虎穴に入らずんば虎児を得ず
二人が頬を寄せ合ってどんな話をしているのか、和泉の位置からではわからない。
ただ、もしかして、と思う。
石岡孝太はわざわざ敵地に乗り込んで、自ら情報収集しようとしているのではないだろうか?
考え過ぎか。でも、そうだとしたらかなり危険だ。
いくら腕っぷしの強さに自信があっても相手が悪すぎる。それに、どう見ても野村彩佳は彼に心を許しているようには見えない。
ところで肝心の高島亜由美はどうしているのだろう? このバーで男の一人二人引っかけているのではないかと考えて来たのだが、姿が見えない。
既に部屋で休んでいると見せかけて、実は広島に帰ったのではないだろうか。
その時、携帯電話が鳴り出した。フロント係からだ。高島亜由美が急に出かけたという。
和泉は急いで下に降りた。
「タクシーでどこかへ行かれました」
どこへ行ったというのだろう?その時、和泉の頭の中で閃くものがあった。
彼はフロント係に礼を言ってタクシーに乗り込み、駒込駅前までと伝えた。
すっかり日も暮れた駅前はだいぶ静かである。
和泉はMTホールディングスが新しく出店する予定のビルに向かった。当たり前だが作業員の姿はない。
まだ電気が通っていない暗い場所で、高島亜由美は一人佇んでいた。
和泉は物陰に隠れて様子を伺う。
すると嗚咽の漏れるような声が聞こえてきた。
かたん、と小さな音。
「ユキちゃん……」独り言か、あるいは何かに向かって話しかけているのか、高島亜由美は話し出した。
「あなたが東京に出たいっていうから、このお店、用意したのよ? それなのに、どうして自殺なんて……!」
彼女は小倉雪奈が自殺だと思っているようだ。
「自殺ではありませんよ、あれは他殺です」和泉は思わず口を挟んだ。
「誰?!」
ライターの火が灯る。しかし、僅かな光では何も見えない。
「やはり小倉雪奈さんは貴女の産んだお嬢さんで間違いないのですね?」
「誰なのよ?!」
高島亜由美が外に出てきた。和泉も姿をあらわす。
「……あなた、どうしてここにいるの?!」
「どうもこうも、休暇です。休みをどこで過ごそうと僕の勝手ですよ」
「さっき谷原さんに正式に抗議の連絡を入れたわ!! あなた、名前と階級は?!」
「以前、名刺をお渡しした記憶がありますが」
「知らないわよ、そんなもの! 今すぐ答えなさい!!」
かなり動揺しているようだ。
やれやれ。和泉は肩を竦めて答える。
「県警捜査1課の和泉です。和泉彰彦。警部補ですよ」
高島亜由美は携帯電話を取り出した。しかしなかなかつながらないようで、苛立って行くのが手に取るようにわかる。
「谷原本部長にご連絡ですか? 残念ですが、部長は今頃接待で流川か、怖い奥さんの待つ自宅へ戻っていますよ。女性からの電話には特に敏感な奥さんのいるお家に、ね」
女性社長は苛立たしげに携帯電話を切った。
「言っておくけど、私は誰も殺したりしていないわ」
「そうでしょうね、あなたは自分で手を汚すタイプではない。おそらく……小倉雪奈さんに桑原圭史郎さんを殺させた、いや、どちらかというと自発的にでしょうか」
二人が立っているのは本郷通りという、人と車の往来がそこそこ激しい道である。穏やかならぬ遣り取りに、近くを通りかかったサラリーマンがぎょっとした顔で通り過ぎる。
「彼は恐らく、あなたの会社にまつわる不正疑惑の証拠を持っていた。宮島を守る会に所属している彼は、それを使って再開発計画を阻止しようとしたのでしょう。彼の目的はあなたを脅すことではなく、あくまで宮島を今のまま守りたかったのだと思います。ところが雪奈さんはあなたが桑原氏に脅されたと考えたのでしょう。長い間、自分を支えてくれた足長おじさんの危機に、なんとかしなければと考えたに違いありません。桑原氏からあなた方に近づいてきたと仰いましたが、その逆ではないのですか?」
高島亜由美は何も答えない。
しかしやがて、
「なんなの? それ。随分良くできた作り話みたいだけど」
さっぱり訳がわからないわ、と鼻を鳴らす。