意外と暇な人達
ドクン、と心臓が跳ねた。
「すごく優しかったです……」彩佳はうっとりと遠い眼をして言う。「彼、着痩せするタイプなんです。厚い胸板で、逞しい腕で……」
手が震えだした。
美咲はもう片方の手で一生懸命に、震える手を抑えようとしたが、言うことを聞いてくれない。
「あっ!!」誰が言ったのかはわからない。
が、次の瞬間にはドレスのカタログの上にお茶が大きなシミを作っていた。
「何するのよ!!」
申し訳ありません!! と、美咲は持っていた布巾で卓袱台の上を拭く。しかしそれでは間に合わない。
雑巾を持ってきます、と一旦客室を出ようとした美咲の背中に向かって、
「女将を呼んできなさい」と、亜由美の声が追いかけてきた。
仲居の仕事を始めたばかりの慣れない頃は、時々お茶や料理をこぼしてしまったこともある。でも大抵は優しいお客で、女将を呼んで来いなどと言う人はいなかった。
事の次第を聞いた女将の里美は、ひどく心配そうな、それでいて驚いた顔で一緒に来てくれた。美咲ほどのベテランがそんな初歩的なミスをするなんて。
女将と美咲は並んで頭を下げた。
「まことに申し訳ございません。お召し物を汚してしまったのであれば、こちらで弁償いたしますので……」女将が言った。すると応えたのは亜由美の方だった。
「別に服は濡れてないわ。ダメになったのは、これ」
しわしわになってしまったカタログを指でつまみあげて見せる。
「この子ね、もうすぐ結婚するの。これは披露宴でお色直しに着るドレスのカタログ。こんなことして、おめでたい話に水を差すような真似するなんて良識を疑うわ」
わざとじゃない!
そう叫びたいのを堪えて、ひたすら頭を下げる。
「決して故意ではございません。それだけは御理解ください」
「本当に、わざとじゃないのかしら?」彩佳が言った。
女将が驚いて顔をあげたのが、顔を伏せている美咲にもわかった。
「どういうことでしょう?」
「私、この人のこと個人的に知ってるんです。嫉妬深くて陰険で……手が滑ったフリをしただけかもしれないわ」
違います!!
美咲はそう叫びたいのを必死で堪えた。
「お言葉ですが、お客様」女将の声色が変わった。「個人的に知っているというなら、私とて美咲のことはよく知っています。この子はプロです。この子が気に入ったからと何度も利用してくださるお客様もいらっしゃいます。たとえ知人がお客としてやって来られたとしても、決して手を抜いたりしません。まして嫌がらせなど! それは美咲に対する、ひいてはこの旅館全体に対する侮辱です!」
お母さん……!! 美咲は胸の内で女将に感謝した。
言い返す言葉を失った彩佳が、助けを求めるように亜由美を見る。
「あなたの負けね、彩佳ちゃん。ドレスなんてなんだっていいじゃない。あなた肌が汚いんだから、なるべく露出が少ない方がいいわよ。それと色黒なんだし、淡い色はよした方がいいわね」
「社長、そんな言い方って……!!」
高島亜由美はお茶をすすると、
「本当のことじゃない。似合いもしないものをよく似合うって、見え透いたお世辞を言って欲しいの?」
「……」
美咲と女将が呆然としているのを気にせず、女性社長は続ける。
「だいたい、今回は土俵が悪かったわ。サッカーで言うアウェイってやつ? 彼女にとってここはホームね」
何を言おうとしているのかなんとなく理解できた。
結局のところ野村彩佳はわざわざ宿泊の予約までして、美咲にケンカを売りに来たということだ。
それにしても、自分の部下を人前でこんなふうにこきおろすなんて……。
「彩佳ちゃん、もっと自覚なさい。あなたが彼女に勝っているのは立派な両親っていう確かな身元だけよ。もっとも、それって男にとって一番重要だけどね」
亜由美は煙草を取り出し、灰皿の上に置いてあるマッチを擦る。
「彼、ノンキャリアだったかしら? まぁでも、あなたが相手なら今のまま警察官は続けられるわよね。どれぐらい昇進できるかは知らないけど」
彩佳の顔色は血の気を失い土気色になっている。
そして同時に美咲の顔も、紙のように真っ白になっていた。
亜由美は細い煙を吐き出すと、
「あら、まだいたの?もういいわよ、下がって」