頭のなかの宮殿
「1934 降誕祭」と柊の葉と実で飾った文字が、帳場の壁に掲げられていた。その下で待ち構えていた支配人は、中村を見るなり渋い顔になった。三年前にも会ったことを覚えているのだ。中村も暗鬱とした気分になった。結局、三年前の殺人事件は迷宮入りとなった。そのことでホテルが損害を蒙ったということはないはずだが、捜査の失敗は彼らに悪い印象を残してしまったのだろう。
「警部さんでいらっしゃいましたね?」
支配人はカウンターの後ろから前へ回ってきて、中村の肘へ手を添えた。他の客の目があるからなるべく目立たないようにしてほしいというのがホテル側の要望だった。三年前の弱みもある。警視庁の立場は措いて、中村としては呑まざるを得ない。
ホテルから通報があったのは午前一時三〇分。いまは二時を少し回ったところ。すでに先遣隊は到着して現場の捜査を始めている。中村は支配人に促されて現場である二階の部屋へ向かった。
昇降機ではなく階段を使った。狭い階段を這うようにして鑑識課員が作業している。中村に気づくと「血痕が残っています」とだけ言った。見ると数段おきの壁際に血が垂れていた。見た目にもまだ乾いていないのがわかる。
血痕は点々と二階の廊下に続き、二〇二号室の前で途切れていた。その部屋の扉は開け放たれ、中が丸見えだった。床へ男がうつぶせに倒れていた。背中に細身のナイフが突き立っている。部屋の奥にある椅子には、呆然と死体を見つめる、浴衣姿の若い男がいた。若い男を挟んで刑事がふたり立ち、判断を求めるような顔で中村を見た。
鑑識課員たちの邪魔をしないように部屋へ入ると刑事に目配せした。「発見者というんですかね」と刑事のひとりが中村へ困惑の顔を向けた。
中村は支配人に頼んで取調べに使える部屋を用意してもらった。そして、死体を発見した青年をその部屋へ移した。
青年は何がなんだかわからないのだと言った。声からは感情が欠落していた。驚愕のあまりどんな態度を取ればいいのか決めかねているようだった。青年の説明では、部屋の扉がノックされたので開けると、被害者が倒れ込んできてそのままこと切れたということだった。どうして扉を開けたのか、真夜中なのにおかしいとは思わなかったのか、と問うと、開ける前に誰何したのだが返事はなく、しつこくノックをやめないので仕方なく開けた、と青年は答えた。殺されている男は一面識もない人物だという。どうして自分の部屋を訪ねてきて死んだのかわからない、と青年は頭を抱えた。
被害者はホテルの客だと支配人が証言した。欧州帰りで人気の芸人だという。
「警部さんはご存知ないですか? 人間百科事典大山百蔵というのですが」
中村は知らなかったが、刑事のひとりが知っていた。もう何年も前から人気の記憶術師だという。東京、大阪、満州と各地で舞台をつとめ、どこでも大入り満員にするという話だった。
「記憶術ってどんな芸だ?」
「たとえば、客を一〇人立たせて全員に生年月日や干支、好きな役者や食べ物を言わせるのですよ。それを舞台上で全部覚えてまちがえずに答えるんです。それから、客に百科事典の適当なページを開かせて、何ページかと聞いただけでそこに書かれていることをすらすらと答えたりするんですよ」
「おまえは見に行ったのか?」
「ええ、せがれにせがまれまして、一度見に行きました。たしかに感心はしますが、それほど面白いものでもなかったですよ」
記憶術師はここ五年ほど毎年この季節には東京で公演し、このホテルに宿泊していた。ということは、三年前の事件の際にもここにいたわけで、中村も直接話を聞いているかもしれなかった。しかし、記憶術師の顔に見覚えはなかった。
中村は二〇二号室の客の身元を調べさせた。青年は商用のために昨日九州から上京してきたばかりだった。被害者とは無関係のようで、中村の目にも青年が嘘をついているようには見えなかった。いずれにせよ、数日内の捜査で明確になるだろう。
舞台では助手を務めている記憶術師の妻が、二〇二号室に呼ばれてきて死体を確認した。取り乱している妻も取り調べ用の部屋で待つ中村の前へ連れて来られた。殺された記憶術師の娘といってもおかしくないほど若かった。
「夫は一二時まで私たちの部屋におりました」
「あんたたちはどの部屋に泊まっているんだ?」
「五一二号室でございます。ここへ参りますときには、いつも五階のいちばん眺めの良いお部屋を用意していただいております」
「旦那は何でそんな夜更けに出て行ったんだね?」
答えが返るのに一瞬だけ間があった。
「何か人に会わなければいけないと言って出て行きました」
「誰に会うとか、どんな用事だとかは言っていなかったのか?」
「申し訳ありません。そうしたことは一切何も言わず、いつ戻れるかわからないから寝ているようにとだけ言って出て行きました」
帳場に確認した結果、被害者は玄関からは外出していなかった。ホテルから出ていたなら裏口から出入りしたことになる。実際、ホテルの内庭から外へ出る扉は錠が外されていた。そして、血痕も内庭から始まっていた。被害者は庭で刺されたあと建物に入り階段を登って二〇二号室まで歩いて行ったものらしい。
「旦那は誰かに恨まれていなかったかね?」
中村は怯えたように震えている被害者の妻を睨みつけた。妻は黙って首を振った。
「それは恨まれていないという意味か? それとも、知らないってことか?」
妻はもう一度首を振っただけだった。委縮している彼女に、中村は二〇二号室の青年の名を告げた。まるで知らない名前だという返事。夫の口から聞いたこともない、と彼女はすまなげに答えた。
目撃者が名乗り出たのは、被害者の妻を部屋へ帰して間もなくだった。まだ、彼女の体温が残っている椅子へ中村は目撃者を座らせた。目撃者は四〇八号室の客で三十前後の婦人だった。二人室にひとりで宿泊していた。派手ではないが芯の強そうな美しさがあった。しかし、地味な着物やぼやけた感じの帯など、どこかあか抜けない印象だった。
目撃者は人妻だと言った。元は東京に住んでいたが、結婚後夫と関西に転居したのだという。今回は女学校時代の恩師が入院したのでその見舞いに上京してきたと説明した。このホテルに泊まれるのだから金はあるにちがいない。だが、東京出身のくせに実家へ帰らないのにはどんな理由があるのだろう。もっとも、それを訊くのは単なる目撃者に対してはいささか失礼すぎる。
四〇八号室の客は、枕が変わると寝つけないたちでベッドに横になっていても目が冴えるばかりだったと語った。だから、バルコニーへ出たのは偶然だったのだ。そして真下から言い争うような声が聞こえたので、彼女は手摺に乗り出して下を見た。
「ちょうどふたりの男が反対方向へ歩き出したところでした。ひとりは裏口へ行って、そこから外に出て行きました。もうひとりが殺された方ですのね。よろめきながら建物に入って行きました」
「よろめいていたのですか? 被害者は背中を刺されていたんです」
「まぁ、そうだったんですね。暗かったのでそこまではわかりませんでした。私はてっきり酔っていらっしゃるのだろうと思ったんです」
「酔っ払いだと思ったのにどうして事件を目撃したと申し出ていらしたんです?」
「私、もしかして疑われているのでしょうか? ちがうんです、刑事さん、聞いてください。冬の夜風に当たったら寒くてよけいに目が覚めてしまったものですから、温かい牛乳でもいただきたいと思って、帳場へ内線電話をかけたんです。でも、誰も出ないので、自分で一階まで降りて行ったんです。そうしたらホテルの方たちがずいぶんとバタバタしていらして、何事があったんだろうと思ってお尋ねしたら、事件があったと教えてくださったんですの。それでハタと思いあたったものですから、警察の方がいらっしゃるのを待ってお話させていただいた次第なんです。おわかりいただけたでしょうか?」
彼女は一気にまくしたてると不安げに中村を見つめた。
「裏口へ行った男について何か覚えていることはありませんか? 特徴のようなものがあれば教えていただきたい」
「これは特徴といえるかどうかわかりませんが、その人は赤い服を着ていました」
「赤い男、ですか?」
中村は驚愕を隠そうとした。しかし、覆いきれない動揺は、目の前の女まで驚かせてしまった。彼女は心もち仰け反り目を丸くしていた。
これは単なる偶然なのか、それとも何か意味があるのか。三年前の事件でも犯人とおぼしき赤い男が目撃されていたのである。事件があった部屋は、今回の一階上の三〇六号室。宝石商の男が室内で今回と同じく刺殺されていた。所持していたはずの宝石も現金もなくなっており強盗殺人の線で、中村は捜査を進めた。
今回と同様、目撃証言もすぐに出て、事件は当初、早々に解決するのではないかと予想されていた。たまたま同じ階へ夜食を届けに来ていた客室係が三〇六号室から出て来た男の後ろ姿を見ていたのだ。その男は珍妙な赤い服を着ていた。しかし、赤い服の男は他の誰にも見られていなかった。ホテルの外へ出るには二通りしかない。帳場の前を通過して正面玄関を出るか、内庭から裏口を抜けるかだ。しかし、帳場の従業員は、ホテルのバーの閉店以降は赤い服の男だけでなく誰ひとり出入りしていない、と証言した。裏口は内側からカンヌキがかけられていて、誰かが敷地外へ出た形跡はなかった。
赤い服の男は三階の廊下から忽然と消えてしまったようだった。クリスマスも近いからサンタクロースだったんじゃないか。そんな馬鹿話が捜査陣の間でひとしきり流行った。しかし、クリスマスが過ぎてしまうとそんな冗談は誰も口にしなくなり、同時に捜査は暗礁に乗り上げた。犯人は盗んだ宝石を処分するだろうと質屋や故買屋にも網を張ってみたが、結局何も引っかからなかった。それからほとんど何も進展のないまま、一年を待たずに事件は迷宮入りした。
それが三年経って再びの赤い男である。これはただの偶然にすぎないのか。今度の事件も前の事件と同一犯による犯行なのか。そうではないとしても、ふたつの事件の間には何らかの関連性があるのか。
雪辱が果たせるのでは、と中村は身震いした。しかし、その一方で、そんなうまい話があるか、と興奮している自分を冷笑する中村もいた。
「あの……」四〇八号室の客は呆然としていた中村を現実に引き戻した。「目撃したと名乗り出てきたのはわたくしだけでしょうか?」
「と言うと?」
「わたくしがバルコニーへでたときに、もうひとりバルコニーへ出ていらした方がございます。わたくしの部屋からだと正面になる棟の三階の角の部屋です。男の方が出ていらっしゃって被害者の方がよろめきながら建物に入っていくのをご覧になっていたはずです」
中村は早速部下を指摘された部屋へ送った。三一五号室だった。その部屋には、小金を貯め込んでいそうな中年男性と、ひと目で玄人筋とわかる女性が泊まっていた。待合代わりにホテルを使ったらしい。
男性客はすまなそうに頭を掻きながら「大っぴらにならないなら」という条件で、四〇八号室の婦人の証言を裏付けた。しかし、外へ逃げていく赤い男のほうは記憶にないと言った。
「嘘はためにならんよ」
中村が脅しつけると、三一五号室の客は震えながら、まちがいありません、と答えた。毛の薄い頭頂部から湯気が上がっているようだった。
「結局のところ、なぜ被害者は二〇二号室へ行ったのかということが問題のわけですよね」
いよいよ明日はクリスマスだという日、全身黒ずくめの若い刑事がそう言った。彼は柏木といって、警視庁捜査局長真名古警視直属の捜査員だった。黒い背広に黒いネクタイ、黒い帽子に黒い外套、何から何まで黒ずくめなのは、真名古警視の模倣だった。職階上はもちろん警部である中村の方が上だったが、捜査局長の権威をかさに着てまるで対等のような口をきく。局長直属の刑事は四人いた。その四人が四人とも同じように真っ黒く、そして人を人とも思わない不遜な態度だった。彼らは陰で「鴉」と呼ばれていた。捜査局では誰も良く言う者がいなかった。
鴉のひとり、柏木はホテルに詰めていた中村の前へ突然現れた。
「局長は警部が三年前の轍を踏むのではないかと危惧されています」
柏木は真面目くさった顔で腹が立つようなことをさらりと言った。こんなことが無頓着に言えるからこそ、警視には重宝されているのかもしれない。中村はかえって感心してしまった。
「二〇二号室の客は本当にシロだったんですか?」
捜査記録をひと通り読み終えた柏木は、黒縁の眼鏡を細い指で押し上げた。
「それはまちがいない」
二〇二号室の客はもう九州へ帰っていた。一応、地元の警察へ監視を依頼してある。今のところ、不審な動きは見せていない。それどころか、知人や友人に東京で事件に巻き込まれたことを喜々として語っているという。目の前で人が息絶えたことも、時と空間を隔てればたちまち土産話に変わってしまうということだ。
「だとすれば、あの部屋に何か目的があったということではないのですか?」
中村は憮然として答えた。
「そいつに書いてあったろう。あの部屋も徹底的に調べた。何も見つからなかった。だいたい被害者があの部屋を使ったという記録がホテルに残っていないんだ。あの記憶術師は二〇二号室へは初めて行ったんだよ」
「なぜ彼はそんな部屋へ行ったんです?」
「瀕死の状態だからな。意識だって混濁していたのだろう」
中村は自分でも納得できずにいる答えでお茶を濁した。
柏木はバットの袋から一本抜いて咥えた。ホテルの燐寸で火をつけた。天井に向けて勢いよく煙を吐き出す。意識しているのか、それは中村を馬鹿にしているようだった。
「内庭から建物に入って右へ行けば帳場はすぐです。助けを求めるならそちらへ行けばいい。しかし、彼は左へ曲がり、わざわざ階段を登っている。五階の自分の部屋へ行くつもりだったのなら、やはりロビイへ出て昇降機に乗るのが普通でしょう。二階へ行った彼はそのまま二〇二号室へ行って扉をノックした。二〇一号室でも二〇三号室でもなく、二〇二号室の扉だけ叩いたんです。つまり、被害者は人に見られたくなかった。そして、目的があって二〇二号室へ行ったとしか考えられません」
「そうだとすると、どういうことなんだ?」
「さあ、どうなんでしょう? 警部はどう考えます?」
三〇六号室の客から部屋の前に不審者がいるという苦情が入って、ホテルの従業員が駆けつけると、部屋の前を何度も往復していたのは柏木だった。営業妨害だと支配人にねじ込まれた中村は即座に柏木を呼びつけた。しかし、この鴉は悪びれることもなく、三年前の事件のほうはおおむね片付いたと言った。
「片付いたとはどういうことだ?」
「文字どおり片が付いたってことです」
生意気な口ぶりに殴りつけてやりたかったが、捜査局長の酷薄そうな顔が目に浮かび、中村は奥歯を噛みしめてこらえた。
「迷宮入りした事件だ。おまえさんが考えるほど単純ではないよ」
「三年前はそうだったかもしれません。でも、いまは状況が変わったんです」
「状況が変わった? どう変わったと言うんだ?」
「新しい事件が起きたからです。ふたつの事件は関連しています。今度の殺人が前の事件の手がかりになる」
「同一犯の犯行だと言うなら、それは短絡的すぎる。経験の浅いおまえさんにはわからないかもしれないが、実際の事件というのはそんな単純ではない。数学の問題とはちがうんだ、頭のなかだけでは答えは出ない」
「われわれはまず論理的であるべきだと、日頃から真名古局長はおっしゃいます」
「あの人には言いたいことを言わせておけばいい。それに裏付捜査の必要性はあの人がいちばんわかっているはずだ」
「ごもっともです。局長は現実の重要性をよくご存じです。それで、わたしは裏付けを得るために被害者の細君と話したいんですが、よろしいでしょうか」
柏木は満点の試験答案を返却された学生のように自慢げに笑ってみせた。
記憶術師の妻は五一二号室にはいなかった。喫茶室で目撃者の婦人と一緒にいた。ふたりは事件を通じて急に親しくなったらしい。若い未亡人を四〇八号室の女性が姉のように慰めている姿が、ホテルのあちこちで目撃されていた。
中村たちが近づいていくと、四〇八号室の婦人は察しよく席を立った。すれちがいざま「かわいそうな人ですからあまり虐めないであげてください」と中村に耳打ちしていった。鼻先に白檀が香った。
柏木がとってつけたような笑顔で被害者夫人に声をかけていた。捜査員たちが〈捜査本部〉と勝手に呼んでいる客室へ移動を促す。夫人はしぶしぶ腰を上げた。
記憶術師の妻は事件当夜と比べればだいぶ落ち着いていたが、それでも不安そうに部屋の中をきょろきょろと見回していた。煙草の煙がもうもうと立ち込めている部屋には、彼女のほかには柏木と中村がいるだけだった。調書を記録する巡査さえ同席していなかった。
「簡単なことをちょっと確認したいだけなんです」
夫人の前に座った柏木が軽い調子で始めた。しかし、彼の黒づくめの姿はむしろ彼女を警戒させていた。夫人は顔を伏せ、肩をすぼめ、椅子の上で栄螺にでもになろうとしているようだった。
「ご主人はどうして二〇二号室へ行かれたのでしょう? 何か心当たりはありませんか?」
夫人は幼女のように首を振った。
「二〇二号室の客はご主人とはまったく無関係のようですし、あの部屋にご主人が入られたこともないようなのですね。ご主人があの部屋へ行かれた理由については、私たちにはもうお手上げです。降参です。それで、奥さんなら何かわかるんじゃないかと期待しているのですよ」
「はあ……そうおっしゃられましても……」
夫人は膝の上で白いハンカチを両手で揉みしだいた。
「そうですか……どんな小さなきっかけでもいいんです。気にしていてください。もし、何か気づかれたら教えてくださいね」
柏木は微笑んでみせた。しかし、その笑顔も本人が期待しているほどには効果を上げない。夫人の身体はいよいよ固くなって、漬物石に変身しそうだった。中村は下手な芝居を見せられているようで奥歯で笑いを噛み殺した。
「そういえば、ご主人は記憶術を持ち芸とされていらっしゃいましたが、それってアレでしょ? アチラで身につけたものなんですよね?」
尋問のまずさには一向に頓着していない様子の柏木はくだけた調子で先を続けた。
「ええ、欧州で学んだと聞いております」
「ほう、ヨーロッパですか。実際、どうやって覚えるんです? あなたもご主人から手ほどきぐらいは受けたのでしょう?」
「方法は単純なんだと申しておりました。場所と記憶すべきことを組み合わせて覚えるんだと教えてもらいました。たとえば、煙草と鉛筆と女物の帽子を覚えるのであれば、ご自宅へお帰りになったところを思い浮かべていただいて、まず玄関に下駄箱がございますでしょ。そこに煙草が入っているのを想像してください。次に廊下を行くとそこに鉛筆が転がっています。それから茶の間に行って夕御飯を召し上がろうとしたら蝿帳のなかに女物の帽子が入っていますのよ。どれも突飛な組み合わせでございましょ。それでかえって記憶に残るんでございます。これらの映像がはっきりと目に浮かべられれば、三日後でもひと月後でも、ご自宅に戻ることを思い浮かべれば自然と煙草と鉛筆と帽子が思い出せる仕組みだそうです」
「はあ、なるほど。そんなふうに覚えるのですか。学校の試験のときに知っていれば、ボクらみたいにアタマの悪いもんには福音だったんですがねえ。でも、覚えなければいけない物が多ければそれでだけ大きな家が必要になりますね?」
「ええ、主人は自分の頭のなかには宮殿があるのだと申しておりました」
「じゃあ、このホテルなんかよりずっと大きな建物ですね」
夫人はハッとした顔をみせたが、すぐにまた顔を伏せて、膝のハンカチをしつこく揉みだした。彼女の夫が記憶術師でなく手品師だったなら、ハンカチの間から鳩が飛び出したかもしれない。
柏木は被害者の妻を帰すと、「これで種は蒔きました」と中村を振り返った。
「種を蒔いたって――?」
中村が聞き返しても柏木は笑って答えなかった。そして、そのまま本庁へ戻ってしまった。
柏木が蒔いた種が収穫されたのは意外に早かった。翌朝は早くから雪模様で、舗道がうっすらと白くなっていた。冷気は皮膚から体内へ浸み入るようだった。そんななか、内庭の裏口を開けて出て行こうとしている記憶術師の夫人を、あらかじめ見張に立っていた巡査が見つけて捕まえた。手には旅行鞄をひとつだけ提げていて、そのまま姿を消す算段だったようだ。
「つまりあの女が亭主を殺したってことか?」
連絡を受けてあわててホテルへ駆けつけた中村は、ロビイでのんびりバットをふかしていた柏木に訊いた。
「いえいえ、とんでもない」生意気な鴉はニヤニヤ笑って首を振った。「少なくとも今回は彼女は被害者ですよ」
「今回はってどういう意味だ?」
「だから、問題はどうして被害者は二〇二号室へ行ったのかということなんです。そこの客とは関係がない。その部屋自体に何か用があったわけでもない。となれば、そこへ行ったという事実そのものに意味があったということになるでしょう。ただ、その意味が私たちにはわからない。でも、誰かがわからなければ、被害者にとって無駄になってしまう。じゃあ、誰ならわかるのか。単純に考えて女房ですよね? つまり、記憶術師があの部屋へ行ったのはカミさんだけにわかる暗号通信であり、遺言だったんです」
「なぜそんな回りくどい遺言を遺さなくちゃならない?」
「そりゃわれわれに知られたくないからでしょう。被害者は自分がもう助からないことをわかっていた。だから、よけいな邪魔をされないようにロビイへは出なかったんです。彼は自分をあの部屋に入れたかった。それだけなんですよ」
「二〇二号室にいることがどんな遺言になるというんだ? カミさんには一向に伝わっていなかったようじゃないか?」
「そうなんです。あの女はアタマが悪くてね。亭主の苦労は危うく無駄になるところでした。だから、ヒントをくれてやったんですよ。それでようやく亭主の伝言が理解できたんです」
「それで逃げ出そうとしたわけだ。だが、実際、どんな通信だったんだ?」
「記憶術ですよ。あの女房は自分でも言っていたでしょ。場所と物の組み合わせです。被害者があの部屋で発見されることで場所と物の組み合わせができるんです。二〇二号室と死体という組み合わせがね」
「わからん。それが何だ?」
「三年前は三〇六号室に死体はあったんです。いまは二〇二号室に死体がある。三年で死体は移動したと考えられます。一階下がって部屋番号は六から二へと四つ小さくなった。死体がそう移動したんですから、犯人だって移動しなくちゃおかしい。つまり、被害者は女房に自分を殺した人間がどの部屋に泊まっているか教えたんですよ。自分は三年前の犯人の泊まっていた部屋から一階降りて四つ小さな部屋番号の部屋に宿泊している客に殺されたんだとね」
「よけいにわからなくなった。犯人が移動しているってどういうことだ? まぁ、一歩譲って、犯人の部屋も移動しているとしてだ、それならそれで三年前の事件で犯人がどの部屋にいたかわかっていなければ話にならないだろうが」
「そうですよ」柏木は短くなった煙草を大理石の灰皿に擦りつけて、中村のほうへ身を乗り出した。「あのふたりは知っていたんです、三年前の犯人がどの部屋に宿泊していたか」
「何を馬鹿なことを言っているんだ。迷宮入りした事件だぞ。犯人を知っていたなら何で三年前に言わないんだ――あ、そういうことなのか」
「ようやくわかりましたか? そう、自分たちが捕まってしまうからですよ。あの夫婦は共謀して宝石商を殺害し、宝石を奪ったんでしょう」
「今回の事件はその復讐ということではないですかね。いずれにせよ、血の巡りが悪い女房もやっと亭主の伝言を理解して逃亡を企ててくれましたから、わたしの推理も裏付けが取れたということになるんじゃないでしょうか?」
柏木は椅子に反り返って新しい煙草に火をつけた。中村は若い鴉の推理に感心する一方で、喉に苦いものがこみ上げてくるのどうすることもできなかった。
「警部はそんなのんびり腰かけていていいんですか? 今回の事件の真犯人に逃げられちまいますぜ。ほら――」
中村が柏木の指差すほうを振り返ると、旅装を整えた四〇八号室の婦人が帳場のカウンターに歩いて行くところだった。五一二号室から一階降りて四つ小さな番号――中村は椅子から跳び上がった。
四〇八号室の婦人は身柄を拘束されると観念して犯行を自白した。記憶術師を誘惑して自室に誘い、そこで隙をうかがって背後から刺したのだという。「即死には至りませんでした。あの男はわたくしを突き飛ばしてバルコニーへ逃げました。そして、そこから飛び降りたのです」記憶術師は内庭の針槐に跳びつこうとしたが枝が折れ、灌木の植え込みに落下した。それから瀕死の彼は最後の力を振り絞って二〇二号室へ向かったのである。「あの男を追ってわたくしもバルコニーへ出ました。そのときたまたま三階の角の部屋のバルコニーへも人が出ていらして、建物の入口へよろめいていく記憶術師を見たのです。そして、わたくしが見ていることにも気づかれました」
彼女はあわてて様子を見に行ったが、被害者を見つけることはできなかった。仕方なく、内庭から外へ逃げた者がいるように見せかけるため、裏口の閂をはずして部屋に戻った。「赤い服の男を見たと申し上げたのは三年前の事件から思いついたことでございます」
中村が動機を問うと、婦人は「仇討ちでございます」と古風な理由を挙げた。三年前の事件の被害者だった宝石商は、彼女の弟だった。「この世にひとりきりの肉親でございました」と涙をこぼした。「弟の死が伝えられたのと、まさに同じ日に弟からの手紙が届きました。その手紙で、弟は一生の伴侶を見つけたと申しておりました。ただ、まだ他人の妻なので時間がかかる。晴れて紹介できる日が来たら大阪へ連れて行くと。そして、相手の女性の名前も、ご主人の名前も書いてございました」
「それでは、被害者の妻も殺害する予定だったのか?」
「そのつもりでございました。今回は機会を逸しましたが、これを機会にあの女と親しくなり、近いうちに大阪へ呼んで、向こうで決着をつけるつもりでした」
「さて、三年前の話をしてもらおうか」
記憶術師の妻はふてぶてしく、煙草の煙を斜め左上に吹き出していた。昨日までの殊勝な若妻という姿は演じていたものらしい。中村は机を叩き、ホテルの灰皿がひっくり返った。百戦錬磨の彼もこの女にはかなり手こずった。脅したりすかしたり、拷問すれすれの取調べをほのめかしさえして、ようやく自供を得られた。中村はすっかり消耗した。信条に反する脅迫までしたことで胸に渋い澱みたいなものが残った。
供述によれば、彼女が宝石商に近づいたのは初めから計画されたことだった。彼女が被害者とホテルの外へ誘い出す。その間に夫が部屋へ忍び込んで宝石を盗み出す段取りだったという。
彼女は宝石商を銀座の支那料理屋へ連れ出した。しかし、皮蛋だか芙蓉蟹だかが原因で口喧嘩になり、宝石商はひとりでホテルへ帰ってしまった。そして、彼は盗みに入っていた記憶術師と自室で鉢合わせになった。
記憶術師は持っていたナイフで宝石商を刺殺した。そのとき返り血を浴びてしまった。記憶術師は血に汚れた上着を裏返しに着て自分の部屋へ逃げた。舞台でも着ていた服の裏地は燃えるように赤く、その珍妙な姿を客室係に見られたのだった。
柏木は記憶術師の妻の自供を待たずに、真名古捜査局長の許へ戻っていた。手柄はふたつの事件とも中村がひとり占めできるはずだった。しかし、柏木と入れ替わりに私服の憲兵がやってきて、供述を終えた記憶術師の妻をさらって行ってしまった。
中村は唖然とした。三年前の事件には、記憶術師の妻が喋ったことのほかにまだ裏がある、ということはわかった。中村は捜査局長を通じて憲兵隊には抗議した。しかし、木で鼻をくくったような返事が、特高部経由で返ってきただけだった。釈然としない気持ちが残った。と同時に、長く背負っていた重荷をおろしたという安堵感もあった。
仕事納めの日、警視庁の廊下で、中村は柏木たち鴉の四人組と出会った。柏木は気づかぬふりで通り過ぎようとした。中村は柏木を呼びとめた。
「憲兵に連れて行かれちまった」
柏木はわかっているというように肯いた。
「理由を知っているのか?」
柏木は首を振った。中村は嘘だろうと思った。しかし、それ以上追求しなかった。柏木は小走りに仲間を追いかけて行った。
一九三四年、光文九年が終わろうとしていた――。