忘れらたらどんなに楽か
それから約2時間後。
先ほどから一言も口を開かないまま、彩佳は本当に目的地まで連れて行ってくれた。駿河はマンション脇の道路から5階を見上げた。
灯りがついているのを確認する。
ただ、やはり躊躇している。
もし今聞いた話が本当だったとしたら?
それに、真実だったとしてどうするというのだろう。
美咲は既に他の男の妻なのだ。
「それで、どうなさるんですか?」
どうしよう? どうしたいのだろう。
その時だった。
周が車のすぐ傍を通りかかった。
駿河はドアを開け、急いで彼を追いかける。
何と呼びかけたらいいのかわからず、無言のまま彼の腕を掴んだ。
当然ながら周は驚いた顔でこちらを見る。
「……あんた、退院したのか? っていうか……何してんの?」
自分でも説明できないでいる。
この少年は美咲のことをどれほど知っているのだろうか?
知らずにいるとしたら、そっとしておいた方がいい。
「……美咲は……家にいるか?」
何が気に入らなかったのか、周は途端に顔を険しくした。
「知らねぇよ、あんな女!」
「あんな女って……君の姉さんだろう?」
「関係ない!! 離せよ、触るな!!」
周は駿河の手を振りほどいて走り出す。
「周!」思わず叫ぶ。
少年は足を止めて振り返ると、
「俺はもう、他人は誰も信じないって決めたんだ。特に警察の人間はな!!」
いったい何があったのか?
しかし、答えは得られないまま、駿河にはただ周の後ろ姿を見送ることしかできなかった。
「私ならきっと、葵さんを幸せにしてあげられます」
気がついたらすぐ後ろに彩佳が立っていて、頬を駿河の背に押し当てていた。
「……ねぇ、帰りましょう? 疲れたでしょう、いろいろと」
それから彼女は正面に回り込み、呆然と立っている駿河の首に腕を回すと、淡いピンク色の唇を頬に押し当ててきた。
「あなたが好きよ。忘れて、彼女のことは」
忘れらたらどんなに楽だろう。
できないから、こんなに苦しいんじゃないか……。