空気も読めない
「葵さん、何か欲しいものある?」
こうなったら周のことは路傍の石と思うことにしたらしい。
彩佳は笑顔で駿河に話しかけた。
「彩佳さん……お願いですから、私のことはもう忘れてください。あなたとは結婚できません」
駿河は言った。いつもの抑揚のない彼の話し方だったが、どこか懇願するような響きが込められていたように思う。
彩佳は一瞬だけ顔を強張らせたが、すぐに笑顔に戻り、
「でも、もう決まったことですもの。葵さんのお父様も、式はいつにするかって仰っていますよ。早い方がいいですよね。今度のお休みはいつですか? 一緒にドレスを見に行っていただきたいんですけど」
そう言って彼女はバッグからパンフレットを取り出し、布団の上に並べ始めた。カラフルなドレスを着たモデルの写真が載っている。
「綺麗でしょう? 私、よく赤が似合うって言われるんですけどどう思います?」
「……」
「あ、それと引き出物ですけど……」
駿河はすっかり黙ってしまった。
そんな彼の反応にはお構いなしに、自称フィアンセは続けて話す。
「招待客はどうします? それから……」
一通り結婚式に向けて二人で話し合わなければならない題目をさんざん並べて、返事がなくてもそれだけで満足したようだ。
彩佳は広げたパンフレットを回収してバッグにしまいながら笑って言った。
「いろいろ決めなきゃいけないことがあるから、今回の入院はちょうどいい機会でしたよね。こんなことでもなければゆっくりお休みも取れないでしょう?」
「あんた、頭おかしいんじゃないのか?!」
我慢ができなくなって、周は思わず叫んだ。
「こいつは何者かに襲われて怪我して入院してんだぞ?! それを何が『いい機会』だ!ふざけんなよ!!」
今度は駿河も止めなかった。
「な、何よ! あなたには関係ないでしょ?!」
「ああ、関係ないね。けどな、関係はないけど俺には常識がある。あんたは明らかに頭がおかしい、イカれてる。こいつはあんたと結婚できないってはっきり言ったぞ。それなのにどんどん勝手に話を進めて……あんたの方が医者に診てもらうべきじゃねぇの?」
彩佳は唇の端を吊り上げるようにして笑うと、
「だから、もう決まったことだって言ったでしょう。葵さんのお父様が私に決めたって言われたのだから。誰も逆らえないわ」
駿河の父親が決めたことは絶対だと言いたいのか。
自信たっぷりの表情を見せていた彼女はしかし、急に険しい表情をして周に詰め寄ってきた。
「あなたこそいい加減にしないと、名誉棄損で訴えるわよ?!」
くいっ、と掴まれたままの手が後ろに引っ張られる。
これ以上何も言うな、黙っていろと言いたいのか。
しかし周は、
「何が『お父様が決めた』だ、こいつの人生はこいつ自身が決めることだ。親が決めることじゃない」
ガラっ、と病室のドアが開く。
まずい、うるさいって怒られる。
「誰が大きな声で騒いでるのかと思ったら、周君だったのか」
そう言って入ってきたのは和泉だった。
「さて、葵ちゃん。事情聴取の時間だよ。関係者外秘だからね、周君もお嬢さんも、僕と彼を二人きりにしてくれる?」
言い方はともかく、有無を言わせない雰囲気があった。
周は大人しく病室を出ようとした。
やや遅れて彩佳が出てくる。
彼女は周を睨みつけてから、かつかつとヒールを鳴らして去っていく。
帰るか、と歩き始めたところ、病室から周君、と和泉が手招きをしている。
「なんですか?」
「葵ちゃんが言いたいことがあるんだって」
なんだろう? と病室に戻る。
なんだよ、とあえてぶっきらぼうに駿河の元へ近付くと、いきなり頭を叩かれた。
「いってぇ! 何しやがる!?」
「黙って聞いていれば、ずっと『こいつ』呼ばわりか?」
反論の余地もない周は素直にごめんなさい、と言った。
すると、
「……でも、ありがとう。助かった……」
何と返事していいのかわからず、黙っていた。
ほどなくして和泉が、
「僕もこれから広島に戻るから、車で送ってあげるよ。待合室で待ってて」
その申し出を周は感謝して受け取ることにした。
帰りもバスと電車を乗り継いで、と考えたらげんなりしていたところだ。