嫁いだ理由は
旅館の経営状況が思わしくないのはなんとなく感じていたと美咲は言った。
コストカットという名目で従業員一人辺りの負担を増やし、そのくせ時給は変わらない。パート従業員の何人かが解雇されていた。
数年前、館内の設備や板場の改装工事に思いきった額を投資したらしいが、採算が取れていない様子である。
客数は変わらない。というよりも宮島が世界遺産に登録されてからはむしろ増えた方なのにも関わらず経営が苦しいのは、どこかに不正な経理があるのではないだろうか。
しかし、美咲は経営には感知していない。
女将も何一つ教えてくれない。
ところがある日、経営コンサルタントを名乗る人物が旅館にやってきた。
古い帳簿を調べ始め、ちょうど美咲の父親が旅館を辞めて東京に出た前後に、横領の形跡があったようだとの事実を告げた。そんな古い事件が今に影響を及ぼしているかどうかはわからない。
が、社長である俊幸が弟の隆幸、当時の専務だった美咲の父親が帳簿をいじっていたと言い出した。あの頃美咲の父親は競艇に夢中で、消費者金融から借金をして返済に追われていた。いよいよ切羽詰まった時、旅館の金に手をつけたのだ、と。
死人に口なし。父親の不正が真実か否か、既に亡くなっている本人からは聞くこともできず、美咲も幼かったので、その頃何があったのかなどわかるはずもなかった。
こうして彼女は泥棒の娘というレッテルを貼られることになった。
それまで親しくしていた仲居の仲間も、今度はいつ自分がリストラの対象者になるのかと怯え、やがて美咲に恨みをぶつけるようになった。
何よりも辛かったのは、当時既に刑事課への異動が決まっていた駿河と別れなければならなくなったことだ。犯罪者が家族にいる以上、警察官とは結婚できない。
経営は益々厳しくなり、いよいよ進退極まるところへきた時だ。
藤江賢司の祖父が条件付きの融資話を持ちかけてきた。
彼は美咲の祖父と古い友人同士で、美咲を孫の賢司の妻に差し出してくれるなら、必要な額を貸してやるという話である。
孫の賢司は適齢期にも関わらず浮いた話の一つもない。いつも仕事ばかりで、女性への興味があるのかないのかすらわからない。このままでは後継者が心配だ。
藤江製薬は世襲制をモットーとしている。
その上、賢司は幼い頃に一度だけ美咲に会ったことがあるといい、言ってみれば孫の中にいる唯一の女性の影であった。
「もしもこの話を断ったら、私だけじゃない……旅館で働いている皆が路頭に迷うことになる。それに、葵さんとのことがダメになって……正直、自暴自棄になっていたのもあるわ」
結局、父親の犯した罪の責任を取らされる形で美咲は藤江家に嫁いだ。
美咲は自分で自分を抱きしめるようにして、震えを止めようと必死だった。
これだけの話をするのにどれほどの勇気が必要だっただろう。
「私、泥棒の娘なの。お金の為に賢司さんと結婚したの、最低でしょう?」
泣き出しそうな顔の中に、微かな自嘲の笑み。
「賢司さんのことなんか少しも好きじゃない。私、今でも葵さんのことが好き。忘れられないの。ごめんね、周君。でも……悪いことばっかりじゃなかった。周君と一緒にいられる時間がほんとに楽しかった。幸せだった……」
美咲は三毛猫を床に置くと、周に背を向ける。
「『だった』ってなんだよ?!」
周は美咲の両肩を掴んだ。
驚くほど細くて華奢な肩だった。
「楽しかったとか、幸せだったとか、なんで過去形なんだよ?! これからもずっと一緒にいられるだろ? 我慢して賢兄の妻でいれば、旅館の皆も安心して働けるし、俺も義弟でいられるじゃねぇか! 父親のことなんて関係ないし、他に好きな男がいるなんてことも全然気にしない!!」
ぴくり、と義姉の全身が震える。
「俺……子供の頃に父さんから聞いたことがある。俺には半分血のつながった実の姉がいるんだって。もしその話が本当だったら、それが義姉さんだったらどんなに良かっただろうって、何度も思った」
「……」
「和泉さんが教えてくれた。誰が本気で俺のこと、一番大切にしてくれたかってこと。考えるまでもなかった。だから……どこにも行かないで。俺の姉さんでいてよ」
「周君……!」
美咲が振り返り、抱きついてくる。
「辛いと思うけど、俺じゃ何もしてやれないけど……でも、もうあんなガキみたいな真似はしないから。俺は、怖かったんだ……義姉さんが他の男のところに行ってしまったら、もう、俺達をつなぐものは何もなくなるって思って……」
美咲は眼に涙を浮かべ、激しく首を横に振った。
「違うの、周君。本当は……!」
玄関のドアが開く音が聞こえたので二人は慌てて離れた。
本当にすぐ、賢司が戻ってきたのだった。手にはコンビニのビニール袋を提げている。
「義姉さん、俺、腹減った」周は努めて明るい声で言った。
「そうね、もうお昼過ぎてるものね」
美咲も無理に笑顔を作って応じる。
それから冷蔵庫を空けて、中を確かめる。
作り置きの料理が山のように残っていた。
「コーヒー淹れるわね。ねぇ、賢司さんも飲むでしょう? 私の作った料理は食べたくなくても、コーヒーぐらいは……」