混乱
彼の弟は健太といって、いつも兄の後ろをくっついている子供だったそうだ。
母子家庭で、母親はやはり宮島の他の旅館で仲居をして生計を立てていた。二人の息子達は幼い頃から何かと問題行動が多かった。
万引きをしたり、交番勤務の警官の自転車をパンクさせたり、説教した教師の向う脛を蹴飛ばして逃げたりした。
「俺もあいつもとにかく学校が嫌いでさ、じっとしていられないんだよな。中学に上がったぐらいから、高校には行かないって決めてた。卒業したら働く、そう決めてたんだけど……その頃ちょうど、悪い奴らと知り合ったんだよ」
彼が昔、暴走族のヘッドだったという話は本人から聞いた。
「何の自慢にもならないけど、そりゃあ何度も警察の世話になったもんだ。今でもいるのかどうか知らないけど、交通課に山城っていう強面の警官がいてな、よく面倒見てくれたんだけど……」
そこへあの感じの悪い、朋子という仲居が周達のところへやってきた。
「ちょっと!! 402号室のお部屋の浴衣が全部Mサイズになってるじゃない!!全サイズ揃えておけって言ったでしょ?!」
「あ、すみません!」周は慌てて立ち上がった。
「まったく役に立たないわね! これだから学生アルバイトは……どうせ遊び半分でやってるんでしょう? プロ意識が足りないのよ。うちは老舗の、名の通った旅館なんですからね。誰でも働けるって訳じゃ……」
この仲居はいつもこの調子だ。
誰に対しても似たような態度を取るが、特に周のことは気に入らないらしい。
「気がついたんなら、自分で修正しろよ」孝太が口を挟んだ。
「何ですって?!」
「誰にだってささいなミスぐらいあるだろ。自分なんてこないだ、お客さんの食物アレルギーのこと俺達に伝え忘れたじゃないか。下手をすれば、危うく人を死なせるところだったんだぞ」
朋子は唇を噛んで黙り込んだ。
それから口の中で何か呟いてから去って行く。
「あ、ありがとう。孝太さん」
「別に、礼を言われるようなことじゃねぇよ。で、何の話してたんだったっけ?」
「弟さんの……」
「あぁ、そうそう。そういえば周って、刑事の知り合いがいたんだよな?」
和泉の顔が浮かんだ。それと同時に兄の言ったことも。
ついさっきまで少し忘れかけていたのに、また思い出してしまった。
「山城さんが今どうしてるか、聞いてもらえないか? 久しぶりに会いたいから」
すぐに返事はできなかった。
孝太が怪訝そうな顔で見つめてくる。
周はわかりました、と答えた。
和泉じゃなくても、お父さんの方に聞けばいい。それなら兄の言いつけに背いたことにはならないだろう。
休憩が終わって午後の作業に入る。
今日は土曜日で宿泊料金が割増しになるにも関わらず、満室である。周が大浴場の掃除を終えて一息ついていると、偶然近くを美咲が通りかかった。
仕事中はあまり話しかけないように言われている。
実際、彼女は今も忙しそうに早足で歩いている。今が繁忙期だから仕方がないが、この頃ゆっくり話もできていない。
しかし、
「周君!」と美咲の方から声をかけてきた。
義姉はうっすら額に汗をかいている。腕には大量の乾いたタオル。
「どう? 疲れていない?」
「……うん、まぁ……」
「周君が来てくれて、本当に助かってるのよ。女将も喜んでるわ」
全員が歓迎してくれてる訳でもなさそうだけどな、と周は胸の内で呟く。
サキちゃん、と向こうから誰かが彼女を呼んでいる。
はーい、と返事をしてから美咲はまたね、と声をかけて走って行く。
家にいる時とはまるで別人だ。
忙しいのを楽しんでいるというか、顔が輝いている。接客業が好きなタイプには思えないのだが、この仕事が好きなのだろう。生き生きしているように見える。
風呂場の後は玄関の掃除。
周が掃除用具を持って移動している途中のことだった。
「えー、それ本当?!」
「本当だって、私、聞いちゃったんだから」
どんな職場にも噂好きな従業員はいるものだ。二人の仲居が廊下の隅で額を突き合わせて、ひそひそと話をしている。
周が思わず足を止めたのは義姉の名前が出たからだ。
「それじゃ美咲さん、今でも彼と……?」
「そうみたい。そりゃ、あれだけいろいろあった末だものね。忘れられる訳ないでしょ」
「ねぇ、そうすると離婚って話も……」
「あるわよ、きっと。彼女が離婚されたりしたら、あの話はどうなるの?」
「そうよ! 今そんなことになったら、あの話がどんどん進んじゃうじゃない! そんなことになったら私達、リストラの対象になるかも……!!」
「そうなったら今度も、美咲さんに何とかしてもらいましょうよ」
「無理よ。あのMTホールディングスの社長って、女らしいもの。そっちの趣味でもあれば話は別だけど……」
二人の仲居は苦笑する。
「おい、どういう意味だよ?!」
相手が年上であることなど、この際どうでも良かった。
周は掃除用具を床に置き、思わず二人の仲居に詰め寄る。
まさかそこに噂の相手の弟がいるとは思っていなかっただろう。さっと彼女達の顔から血の気が引く。
二人の仲居は顔を見合わせ、どうする? と言い合っている。
「うちの義姉がいったい何だっていうんだ!!」
「あなた達、何してるの?」
そこへ女将がやってきた。不穏な空気を察知した彼女は二人の仲居に、持ち場へ戻るように命じ、周の方を向いた。
「どうしたの、周君」
「……」
何から訊いていいのかわからなかった。
「あの二人が、サキちゃんのことで何か言ってたの?」
「どうして……」
女将は悲しげな顔で首を横に振る。
「ごめんね、周君。サキちゃんのことをいろいろ言う人がいるのよ。どうしてかって思うでしょうね。でも、それは私からは言えない」
「なんだよ、それ……」
「サキちゃんは何も悪いことしてないの。ただ、あの子を取り巻くいろいろな環境があまりにも……」
「もういい」
周は掃除用具を掴んで玄関に向かった。
何も知りたくない。
何も聞きたくない。
誰も信用ならない。