それじゃ、あとは若いお二人で
やっと視界が開けてきて、周は眼の前にいる相手を見た。
この暑いのにスーツを着込んでネクタイを締めている。それなのに顔には汗一つかいていない。
「何、してんの? ストーカー……」
「僕には駿河葵という名前がある」
ああそう、と言ったつもりが声にならなかったようだ。
「誰か旅館の人を呼んでくる」
咄嗟に周は駿河の袖を掴んでいた。
それは他の人を呼ばないで欲しいという意味と、一人にしないで欲しいという両方の意味があった。
「義姉さんが心配するから……」
駿河は相変わらずの無表情だが、納得してくれたらしい。無言で傍に立っている。
しばらくすると動けるような気になってきた。
「ちょっと肩貸して」
周は駿河の肩に手を置き、全体重をかけゆっくりと立ち上がった。
少しふらつくがさっきよりはだいぶマシだ。
「……で、なんでこんなところにいるの?」
「君は、お客に向かってそういう口の聞き方をするのか?」
「お客……?」
その時、慌てたように誰かが駿河を探しに来た。
「葵さん?!」
和服姿の中年女性。某有名アニメに出てくるお金持ちのお坊っちゃまの母親がそのまま抜け出してきたかのような、本当に『ざます』とでも言い出しそうな婦人がやってきた。
「こんなところにいたの?! もう、向こう様がお待ちよ!!」
夫人は周に一瞥くれると、駿河の腕を取って早く早く、と急かした。
周は今度こそちゃんと帽子を被って、冷たいスポーツドリンクを少しずつ飲みながら作業の続きをした。
ひょっとしてお見合いかな……。
※※※※※※※※※
島根県会議員を務めている父親を持つ、松江では名の知れた旧家のお嬢様だというその女性は、どこか美咲に似ている気がした。
ひょっとしたらわざと、彼女に似せるように化粧の仕方や髪形を真似させたのかもしれない。
伏し目がちで、おっとりとした、いかにもお嬢様育ちの見合い相手は、先ほどからほとんど口を開かず、聞かれたことに答えるのみだった。
なるべく眼を合わせないようにしつつ、彼は視線を相手の茶卓の方へ向けていた。
それにしてもよくしゃべる。
今日、駿河の付き添いでやってきたのは叔母夫婦である。彼女は立て板に水のごとく、途切れることなくどうでもいいおしゃべりをとめどなく続けていた。
「それじゃ、あとは若い者同士で」
叔母のおしゃべりにうんざりしたらしい叔父が、唐突に言った。
見合い相手の両親もホッとしたようにそうですね、と立ち上がる。
かくして駿河は和室で、お嬢様と二人きりになった。
本当はこの場に顔を出すつもりはなかった。
だが、幸か不幸か事件は起きず、父親に勝手に話を進められるぐらいなら、自分で出向いて言って丁重に断る方が礼儀だろうと考えたのだ。
しん、と部屋の中は静まり返り、気まずい空気が流れた。
自分もそうだが彼女もまた、それほど口数が多いタイプではなさそうだ。
「……外に出てみませんか」
駿河は立ち上がった。はい、と彼女も同意する。
以前にもこんなシチュエーションがあった。
父親に命じられて仕方なく見合いの席に臨んだのがこの旅館で、部屋に居ても会話がないので、外に出た。
その頃、既に美咲と知り合っており、彼女に心惹かれていた駿河は、どう言って断ろうかと思案に明け暮れていた。
今もそうだ。
少なからず事情は異なっているとはいえ、家の為に結婚するつもりはない。