尾行開始:2
くしゃみが出そうになって、和泉は慌てて口元を手で押さえた。
高島亜由美は飛行機ではなく新幹線で東京に向かった。
高所恐怖症なのかもしれない。
グリーン車は空いていて、亜由美は一人でゆったり座っていた。秘書の野村彩佳はすぐ後ろの席に、そしてもう一人、ボディーガードだろうか? 濃い色のサングラスをかけた背の高い男が同行している。
あれは、石岡孝太ではないだろうか? そうだとしたらなぜ彼が?
あのタレコミがあって本人に話を聞いたあと、彼の動向は監視されていたはずだ。何か不審な動きがあればすぐに連絡が入るはずなのに、見落とされたか、あるいはよほど上手く立ち回ったか……。
まだ本人と確認した訳ではないから、周に大丈夫だと伝えるのはやめておこう。
聡介が応援にと遣わしたのは、捜査2課の村本という若い巡査部長だった。MTホールディングスに関する黒い噂は限りなく事実に近いと言っていた。
東京までの道のりは以外に遠い。経過報告の為に和泉は立ち上がり、デッキに出た。
「今のところ、異常はありません。ただ……」
『ただ? どうした』
「気のせいかもしれませんが、石岡孝太らしき人物が高島亜由美と同行しています」
『なんだって……? どうしてそんなことに……』
「わかりません。周君は彼が急に姿を消して、旅館も辞めたと言っていました。考えられるケースとして、MTホールディングスに転職したとか、そんなところでしょうか」
高島亜由美が東京や大阪に新しく和食の店を出店予定だという話は、昨日読んだ経済新聞で知った。
石岡孝太の腕がどれほどのものかは知らないが、彼は経験があり即戦力になる人材である。
彼のみならず、宮島内で旅館の板前の仕事をしている人間を引き抜いて東京なり大阪なりへ連れて行けば、調理場は困ることだろう。
そうして料理の質が落ちれば客も離れて行く。
経営が立ち行かなくなる。
彼女の立てた宮島再開発計画はスムーズに進むという目論見だろうか。
しかし……と、和泉は思う。
彼、石岡孝太は美咲へ好意を寄せていると自分で言っていた。
その彼が、よりによって敵対者である高島亜由美からの引き抜きの誘いに乗って、世話になった旅館を辞めたりするだろうか。
そんなことをすれば美咲が悲しむことぐらい充分わかっているだろうに。それとも、旅館に居づらくなったのだろうか。
『いずれにしろ、目を離すな』
わかりました、と言って携帯電話をポケットに戻し、振り返った瞬間、和泉は心臓が縮み上がるかと思うほど驚いた。
すぐ後ろに石岡孝太と思われるサングラスの男が立っていたからだ。
彼は何も言わずに傍をすれ違った。
間違いない、本人だ。
和泉がそう確信したのには理由があった。
まず第一に匂い。彼からはいつも、決して不快ではないが独特の匂いがする。過去に一度だけ事情聴取した際、それは強烈な印象を残していた。
それから手。彼の手の甲には目立った火傷の痕がある。
周にメールしておこう。
心配しなくても彼は無事だ。もっとも、今何を考えているかはさっぱりわからないけどね……。
新幹線が京都に到着すると、途端に乗客が増えた。高島亜由美が見えづらくなる。
東京が近付くに連れてどんどん車内は込み合ってくる。
アナウンスが間もなく東京と告げた。高島亜由美が、石岡孝太が立ち上がる。彼は荷物を下ろすのに難儀している野村彩佳にさりげなく助けを差し伸べ、大きなスーツケースを2人分抱えてデッキに向かう。
大勢の人間が行き交うホームに降り立ち、見失わないように後を追う。
しかし、都内の駅の混雑ぶりは、噂に聞いていた以上だ。これだけ大勢の人間が歩いていながら、よくぶつからずに交差するものだと、和泉は感心してしまった。
ところが。しばらくして高島亜由美達の姿が急に見えなくなってしまった。
尾行に気づかれたのだとしたら、さきほど車内ですれ違った瞬間だろう。
「心配ありません。出店予定の場所は把握していますし、行き方も把握しています」
村本が言った。安心したが、ミスをしたという苦い気持ちは拭えない。
仕方がない。
和泉は大人しく都内に詳しそうな村本の後をついていくことにした。