尾道へ行こう
兄は嘘を言っていなかった。
彼は午後6時頃、家に戻ってきた。仕事が一段落したというのは本当らしい。
夕食の支度を始めていた周は、賢司が帰宅したことに驚いた。
因島の病院から帰宅してからずっと、夏休みの宿題にとりかかりきりで、気が付いたら夕方だった。
「どうしたの、そんなに驚いて」
賢司は笑っていた。
「いや、ほんとに仕事落ち着いたんだ……と思って」
「本当だよ。美咲は?」
義姉は今日も仕事に出ている。
ただ今日は予約が少なめで、宴会なども入っていなかったから早めに帰ってくると言っていた。
賢司は自分の部屋に戻り、服を着替えてリビングに戻ってくる。
周の頭の中では昼間和泉に言われたことがリフレインしていた。
何を信じるか、何が真実かを見極めるのは自分自身。
そうだと思う。
賢司が嘘を言っているとは思いたくない。
だけど和泉のことは信じたい。
「……周? どうしたの」
記憶にある優しい笑顔を浮かべて、兄は周の頬に触れる。
「今日は何してた?」
正直に本当のことを話せば、言いつけに背いたことも話さなければならない。
悩んでいるとメイが、にゃーと鳴いて飛びついて来た。餌の催促だ。
「餌をあげればいいのかい?」
賢司はシンク上の収納スペースから猫の餌用缶詰めを取り出した。
周は思わずその背中に向かって、
「賢兄、ごめん。俺、今日和泉さんと会った……」
返事はなく、振り返ることもない。
「約束してた訳じゃない、たまたまだけど。でも……俺、和泉さんのこと、賢兄が言うような悪い人だとはどうしても思えないんだ」
賢司は何も言ってくれない。周は次第に不安になってきた。
「義姉さんのことも、変な目で見たりしてないと思う。だから……」
兄はゆっくりと振り返り、こちらに近付いてきた。
叩かれるのかと身構えたが、
「そうか。周がそう感じたのなら、それが真実なのかもしれないね」
思いがけない返事に却って戸惑ってしまう。
視界の端でプリンが走って玄関に向かうのがわかった。美咲が帰って来たのだ。
ただいま、と三毛猫を腕に抱いてリビングに入ってきた彼女は、そこに夫がいるのを見てぎょっとしたようだった。
「おかえり、早かったね」
「賢司さんこそ……どうしたの?」
「どうしたのはないだろう、ここは僕の家なんだから」
そうね、と美咲は自分の部屋に向かう。
それから台所に戻って来ると賢司に言った。
「明日、桑原さんのご葬儀に行ってきます」
「桑原さん?」
「……先日、生口島で亡くなられた方。知り合いなの」
「そう、また生口島まで行くのか。大変だね。一人でかい?」
「……友達と一緒に……」
ふぅん、と兄は言ってそれで夫婦の会話は終わった。
ふと周は自分の部屋で携帯電話が鳴っているのに気付いて、急いでリビングを出た。
ディスプレイを見ると『篠崎智哉』の名前。久しぶりだ。
「もしもし?」
『あ、周? 元気にしてる?』
「ああ、智哉こそ」
『急だけど、明日って何か予定ある?』
「いや、別に……」
『じゃあさ、一緒に尾道へ行ってみようよ』
尾道? あんなところに何かあるのか?
寺と神社ばっかりじゃないか。周の胸の内を見透かしたかのように智哉は、
『尾道に親戚がいてね、母親からおつかい頼まれたんだけど……駅前にすごく美味しいお店があるって聞いたから行ってみたくて』
彼は一人で飲食店に入れないタイプである。
『あと、なんか有名なワッフルのお店があるらしくて、妹から土産に買って来いってせがまれてるんだけど……男一人でそういう店に入るのはちょっと……』
「いいよ、わかった。行こう」
尾道には小学生の頃に林間学校で行って以来だ。
楽しみになってきた。
ついでに、いろいろ悩んでいることを聞いてもらおう。智哉は周にとって何でも相談できる数少ない友人であった。




