張り込み開始
駿河には何もかもわかっているのだ。
きっと孝太が話したに違いない。それはきっと、遺言。
美咲は一人で台所に立って夕食の支度をしながら、溢れてくる涙を止めることができなかった。
真実を知った彼はもう二度と、自分の前に姿をあらわすことはないだろう。
それでいいと思った。
どんな理由にせよ藤江賢司の妻である以上、旅館の命運を握らされている以上は、それを甘んじて受け入れた以上、愛しい人の姿を見れば心がかき乱されるだけだ。
孝太もそれを理解していて、敢えて彼に真実を伝えてくれたのだ。大切な旅館の為、そこで働く仲間達の為に。
会わなくなればきっといつかは忘れられる。
周はきっと寂しく思うだろう。あの子はすっかり駿河に懐いている。口ではああだこうだ言っても、彼を見かけると表情が明るくなる。
玄関の方で音がした。賢司が戻ってきたのだ。
美咲は慌てて目元をぬぐい、廊下に出た。
「……お帰りなさい……」
気のせいだろうか? 少し不機嫌そうだ。
「周はどうしたの?」
靴がないのに気付いたのだろうか。玄関を入ってすぐの弟の部屋を除いて、不在なのを確認したようだ。
「黙ってどこかへ出て行っちゃったわ」
それは演技でもなんでもなく、かつて周が誤解の末に、黙って家を出てしまった時のことを思い出して、涙が出てしまった。
嫌だ、と呟いて美咲は手の甲で目を擦る。
プリンが足元に擦り寄って来る。
夫はしばらく黙って彼女を見つめていたが、
「今度はいったい何があったの?」と可笑しそうに言った。
「……あなたの方がよく知っているんじゃないの? 賢司さん」
「僕が? どういうことだ」
「あなたが私と周君を、わざと仲違いさせるように仕向けているんじゃないの?」
賢司はくぐもった笑い声を挙げると、
「どうして僕がそんな真似をしなきゃいけないんだ?」
「私とあの子が、寒河江咲子の子供だから」
「……」
「あなたのお母様から、あなたから父親を……藤江悠司さんを奪った憎い女の子供達だから。そうなんでしょう?」
賢司はしばらく黙っていたが、
「君が何を言っているのか、意味がよくわからないよ」と、肩を竦めた。
美咲は黙ったままじっと賢司の目を見つめた。
先に逸らしたのは夫の方である。
「……楽しいでしょうね、人が自分の掌の上で思う通りに踊ってくれたら」
「だから、何が言いたいんだ?」
「私は、私達はあなたなんかに絶対負けない。言いたいことはそれだけよ」
美咲は三毛猫を腕に抱いて台所に戻った。
※※※※※※※※※
張り込みとはこんなにキツいものか。ただじっとして、対象の人物があらわれるまで待ち続けなければいけないなんて。
俺、刑事には向いてないかも……と周は思った。
孝太の弟が事故で亡くなった場所とは、海に浮かぶ島ではなく島根県との県境、カーブの多い山道でのことだった。
通行量はそれほどないが、道幅が狭く、左右に曲がりくねった道は、少しでも運転を誤るとガードレールを突き破って崖から転落する恐れがある。
怖いもの知らずで、スピードを落とさずに走っていた彼は、恐らくバイクの後ろに乗っていた弟を振り落としてしまったのだろう、と記録に残っていたらしい。
待避所に車を止め、周と駿河はひたすら孝太があらわれるのを待った。いわゆる緊急配備が敷かれているが、未だにそれらしい情報は入ってきていない。
時刻は既に午後4時を回ったところだ。
「なぁ……」周は運転席に座る刑事の、端正な横顔を見上げつつ声をかけた。
「なんだ?」
一瞬の躊躇いの後、周は尋ねた。
「今でも、うちの義姉さんのこと好き?」
「……なぜ今、その質問なんだ」
「だって……今度こそ、本当に二度と会えなくなるんじゃないかって思ったから。転勤も多いんだろ?」
駿河は息をついてから答える。
「確かにそうだ。それで、君の質問に対してそうだと答えたところでどうなるんだ?」
ついさっき、彼は下手な慰めや気休めは言わない主義だと言っていた。つまり自分も人からそういうことは言われたくないのだろう。もしかして失敗したかと、周はほぞを噛む思いだった。
「俺はただ……俺に何かできることがあれば……そうしたいって」
顔を背けて窓から外を見つめる。
駿河の手が周の頭全体を包んだ。くしゃくしゃと髪を掻き回す、その仕草は優しい。
「気持ちだけもらっておく。ありがとう……」
胸が締め付けられる。
本当に、なんとかできないのだろうか?