祈りの声
救急隊員が地面に倒れている野村彩佳を担架に乗せようとした時だ。
「えっ?! ちょっと……!!」
いきなり彩佳が起き上がって走り出した。
意識が戻っていたらしい。彼女は猛然と孝太の元へ走り寄り、傍目には彼に抱きついたように見えた。
アスファルトの上に黒いシミがぽつり、ぽつりと流れ落ち、やがて血だまりを作る。
「……!!」
誰もが一瞬声を失った。
どこに隠し持っていたのか、彩佳が孝太を刃物で刺したのだ。
「石岡さん!!」駿河は力の限りに叫んで、彼に近寄った。
ポケットからハンカチを取り出して止血を試みる。
「タオルだ!! 綺麗なタオル持って来い!!」誰かがそう叫んだ。
孝太は自分の腹部を抑え、信じられないものを見る目で、掌に広がる血を眺めている。
がっくりと膝を折り、そのまま地面に倒れてしまう。
「孝太さん! 孝太さん?!」
「しっかりしろ!!」
彩佳はナイフを孝太の身体から抜き、血まみれの手で走り出した。
彼女はエンジンのかかっているパトカーの運転席に乗り込むと、急発進した。
不意打ちを食わされて、誰も動けないでいた。
その後すぐのことだ。
彼女の運転する車はガードレールを突き破り、崖に真っ直ぐ落下して行った。ドーンという爆発音。そしてすぐ、黒煙と火柱が立ちのぼった。
救急車は孝太を乗せて病院へ向かう。
普段静かな国道184号線は、いっきに蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
夫がひどく苛立っている。渋滞のせいだろうか。
美咲にとってはしかし、そんなことはどうでも良かった。今はとにかく孝太が助かることだけを祈るしかない。
周から連絡をもらった瞬間は、息が停まるかと思うほどショックを受けた。
孝太が、大切な幼馴染みが事件に巻き込まれて怪我をしたらしい。
美咲は正直に賢司にすべての事情を話して、病院へ行きたいと言った。すると驚いたことに彼が自分も一緒に行くと言い出したのだ。
孝太が運ばれたのは島根県との県境に近い三次市にある総合病院。高速道路に乗るまでに道路が混んでいて、案外時間がかかり、運転席の賢司は指でハンドルを叩いていた。
「……孝ちゃんのこと、知ってるの?」
美咲は賢司の横顔に話しかけた。返事はない。やがて、
「ああ、まぁね」
そう、とだけ答える。
「それに周も向こうにいるんだろう? 保護者として迎えに行かない訳にはいかないじゃないか」
「……それだけ?」
「それだけって、どういう意味だい?」
別に、と美咲は口を閉じた。
家を出てから約1時間半後、病院に到着した。
「義姉さん!」今にも泣き出しそうな顔の弟が美咲を見つけてくれた。
「周君、孝ちゃんは……」
「まだ手術が終わってない」
彼は義姉の後ろに賢司がいることに気付き、顔を強張らせた。
「大丈夫よ、全部本当のことを話したから」
本当に大丈夫か?と、その表情は物語っていた。
「ねぇ、周君。どうしてこんなことになったの?」
「それが……」
「周、警察の人はどこにいるんだ?」
いきなり賢司は弟の腕をつかんで詰問した。
そこへ「周君? 美咲さんは……」やってきたのは和泉だった。
いったい何があったのか、怪我だらけで、痛々しい姿をしている。
賢司は和泉につかつかと近寄ると、いきなり平手打ちを喰らわせた。
それから彼は周を自分の腕に抱き寄せ、
「周は、僕の弟は民間人ですよ? まだ17歳の子供です。それなのによりによって警察の人が、事件に巻き込むなんて……!!」
和泉は目を伏せて、それから応えて言った。
「弁解の余地もありません。申し訳ありませんでした」深く頭を下げる。
「たまたま無事だったから良かったようなものの、周に何かあったらどうするつもりなんですか?! あなた方はそれが仕事なのだから、怪我をしようと、最悪の場合は殉職しようと、ご家族は納得するかもしれません。けれどこの子は関係ないでしょう?!」
「……仰る通りです」
「違うよ、賢兄! 最初は帰れって言われたんだ!! けど、俺が無理矢理ついて行っただけなんだ。孝太さんのことが心配だったから……」
「お前は黙っていろ」
周は青い顔をして黙りこむ。
「警察はそんなに人手不足で、こんな素人の、それも子供を使わなければならないほど捜査能力が落ちているんですか?」
和泉は頭を下げたまま黙っている。
美咲は何も言うことができなかった。本当は弁護してやりたい。けれど、適当な言葉すら思い浮かばないのだ。
藤江さん、と静かな声がした。
「申し訳ありません、私の責任です」
和泉の上司であり父親である高岡聡介があらわれた。
「どうか、お気を鎮めてください。もう二度と彼を……周君を巻き込むような真似はいたしません」
和泉よりもっと深く、土下座でもしそうなほどに深く頭を下げて、彼は言った。
その時『手術中』のランプが消えて、医師が出てきた。
「先生、孝ちゃんは……?!」美咲は思わず医者にかけよった。
「最善は尽くしました。後は本人の気力次第です」
ストレッチャーに乗せられた孝太の顔色は紙のように白い。これから集中治療室へ連れて行かれるのだろう。
もしもこのまま取り返しのつかないことになったら。
美咲は自分の中で、どす黒い考えが浮かぶのを感じた。
すべての元凶は高島亜由美。
禍の元を絶ち切らない限り、こんな思いをする人は増える一方だ……。
ふと、美咲は背中に温かい掌の温度を感じた。バカなことを考えないでくれ。そう言われた気がした。振り返ったが、誰が触れたのかわからなかった。
どうか、どうか孝ちゃんが助かりますように!!
美咲にはひたすら祈ることしかできなかった。