に私はぎくりとした。一瞬誰の声かわからなかった。身体が竦む。全身が本能的な警鐘を鳴らす。

「何も知らないくせに勝手なことを言うな!」

 ガンっと三崎先輩が自動販売機を強く殴った。自分が殴られたような気がした。三崎先輩が怒ったところなんか、こんなに感情を露わにするところなんか初めて見た。

「ごめ……なさい……」

 どうにか絞り出した声は震えていた。頬の上を涙が伝う感触があった。泣いていい資格なんか、今の私にはないのに。だけど嗚咽が込み上げてくるのを止めることはできなかった。

 三崎先輩が何事か言った気がする。だけど混乱する私には、聞き取れなかった。ただ先輩の声に、私を気遣う響きがあることだけは感じていたたまれなくなった。そんな言葉をかけてもらっていいはずがないのだ。

「ごめんなさいっ!」

 道場に戻ると心配そうな顔をしたエミ先輩が待っていた。私は何も説明できず、逃げるように家に帰った。


 二学期の始まりの日、高校に入学して初めて学校に行きたくないと思った。

 あの日以来、夏休みの間は一度も部活に顔を出さなかった。エミ先輩と三崎先輩、それからエミ先輩から事情を聞いたリコちゃんからメールが沢山来た。エミ先輩とリコちゃんには返信を送れたけど、三崎先輩からのメールは怖くて見ることすらできなかった。

 ちょっと前までの私なら、三崎先輩からメールが来ただけでテンションが上がって幸せな気持ちになれたのに、今は一番憂鬱なものとなってしまった。そしてそんな風に思ってしまう自分があまりに身勝手で、さらに落ち込んだ。

 ―――「何も知らないくせに勝手なことを言うな!」

 三崎先輩の言葉が、ずっと胸に突き刺さっている。

 何もわかってないくせに、わかった気になって、土足で踏み込んではいけない領域に足を踏み入れて荒らした。最低だ。三崎先輩が怒って当然だ。

 学校に行きたくない。部活に行きたくない。三崎先輩に合わせる顔がない。でも部活はともかく、学校にまで行かなくなったら親に怒られる。

 今日は始業式だけで部活は休みだ。よし。終わったらすぐに帰ってこよう。

 そう決めて、自分をなだめて登校したはずなのに、私はすぐには帰れなかった。

 緊張にそわそわしそうになるのを自制して、目の前に座る人をちらりと見上げた。ナチュラル風のインテリアが揃えられた雰囲気のいいこじんまりとした個人経営のイタリアンのお店は、前に三崎先輩と一緒に来たお店だ。だけど今目の前に座っているのは、三崎先輩ではない。

 エミ先輩は飲んでいたアイスティーのグラスをコトリと置いた。改めて見ると本当にきれいだなぁ。同性の私から見ても惚れ惚れとしてしまう。

「三崎がね」エミ先輩が口を開いた。「有紗ちゃんが部活来なくなっちゃったから心配してた。気になるなら自分で様子見に行けって言ったんだけど、俺が行ったら嫌がるだろとかなんとか言っててさ」

 男のくせに情けないよね。溜め息交じりに言うエミ先輩は、眉を顰めてみせてもやっぱり美人だ。それからやっぱり三崎先輩と仲が良いんだなと思う。

 ぼんやりしていた私は思ったことをそのまま口にしていた。

「エミ先輩って、三崎先輩とつき合ってるんですか?」

 この状況で何を聞いているんだろう、私は。エミ先輩は驚いたようにくっきりとした二重の瞳を見開いている。すみません。でも気になってるのも事実なんです。

 エミ先輩は苦笑して、首を横に振った。

「私と三崎はつき合ってないよ」

「じゃあ、何であんなこと言ったんですか。三崎先輩はやめといた方がいいって」

 以前にエミ先輩に言われたのだ。あの言葉は、私に対する牽制だと思っていた。だからエミ先輩には憧れと同時に、少し苦手意識があった。

「有紗ちゃんが私と同じだから、かな」

 私は驚いてエミ先輩を見返した。私とエミ先輩が同じ?私なんか小っちゃいし、童顔だし、胸だって大きくないし、全然似てるとこないんだけど。

だけど少し考えて、もしかして、と思った

「エミ先輩も三崎先輩のことが好きなんですか?」

「正確には好きだった。過去形よ。今はただの友だち」

 エミ先輩がアイスティーのストローをくるりと回した。氷がカランと涼し気な音を立てる。

「有紗ちゃんを見てたら、昔の自分思い出しちゃって、つい口出ししちゃった」

 ごめんね、と言うエミ先輩の目は優しい。意地悪であんなこと言ったわけじゃなかったんだ。勘違いしていたことを反省する。エミ先輩は私を止めようとしてくれていた。だけど私は忠告を聞かずに、暴走して、最悪の事態を招いてしまった。

「三崎、優しいでしょ。くだらない話しでも聞いてくれるし、二人で一緒に帰るの嫌がらないし、デートに誘っても来てくれるし」

 まるで見ていたかのように、私が三崎先輩にしたこと全部だ。でもエミ先輩は見ていたんじゃない。たぶん私と同じことをしたのだ。

「あいつが優しいのはね、何も見てなくて、何も感じようとしていないからよ。こっちの気持ちなんか考えてない。私たちが隣りにいたところで、あいつの心には何も響かないの」

「三崎先輩は何を忘れようとしているんですか?」

「え?」エミ先輩がアイスティーのグラスを持ち上げた手を止めた。私は続けて言った。

「私、三崎先輩に聞いたんです。矢が当たった時に、頭の中が真っ白になって何も考えなかったあの瞬間、全部忘れたように思ったから。三崎先輩は答えてくれませんでしたけど」あの時のことを思い出すと、今でも内臓をぎゅっと握られたような気持ちになる。「それで私、言っちゃったんです。忘れなくていいんじゃないですかって。そしたら三崎先輩怒っちゃって」

「怒った?三崎が?」

 エミ先輩は目を見開いて、心底驚いているようだった。てっきり三崎先輩から聞いているもんだと思っていたから、私は小首を傾げてしまった。

「聞いてないんですか?」

「全然。あいつそうゆうこと自分から言うタイプじゃないし。てゆか、怒ったんだ。あの三崎が」

 三崎先輩が感情を露わにしないのは、先輩たちの前でも同じらしい。エミ先輩でも見たことがないのは意外だった。そして自分がとんでもないことをしでかしてしまったと改めて思った。

 その後は他愛のない話しをして、エミ先輩とは別れた。最後にエミ先輩は、せっかく的にも当たるようになったんだから、部活は辞めないでほしいと言ってくれた。きっと今日はそのことを言うためにわざわざ来てくれたのだ。心配かけてしまったことを反省する。

 帰り道、一人で電車で揺られながら考えた。

 エミ先輩は、三崎先輩が優しいのは何も感じていないからだって言った。だけど私は違うと思う。三崎先輩はたぶん傷ついたことがある人だ。傷の痛みを知っているから、優しいんだと私は思う。

 桜を見上げていた三崎先輩の後ろ姿を思い出す。苦しいほどの切なさを帯びた後ろ姿。エミ先輩はきっと知らないんだ。三崎先輩はエミ先輩にも隠している。きっと誰にも晒していない。偶然見かけなければ私だって知らなかった。

 車窓を流れる景色を見つめながら、私はある決心を胸に抱いていた。


 次の日、学校に行くとリコちゃんが心配そうな顔で私の席までやって来た。昨日エミ先輩が教室まで迎えに来たものだから、私が部活を辞めるんじゃないかと心配になったらしい。

 リコちゃんにも心配をかけてしまった。申し訳ないなと思いつつも、周りに心配してくれる人がいることが嬉しい。リコちゃんには今日から部活には参加すると伝えた。

 リコちゃんは明らかにほっとした笑みを浮かべた。夏休み中に的に当たったことを報告したら、自分のことのように喜んでくれた。本当にいい子だなぁ。

 放課後、弓道場に顔を出したら部長の竹下先輩に捕まった。夏休み終盤の練習を欠席したことを謝って、部活を続けるつもりだと伝えた。いつもは厳しい竹下先輩が安堵したように笑ってくれて、ちょっと驚いた。本当にいろんな人に心配をかけてしまったみたいだ。

 三崎先輩は目が合うと、気まずそうな顔をして視線を逸らした。ちょっと落ち込む。でも当然の反応だと思う。それにそんなことで落ち込んでたら、昨日決めたことができなくなる。

 私は気合を入れ直して、弓を構えた。

 しばらく練習をしていなかったから、最初はやっぱり的に当たらなかった。でもあの一回で掴んだ感覚を思い出すようにしたら、的に当たるようになった。矢が当たらない私しか知らない皆が驚いていた。アヤ先輩も私の様子を見て、抱きついて喜んでくれた。人から褒められるのって、照れくさいけど嬉しい。

 最終下校時刻が迫ってきて、いつもどおりに片づけて制服に着替えた。

 いつもはリコちゃんたちと一緒に帰っているけど、今日は先に帰ってもらった。私は一人道場の出入り口で待ち伏せをしていた。帰宅する同級生や先輩たちが、一人で立つ私に首を傾げていたが、私は曖昧に笑ってごまかした。

 そしてようやく目当ての人が出てきたところで、その人に近づいた。

「三崎先輩」三崎先輩は、私に気づくと視線を彷徨わせた。私は構わずに言った。「少しお話しできませんか」

 心臓がうるさく鳴る。震えそうになる手でぎゅっと鞄の取っ手を握った。私は三崎先輩から目を逸らさなかった。

「……先輩の俺が逃げてちゃダメだよな」

 三崎先輩は自分も話しがあると言って、私を促して歩き始めた。よかった。私は三崎先輩に並んで歩いた。前に一緒に帰った時や、デートをした時とは違う理由でドキドキした。


 私たちは学校の近くの公園に寄った。三崎先輩が自動販売機でジュースを買ってくれた。やっぱり優しい。

公園のベンチに座る三崎先輩に、私は並んで座らずに頭を下げた。

「先輩、この間はすみませんでした」

 先輩に言わなきゃいけないことは沢山あるはずだけど、まず一番は謝らなくちゃと思っていた。

「久住、頭上げろ」

 私はすぐには頭を上げられなかった。正直に言うと、先輩の顔を見るのが怖かった。だけどずっとこの姿勢のままというわけにもいかない。

 恐る恐る頭を上げた。三崎先輩は、少し困ったような表情を浮かべていた。

「謝らなくちゃいけないのは俺の方だ。ごめん。怒鳴ったりして。久住は何も知らないのに」

 先輩に促されて、私はベンチに座った。ベンチに座ったら、公園全体が一望できた。日が傾き始めたこの時間、さすがに遊んでいる子供はいなかった。

 三崎先輩は静かに話し始めた。

「久住に言われて初めて気づいたんだ。俺はあいつのことを忘れようとしているんだって。忘れちゃいけないはずなのに」

 あいつって誰のことだろう。私が疑問に思っていることが伝わったのだろう。まだ時間は大丈夫かと訊かれて、私は頷いた。

「小学生の時に仲の良かった女の子がいたんだ」先輩は寂しそうな微笑を浮かべて話しを続けた。「俺は地元の公立の小学校に通ってたけど、彼女は私立の学校に通っていたから、俺たちは図書館で知り合って会っていた。親に頼み込んで中学受験させてもらって、中学からは同じ学校に通えるようになった。……嬉しかったよ。だけど中一の終わりに彼女は、親の仕事の都合で転校することになった。彼女が引っ越した後も、メールとか電話で連絡は取っていたんだけど、ある日突然彼女と連絡が取れなくなったんだ」

 先輩の表情に影が落ちる。きっとその時のことを思い出したんだ。私まで胸が苦しくなって、もう温くなってしまった缶ジュースを両手でぎゅっと握った。

「どうしても彼女に会いたくて、夏休みに一人で会いに行った」

「その子はどこに引っ越したんですか?」

「イギリス」

「え!?」

 私は素っ頓狂な声を上げてしまった。てっきり国内だとばかり思っていた。

 驚く私の様子を見て、先輩は苦笑した。

「呆れるだろ?でも当時は必死だったからさ。親から小遣い前借りして、パスポート申請して、飛行機に乗って、ケータイ片手になんとか彼女が住んでいた家を見つけたんだ」

 すごい。私は素直に感心した。中学生で一人で海外なんて。高校生の今だって行ける気がしない。三崎先輩にそんな情熱的な一面があったのは意外だった。

「会えたんですか?」

 私はどきどきしながら尋ねたが、三崎先輩は首を横に振った。

「会えなかった。引っ越してしまったらしくて、彼女の家にはもう別の人が住んでいたよ」

 淡々と話しながらも、先輩の表情は暗い。私は何て声をかけたらいいのか、わからなかった。

「彼女とはそれっきり。今はどこにいるのかもわからないんだ。だけどずっと忘れられない」切ない響きの言葉で先輩の話しは締めくくられた。

 しばらく沈黙が続いた。沈黙に耐えられなくて、それからもうこの際だから全部聞いちゃおうと思って、私は思い切って先輩に尋ねた。

「三崎先輩」先輩が私を見る。距離が近いことに気づいてドキドキする。やっぱり私、先輩のことが好きなんだな。「その子の名前ってさくらちゃんとかだったりしますか?」

「え?」三崎先輩が目を瞬かせた。あれ?もしかして違うのかな?

「私、入学式の日に三崎先輩のこと見かけたんです。学校に行く途中の、桜の樹の下で。後ろ姿でしたけど、なんだか寂しそうで気になっちゃったんです」

 三崎先輩は、驚いて目を見開いた。それから視線を逸らした横顔は、ほんのりと朱に染まっていた。

「……見られてるとは思わなかったな」

「すみません」

「いや、久住が謝るようなことじゃないだろ。……名前はさくらじゃないよ」

 少し躊躇うような間の後に、三崎先輩は桜を見上げていた理由を教えてくれた。

「約束していたんだ。彼女が帰国したら、二人で桜を見に行こうって。引っ越す前に見に行った時は、どこを探してもまだ咲いてる樹はまだなかったから」

 そっか。だからあんなに切ない後ろ姿だったんだ。本当は二人で見るはずだったのに、隣りにいるはずの子がいないから。

「先輩は、その……まだ待ってるんでるよね。その女の子のこと」

 私は恐る恐る尋ねてみた。先輩は苦しそうな表情を浮かべた。夏休みの時に見たのと、同じ顔だ。

「……待ってる、つもりだったんだ。だけど本当は……どうしていいかわからなくなってる」

 二度目の引っ越しの時に、何の連絡もなかった。その子は三崎先輩との関係を断ち切って、新しい道を歩み始めたのかもしれない。だけどもしかしたら、何かの事情があって連絡できなかっただけなのかもしれない。

 考えても考えてもキリがない可能性が三崎先輩を苦しめている。改めて、私は自分がひどく無責任なことを言ってしまったのだと思った。

「……先輩、すみませんでした。あんなこと言っちゃって」

 うつむくと、ぽんと頭の上に何かが乗った。何だろうと見上げると私の頭の上に先輩の手が乗っていた。そのまま優しく叩かれる。

「さっきも言ったろ。久住が謝ることじゃないって。あの時は俺も怒鳴っちゃったけど、久住に忘れないでいいって言われて救われたんだ」

「え?」

 どういうことだろう。私は驚いて、先輩を見た。優しく穏やかな瞳が、私を見つめていた。

「ずっと悩んでいたんだ。イギリスに行った時から。もう待つべきじゃないんじゃないかって。忘れちゃいけないって自分にずっと言い聞かせてたくせに、無意識のうちに忘れようとしていた。だけどそのままでいいんだと思った。いつか彼女のことは過去の思い出になるかもしれない。でもそれまでは、無理に忘れないでいいんだって思えた」

 そう話す先輩の声は淡々としていたけれど、穏やかな響きを孕んでいた。まるで、重い荷物から解放されたように晴れやかだ。

「あの、先輩。最後に一個だけ聞いてもいいですか?どうしてこんな大事な話しを私なんかにしてくれたんですか?」

「久住が気づかせてくれたからだよ」先輩が微笑む。いつもと変わらない優しい笑みだ。

 ありがとな。もう一度、頭に先輩の手が触れた。自然とその言葉は私の口から零れていた。

「私、三崎先輩のことが好きです」


 それから季節が二つめぐり、もうすぐ高校生になって二度目の春が近づいていた。桜の開花が各地で宣言され始めた。思い出すのは、一年前、桜を見上げていた三崎先輩の後ろ姿だ。

 先輩に告白して半年近く経つけど、まだ返事はもらっていない。でもそれでいい。私がそう頼んだのだ。先輩の気持ちの整理がつくまで、いつまででも返事は待たせてほしいと。それまでの間は、今までどおりに接してほしいと。

 ちょっとわがままを言いすぎたかなと思ったけど、三崎先輩は承諾してくれた。あれから時々二人で帰ったりしているのは、先輩が気を遣ってくれてるかなと思うと嬉しい。リコちゃんたちには冷やかされるけど。

 通学途中、まだ蕾の固い桜の樹を見上げた。

 今年もこの桜が満開になったら、また見上げるのかな。その時に少しでも、その背中が寂しそうでなくなっていたらいいと思う。

 いつか先輩が桜を見上げる時に、笑顔でいてくれたらいいなと思う。その時に隣りにいるのが、私であっても、彼女であっても、他の誰かであっても。三崎先輩が幸せなら、誰でもいいと思えた。

 初めは一目惚れだった。だけど今は、自分が先輩の彼女になるより、あの誰よりも繊細で心に傷を抱えているあの人が幸せになってくれることを心から望んでいる。

 今年もまた、桜を見上げる先輩を見かけたら今度は声をかけてみよう。その時に少しでも笑ってくれたなら、ちょっとでもきれいだなって思ってくれたなら、それは私にとってもすごく幸せなことだ。

 私は開花にはまだ早い桜に背を向けて、学校に向かって歩き始めた。


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