バラとボタン:2
「私、彼と結婚するの」
思わず嘘、と口にしそうになってあやうくとどまった。
「彼も私のこと気に入ってくれたみたい。だからかしらね、あなたのこといろいろと話してくれたわ」
彩佳は前を向いたまま、バックミラー越しにちらりと美咲を見つめて笑った。
心臓がドキドキする。
誰か嘘だと言って! お願いだから!!
「別れて正解だったって。陰気で湿っぽくて、一緒にいると気が滅入るって。結婚したらいい家政婦にはなるだろうけど、すぐに女としては見られなくなるだろうってそんなふうにも言ってたわ」
そんなの、あの人がそんなことを言う訳がない。
別荘が見えてきた。
「あの、もうここで降ろしてください」
彩佳はブレーキを踏んだ。車を路肩に停める。
美咲は礼を言って車から降りたが、何を思ったか彼女も後を追ってきた。
「お願いがあるの」
「お願い……?」
「もう二度と、葵さんに近付かないで」
「……!」
「過去は思い出させたくないの。これからは私と一緒に未来を築いていくんだから」
「私……近付いたりなんて……」
時折、思いがけない時に出会うこともある。
たいてい向こうは仕事の途中で、決して自分から会いたくて会うような真似はしていない。
彼の姿を見る度に今でも胸が痛む。
何も言わないから、何も聞かないから余計に……。
「言いたいことはそれだけよ、それじゃ」
どうして? と、美咲は走り去る車の後ろ姿に向かって声もなく叫んだ。
どうしてこんな思いをしなければいけないの?!
どうして私が?!
「美咲……」
後ろから賢司の声がした。
「亜由美さんは、何て?」
振り返ると夫は三毛猫を腕に抱いて玄関の前に立っていた。
猫はするりと彼の腕から降りると、美咲の足元にまとわりつく。
だいたい言われることは想像がつく。
MTホールディングス社長の高島亜由美と藤江製薬社には深いつながりがある。経営者同士が顔見知りという縁のせいだ。
向こうに迷惑をかけるようなことはするな、藤江の家に嫁に来た身分をわきまえてくれ。
美咲は何も言わないで通り過ぎようとした。しかし、
「会社のことなら、気にしなくていいんだよ」
思いがけない言葉に足を止める。
「宮島の再開発計画のことだろう? 君は反対なんだね?」
「あたりまえでしょう?!」
賢司に苛立ちをぶつけてしまった。
口に出してしまってから美咲は後悔する。
しかし夫は苦笑しただけで何も言わなかった。それから、
「この件に関して、僕は口出しをするつもりは一切ないよ」
「……ほんとう?」
「君の好きなようにするといい」
どういうつもりかしら?
美咲は喜び半分、疑いの気持ちで夫の横顔を見つめた。
「義姉さん!」そこへ弟が飛んでくる。「大丈夫? あのオバさんに何か言われた?!」
「大丈夫、心配しないで」
彼の顔を見ていたら泣きそうな気持ちはどこかへ行ってしまった。
「私は負けないわ、決して」
今までだって負けずにやってきたのだから。