台風がやってくる
買ってきたケーキどころか、夕食すら食べようとしない。
美咲は散歩から帰ってきてからずっと、2階の寝室にこもりきりで、一度も降りてこなかった。夕食の用意ができたと声をかけても返事が無い。
周だって気分は悪いが、時間になると自然に空腹を覚えてしまう。
「賢兄、何とか言ってやれよ」
「なんとかって、何を言えばいいの?」
「だから、慰めてやるっていうか……」
「僕はそういうの苦手なんだよ。うちの猫は無事なんだからいいじゃないか、なんて言ったりしたら、余計に怒らせるだけだろう?」
確かにこの兄ならそういうことを言いそうだ。
だからと言って、自分が何か適切な言葉をかけられる自信もない。
車に轢かれて息絶えてしまった野良猫はあの後、ゴミ回収の担当者が持って行った。
動物が『器物』扱いなのは知っているが、ああいう場面を見ると胸が痛む。最近ではペットを埋葬する寺だってあるというのに。
誰か何とかしてくれ、と思った時に周の携帯電話が鳴り出した。
石岡孝太の名前がディスプレイに表示されている。
どうしたんだろう? 旅館の方で何かあったのだろうか。
「もしもし?」
『あ、悪い。サキちゃんにかけたんだけどつながらなくて……』
「すみません、いろいろあって……代わりましょうか?」
寝室のドアをノックする。返事はない。
寝てしまっているのだろうか?
カリカリと猫がドアに爪を立てる音が聞こえる。
周は思い切ってドアを開けた。プリンが飛び出してくる。
「義姉さん、電話……義姉さん?」
美咲は眠り込んでいた。頬に涙の痕がくっきり残っている。
「寝ちゃてるんですけど、起こしましょうか?」
『いや、いいよ。そしたら伝えてくれないか? 社長から専務をはじめ、女将もみんなで反対運動に加わることになったって』
「反対運動……?」
『それだけ伝えてくれればわかる。じゃあな』電話は切れた。
何の反対運動だろう?
旅館の眼の前に高層マンションでも建設されるのだろうか? あるいはパチンコ屋とか?
「……ん……」
美咲が身じろぎして、うっすらと眼を開けた。マズい。
周は慌てて部屋を出ようとしたが、そのタイミングでなぜかメイが飛び込んできてニャアと一声鳴く。
「周君……?」完全に眼が覚めたようだ。
「あ、あのな、今携帯が鳴って、孝太さんから! で、義姉さんに代わろうと思って来たんだけど」
「孝ちゃんから、なんて?」
「なんか、反対運動に加わることになったとか……」
美咲はぱっ、と顔を輝かせた。
「本当に? そう言ったのね?!」
「うん、社長から専務から、女将もって……」
良かった、と彼女は笑顔を見せて目尻を拭う。
「晩飯、食うだろ? 賢兄も心配してるぜ」
美咲は起き上がってワンピースの裾を直すと、なぜか一瞬だけ妙な顔をした。
しかしすぐに笑顔になって部屋を出てくる。
リビングに降りてきた妻を見た賢司は、誰と話していたのかそれじゃあと電話を切った。
「美咲、もう落ち着いたの?」
「ええ、ごめんなさいね。食事の支度を全部させちゃって……」
周はテレビをつけた。ちょうどニュースが放送されている時間だ。
天気予報で明日は台風が日本列島に直撃するため、今の内から充分な警戒をして備えをするようにと気象予報士が言っている。
「明日帰る予定なんだろ?」周は兄にたずねた。
「そのつもりだよ……しまなみ海道が通行止めにならなければいいけど」
嫌な予感がしてならなかった。