バラとボタン
彼女が何者かを、美咲は知っている。
MTホールディングス社長の秘書だ。名前は確か、野村彩佳。
その彼女がこの島に社長と一緒にいるのは不思議ではないとしても、駿河と一緒にいたのは驚きだった。
周は彼女が彼の見合い相手だと言っていたがとても信じられなかった。
いやしかし、あり得ない話ではないだろう。
彼自身の意志に反してということもある。
なんて、そんなのは自分に都合の良い考えだろうか。
彼女はしかし何の用でわざわざここまで訪ねてきたのだろう。
やって来るなり話があるからちょっと来てと言われ、訳もわからないままついて行ってしまった。
もしも、あのことに関する話なのであれば黙ってはいられない。
野村彩佳が美咲を連れて行ったのは、高島亜由美の別荘だった。やはりあの話か。
「社長、お連れいたしました」
亜由美はソファに深く腰掛け、脚を組んで悠然と美咲の方を見た。
「何か御用でしょうか?」
しっかりしなきゃ! そう頭では思うのに、いざ彼女を前にすると声が震えてしまう。
「わかってるでしょ? 例の件、悪いようにはしないって言ったじゃない。それなのにどうして裏切ったりするの」
『御柳亭』はMTホールディングスの計画する再開発事業に対し、それまで煮え切らない態度をとり続けていた。社長である美咲の伯父は優柔不断なところがあり、まわりは全員ハラハラしていた。
旅館が無くなれば働き口が無くなる従業員だって出てくる。皆いろいろな事情を抱えて働いているのだ。
美咲は話を初めて聞いた時から反対を推していた。
長い時間がかかって昨夜、ようやく反対側に立場を決めたという連絡を受けたが、まさかもう彼女の耳に入っているとは。
「これ以上、島をかきまわさないで欲しいのです。今だって鹿のことで問題になっているのに、これ以上自然を破壊しては、生態系が崩れてしまいます」
亜由美はあはは、と大きな口を開けて笑った。
「みんな、言うことは一緒。自然を守れ、生き物達の住処を奪うな……でもね、人は昔から今あるものを切り崩して新しい時代を造り出してきたのよ。そうでしょう?」
そうかもしれない、だけど……。
野村彩佳が紅茶を2人分運んでソファ前のローテーブルに置いた。
亜由美はカップを口元に運んで、
「ご主人はなんて言ってるの?」
座ったら? と言われて、美咲は自分が立ったままであることを自覚した。
「あの人は関係ありません」
「あら、そんなことないでしょう。大株主でスポンサーなんだから、口を挟む権利はあるわよ」
「私はもう、あの人への義理は果たしたつもりです。賢司さんには何も言わせません」
亜由美はしばらく黙ってじっと美咲を見つめてきたが、
「あなた……大人しいだけかと思ったら、意外に気が強いのね。男ってそういうギャップに弱いって言うわよね。ねぇ、彩佳ちゃん。あなたも彼に意外な一面を見せたらいいのんじゃない?」
社長秘書は困惑気味に笑うだけだった。
「話はそれだけよ。とにかく、私は誰が何と言おうと決めたことは実行するつもり。どんな手段を使ってでもね。彩佳ちゃん、送ってさしあげて」
「桑原さんのこともそうですか?」
立ち上がって奥へ引っ込もうとしていた亜由美は足を止め、きつい眼で美咲を睨んだ。
「桑原さん?」
「まさか、彼を……」
「何を言いたいのか知らないけど、口の聞き方には気をつけた方がいいわよ。私が誰かってことをよく覚えておくことね」
美咲にはそれ以上何も言うことができなかった。
どうぞ、お送りいたします。彩佳は言って外に出た。
広い駐車場には3台もの車が停めてある。
彩佳はその内の一代、昨日亜由美が猫を轢いた車に乗りかけた。
「歩いて帰りますから」
「それでは私が社長に叱られます」
「……この車だけは、どうしても……」
彩佳は溜め息をつくと、違う車のドアを開けてくれた。ほっとして美咲は後部座席に乗り込む。
「……あなた、葵さんの婚約者だったんですってね」
いきなり何の前触れもなく、運転席の彩佳が言った。
「どうしてそのことを……?」
「彼のお父様が、葵さんとのお見合いの話を持ってきてくださったときにいろいろ話してくださったの」
周が言っていたことは本当だった。
「葵さんて本当に素敵な人ね。優しくて真面目で……私、彼のことが本気で好きよ」
どう答えていいのか美咲にはわからなかった。




