引きたい時に風邪は引かない
決して人前で感情を顔に出すな。
考えていることを気取られるな。
幼い頃から父親にそのことを徹底的に仕込まれたせいで、学生時代から今に至るまで一貫して「サイボーグ」だの「人造人間」だのと呼ばれてきた。
とはいえ悪いことだとは思わない。
自分にだって人並みに感情はある。ただ、それを表に出すか出さないかの違いだ。
他人が自分に対して抱いている勝手なイメージでは、塵一つ落ちていない、鏡のように磨き上げられた部屋に住んでいると思われているようだが、実際のところはその辺の独身男性の1人暮らしの部屋とほとんど変わらない。
ひどく汚いわけでもないが、それほど綺麗でもない。
乾いた洗濯物をたたんでタンスにしまい込みながら、駿河葵は深い溜め息をついた。
原因は昨日遅くかかってきた電話にある。
彼の実家は広島市内の繁華街から遠く離れた、山奥の僻地と呼んで差し支えない場所にある。そこは駿河家が先祖代々受け継いだ土地である。
車一台がやっと通れる細い道のその先、急に開けた広大な敷地に、城のような巨大住宅が建っている。地元の人が揶揄して『安佐北城』と呼ぶほどの規模だ。
広島県警に就職が決まった時、駿河は迷わず家を出て一人暮らしをする決意をした。
それからは、一人暮らしをしている世の男性とほぼ変わらない。
滅多に実家に連絡はしない。
盆も正月も関係ない職種のため、一年丸々帰省しなかった時もある。
そもそも駿河にとって、実家などというものは決して心の休まる場所ではない。
帰ったところで母親はいない。
父親もそれほど歓迎してくれる訳ではない。
盆や正月となると親族が集まる。そうなると自然と、父親に万が一のことがあった時の遺産相続に関し、互いに腹の探り合いが始まり、この家の純血種ではない駿河にとって、一番居心地の悪い時になる。
とはいえ、彼は家の中で孤立無援だったという訳ではない。
古くから駿河家に住み込んで働いている文代さんという家政婦がいる。
今のこの時代に『奉公』などという言葉を遣うほどの年齢だが、足腰もしゃきっとしており、頭もしっかりしている。
彼女は幼い駿河の面倒を見てくれた人で、亡くなった母親にもよくしてくれた。
その文代さんが昨夜、久しぶりに電話をしてきた。
『葵ぼっちゃま、お久しゅうございます』
もう『ぼっちゃま』と呼ばれる年齢ではないのだが、彼女にとってはいくつになっても駿河は幼いままなのだろう。
「文代さん、どうかした? 何か用?」彼女と話す時だけは砕けた口調になる。
『用事がなければ、お電話を差し上げてもいけないんでしょうか』
「……ごめん、ご無沙汰していて……」
『まったくですよ! お仕事がお忙しいのはわかりますけど、たまには連絡してくださらないと!!』
ひとしきり小言から始まり、適当に聞き流している内に、いつもなら『何か必要な物はありませんか?』と締め括って最後になる。だが、昨夜はそうならなかった。
『明日はお休みですか?』
「うん。そうだけど……」何か事件が起きない限りは。
『では明日、こちらへお戻りくださいまし』
いきなり何を言い出すんだ。駿河は絶句した。
『もしもし、ぼっちゃま。聞いていますか?』
「聞いているよ、どうして急に……」
『無理ではありませんでしょう? 同じ市内ですし、電車や飛行機の手配など要りませんですものね。なんだったら車でお迎えに上がります』
「待って、どうして……」
『文代は明日、足腰が立たなくなって、起き上がることができなくなるかもしれません』
それを言われると何も反論できない。
気は進まないが、たまには一度ぐらい実家に顔を出すのも必要かもしれない。そうしたら盆には帰らなくて済む。
「わかったよ、じゃあ明日ね。何も事件が起きなければ……」
何か事件が起きればいいと思ったりもするが、そういう時に限って平和なのだ。
駿河は仕方がなく手土産など持参して実家に戻ることにした。