さあ出立です
必要なのは、愛。
母の口癖。
常に相手を見つめること。
相手に関心を持つこと。
相手に何かしてあげたいと考えること。
望みをさぐって必要としているものを見つけ出して、全力でそれをしてあげること。
母はお針子の仕事をしているときは、依頼主と服に全力で愛を注いでいるんだそうだ。
持てる力をすべて出して、感覚を研ぎ澄ましてさぐって、望みに答える。
望まれたならば、最大の努力を。
「結婚も同じよ。必要なのは愛。おまえは望まれたのだから、全力で若様を愛しなさい」
母がそう言って、送り出してくれたことを思い出したら、急に泣きたくなった。
短かった結婚生活だったけど、亡き夫フレイは私のことをすごくすごく愛してくれた。みんなに反対されて、それでもめげずに絶対に私と結婚して見せるって3年もがんばった。弟が勘定官になるために勉強しているのを喜んで、支援してくれたのもフレイだ。
だから。
私も応えた。
私はフレイを愛していた。フレイに愛された分だけ。
「相手が変わっただけ、なんて、そんなの無理」
泣きそうになるのをせき止める気持ちで、私は自分の胸を自分で抱きしめた。
「嫌い、苦手、いや、無理。そういう言葉を口に出すと、愛は消えてしまうものなの。たとえそう思っても言葉にしてはダメ」
「でもっ!」
私は悲鳴みたいな声をあげた。
「大公宮で、そんなのきっと通じない」
「そうかしら?」
「だって、別に見初められたとかじゃないもの。メイドを献上しますっていうだけだもの。だから、お母様の言うとおりになるのよ。おもちゃにされて、飽きて捨てられるの」
「そうねぇ」
否定するどころか、母はうんうん頷く。
「まぁそんなところだと思うわ」
ひどいっと傷ついている私の髪を再び撫でて、「安心したわ」と母は優しく笑った。
「・・・・・・なにが?」
「おまえがね、大公殿下のメイドになって、大公殿下の寵愛を受けて、お子を生んで、老後までウハウハ~なんて生活を夢見てるのかしら?って、ちょっと心配だったから」
いやいやいや。そんなわけあるか。
「おまえくらいの容姿の娘は、王都や大公宮に、掃いて捨てるほどいると思うのよ。正直に言って。だから大公宮にいる2年間を目立たないようにやり過ごしてもいいと思うの。まあ・・・・・・少しぐらいお相手をつとめても、放り出されるんじゃないかしら。そうなった後にどうするか、最初から考えておけばいいの。お金を貯めておくとか。新しい結婚相手を探すとか」
え~、結婚はもうしたくないかな。
やっぱりお金は貯めなきゃ!
「大公宮に集められた他の子をよく見ておけばいいかもね。おまえがうまくメイドとして使ってもらえるなら、大公殿下の御寵愛を受ける方に取り入ってみるのもいいかもね。ご側室もたくさんいらっしゃるみたいだから、そういう方々にお仕えできるかしらね。きっと学ぶことがあるわ」
母は力説する。
「御寵愛を集める方は絶対になにか美点がある。本当よ。それに勢いがあるから、仕事も多い。おまえがその方に愛を注いで尽くしたら決して人生の損にはならないと思うの」
うわー、母のこういうところは見習いたいわ〜。
嫌われ者の徴税官だけど、貴族の端くれではあった父が急死してすぐに母はお針子をやると決めた。
そしてきっぱり官衙を退出しちゃったのだ。
ほんとあり得ない。
私はその時、玉の輿に乗ってムスター家で暮らしていて、弟も学問邁進のためにムスター家に寄宿していた。私たちもびっくりしたけど、町中がびっくりした。それはそのまま看板となって母のもとには一気に注文が舞い込んだ。
好奇心から殺到した依頼主は、母の縫う服に魅せられて顧客になった。
母はほんとに一流の御針子なのだ。
「本当のことを言うと、大公宮に行けるなんて羨ましいわ。なんなら代わってあげたいくらい」
「え、お母様、大公宮を知ってるの?」
「まさか。でも、ほらこれ」
広げたままの袖無しの胴着を持ち上げて、くくり染めの薄布の部分を指差した。いきなり服を目の前に出されて、訳がわからないでいる私に、母はいきなり大きな目をキラキラ輝かせて言う。あ、なんか職人モードに入った。
「この布はね、もとは大公殿下のご側室のドレスだったらしいの」
そう言えば余り布って言ってたっけ。
もとはドレスだったものが、使用人に払い下げられて縫い直されて、ほどかれて別の服になって。その過程で出る余り布は、お針子の副収入みたいなものだ。美しい染めの布や貴重な布はどんなに小さくてもストックしている。
胴着の胸元に使われた薄布は、榛の木の黒色とやわらかな萌木葉の色のくくり染め。節の少ない細糸を使った、織り目のととのった、上質な布地。
「この薄布が使われていたもとのドレスはいったいどんな形だったのか、知りたいわ。そう思わない? あとはね、前にね、タンポポの花みたいなきれいな黄色の布を一反持ち込んだお客様がいて、そりゃあもう素晴らしい品だった。本当に輝くような黄色だったの。それでローブを作るように頼まれたんだけど、その布は大公宮からの下され物だって話だった。その時に聞いたのよ、大公宮には特別な染め物をする工房があるから、特別な染め色が出せるって!」
母の声はうっとりとさらに熱を帯びる。頬は紅潮して、夢見るような潤んだ瞳。
私もお針子の才能があったら良かったのにと、つくづく思う。
そうしたら、母の情熱を分かち合えたのに。
母の布への愛は深い。
私の愛はどこへ行けばいいんだろう。
晴れない気分のまま、私は大公宮から差し向けられたという馬車に乗って、はるかアースゲルまでの旅路についた。
嬲り殺されて、母に私の死体を引き取らせるなんてことにならないといいなぁ、と心の片隅で覚悟していたことは秘密だ。
アーマイゼ伯爵家の馬車に乗せられて
私が大公宮に向かったのはそれからひと月後のことだった。