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反対運動

 腕に巻かれた包帯に絵文字を描いた後、周はなぜか手を差し出してきた。

「……なんだ?」

「部屋の鍵」

「本気で着替えを持ってきてくれるつもりなのか?」

 すると彼は少し頬を赤くして目を逸らす。

「……仕方ねぇだろ。夏休み中の学生ってことで俺が一番暇だし、高岡さんに頼まれたんじゃ嫌とは言えないし……」

 なぜか班長が笑いをこらえているように駿河には見えた。

 それにしても、家族だったとしても、たとえば父や兄がここまでしてくれたかどうかは疑問だ。ここは礼を言うべきだろう。

 しかし声にならず、ただ黙って頭を下げることしかできなかった。


※※※※※※※※※


 翌朝いつも通りに出勤する途中、船着き場から表参道、旅館に至る道の途中、あちこちに『再開発反対』と書かれたのぼりやポスターが美咲の目に止まった。

 少し前までこんなものはなかった。

 

 おはようございます、と美咲はまず事務所に顔を出す。女将と専務の松尾がいた。

「サキちゃん、桑原さんが……」

「その話はあとでね。これ、皆さんで」土産物を机の上に置く。

 

 それから美咲は急いで板場に向かった。

「孝ちゃん、いる?」

 朝食の支度でバタバタしていた孝太だが、美咲の姿を見つけると手を止めてきてくれた。

「おかえり、サキちゃん。旅行はどうだった?」

 しかし美咲はそれには答えず、

「あとで少し話があるの。いいかしら?」

「うん、あとでな」


 朝食の後片付けが終わるとチェックアウトが始まり、清掃やその他の庶務をこなしている間に、午前が終わり昼近くになった。


 サキちゃん、と孝太が声をかけてきた。

「話って?」

 美咲は彼をできるだけ人気のない場所に連れて行った。


「ねぇ、もう昔の悪い仲間とはすっかり縁を切ったんでしょう?」

 孝太が学生時代、もっともロクに学校には行っていなかったが、暴走族を束ねていたことは周知の事実だ。

 しかし本人は気にしているらしく、顔を曇らせた。

「なんだよ、それ……」

「そうなんでしょう?」返事の代わりに彼は訊いてきた。


「サキちゃんこそ、今でもあいつと会ってるって噂は本当なのか?!」

「あいつ?」

「駿河さんだよ。仲居達がみんな不安がってる。もしそれが真実なら君は藤江さんから離婚されて、あの話も全部白紙に戻されるんじゃないかって」

「誰がそんな噂を流したの?」

 犯人に心当たりはある。充分過ぎるほどに。

「私よ。噂じゃなくて、事実でしょう?」

 いつからそこにいたのか、仲居頭の朋子が二人の後ろにいた。

「私、何度か見たのよね。あんたが駿河さんと会ってるところ」

「いい加減なこと言わないでください! たまたま出会うことは何度かあったけど、約束して会いに行ったことなんて一度もありません。いたずらに皆さんの不安を煽るようなことはやめてください!」

 この仲居頭は昔からそうだ。理由もなく美咲を目の敵にする。


 だから美咲に味方する人間も皆、彼女にとっては敵なのだ。


 少し前まではこんな時、ただ黙って何も言わないでいた。その方が得策だと思っていたからだ。


 しかし今はいつものように冷静ではいられない。


 その時だった。


「何をしてるんだ、お前達」

 美咲の伯父で御柳亭の社長である寒河江俊幸が通りかかる。


 社長、と猫なで声で朋子は文字通り伯父にすり寄った。この二人が長い間不倫関係にあることは、この旅館で働いている人間なら誰もが知っていることだ。

「なんだ、またお前か……美咲。あまり騒ぎを起こすなと言っただろう? だいたい嫁いだ身のくせに、仕事とは言ってもしょっちゅう実家に帰るようじゃ、旦那に愛想を尽かされるだろうが」

「それならもっと人を雇うか、業務内容の運用を変えることを検討してください。今のままでは従業員一人当たりの負担が多すぎて、お客様に質の良いサービスができません」

 美咲が反論すると伯父は溜め息をつき、

「人件費が一番嵩むってことは知ってるだろう」とだけ言った。

「目先の利益ばかり追っていたら必ず足元をすくわれます」

「あんた、いつから経営者になったのよ? 将来の女将候補だってちやほやされていい気になってるんじゃないわ!」

 朋子が吠えたてる。

「やめろよ!」孝太が止めても、まるで効果がないようだ。


 伯父で社長の俊幸は面倒くさそうに、持ち場に戻れとだけ言って去っていく。


 それからしばらくして、ようやく一息つける時間がおとずれた。

 美咲は事務所に顔を出し、そこに女将だけがいるのを確認してから中に入った。

「ねぇ、お母さん」二人だけの時美咲は、女将をそう呼ぶ。「明日、お休みしても大丈夫かしら? 桑原さんのご葬儀に出席しようかと思って」

 帳簿をつけていた女将の寒河江里美は顔を上げて、

「そう、それがいいわね。お香典を包むから持って行って」

 机の引き出しから封筒を取り出し、現金をいくらか包む。

「それにしてもいったいどうしてこんなことに……あ、そうだわ。孝ちゃんもお葬式に行くそうだから、一緒に乗せて行ってあげたら?」

 亡くなった桑原と孝太が昔馴染みで親しい間柄であることを美咲も知っている。

「孝ちゃんがいなくて、板場は大丈夫なの?」

「なんとかなるわよ」と、女将は笑った。


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