夜が始まらない
ベルンハルト様、か。
大公宮に来て初めて聞いた大公殿下の名前に、私がうち震えていることが、目の前の老人にはわかっているんだろうか。
もしも、世が世ならば。
玉座にあったはずの名前なのだ。
40年前。
国を揺るがす政変が起きた。
それは、病床の国王に代わり王太子が即位することが決まったのだが、その直後にその王太子が急死したことによって引き起こされた。
王太子には嫡男つまりベルンハルト様がいたが、年はわずか8歳で、王国を継ぐには若過ぎた。そこで急遽、王太子の位は弟のハラルド様が継いで、そのまますぐに即位した。今の国王アーダルベルト陛下はそのハラルド先王陛下の子。
急激に新体制が作り上げられていく中で、かなりの数の新興勢力と没落者とを生んだ。多少なりとも身分や財産を持つものにとって、40年前の出来事は一大事件で、世襲代官の家柄のムスター家にとってもまた家の存続がかかった事態だったと教わった。
急死した王太子の名前、大公様の御父上の名前は・・・・・・私も教わったことはない。
今はもうアーダルベルト陛下の御代で、王国を継ぎ損ねた人の名前は消え失せている。
残された8歳の子は王家の嫡流から外され、大公となり、軍神と呼ばれている。
もしも、大公殿下が国王であったならば、私がお相手に選ばれるなどということには、きっとならなかった。世界は気まぐれにできている。
「まぁしかし、こうゆっくりと美女を眺めながら酒を飲むのも良いな。そなたは目の保養だな」
ノヴァリス将軍が厳しい顔を少しずつ崩して、また杯を重ねる。それでも一向に劣情めいた色が出てこないのだから、よほど心身ともに鍛え上げられた男なのだろう。すごいな。
「しかし、21歳か。若いな」
また言い出した。
同じことを言いだすのは酔っぱらってる証拠。
しかし、アルミナは酒を注ぐのをやめないし、大将軍はくいくいと飲む。
「こんないい酒を若い美女を眺めながら飲めるとはな、昔の私たちは思いもしなかった。ふむ、21か。
私が21の頃ということは、ベルンハルト様は11歳か。やっとベルンハルト様の軟禁が解けて婚約が整った頃だ」
主君の愛人を眺めて幸せそうにしているっていうのは、それだけ主君が好きなんだろうけど、さっきから大公様の名前を連呼してるので、ちょっとハラハラしてしまう。というか、大将軍は大公様を可愛い孫か何かと間違ってませんかねぇ。
「まだ11歳なのにベルンハルト様は賢くてどんな武芸もすぐに上達なさって学問にもはげまれて」
大将軍は思い出すように目を細めた。
「ああそうだ。やっと自由を取り戻せて、先の希望が見えた頃だ。成人の儀式も執り行われて、正式に王族として認められたのだからな」
「存じています。大将軍が奔走なさった話は」
あくまでも差し出される杯をお断りしながら答えると、大将軍はパッと嬉しげな表情をした。
「いやあ、私の力なぞたかが知れている。ベルンハルト様ご自身の力量があったからだ。あの方はご自分で運命を切り開かれた。だが、本当に、あの頃は思いもしなかった」
「ノヴァリス将軍。昔話は若い娘に嫌われますよ」
アルミナが笑う。
「ははは。そう言うな。私はただ、わかってほしいだけだ。ベルンハルト様がどれほどのものを背負われているか」
「それを若い娘に求めるのはムダです」
アルミナは容赦なく切り捨ててきた。大将軍は口を引き結び、八つ当たりするように私の方を射殺すような目で見る。私の胸元に視線を走らせてから一瞬だけ汚いものを見たかのように目をそらしたが、またくいっと杯を空けた後には、元の穏やかさを取り戻していた。
「しかしな。女どもはベルンハルト様のご苦労も知らずに富に群がってばかりではないか」
「エルマはよくやってくれていますよ」
大将軍に反論するようにアルミナが言ってくれたので、驚いて彼女を見た。
「だが、ベルンハルト様はなさった苦労をだな」
「いいんです!」
アルミナは酔っ払いを諭すようにビシッと言う。
「大公様がこちらでおとなしくお休みくださるんですから、いいじゃありませんか。すべてがうまくいくことなんてないんです。勝手なことを言わないでください」
「勝手なことか?」
「そうです。大公様をこのようにしたのは、あなたではありませんか」
そう言われて大将軍は、苦い顔をした。
そう言えば。
この大将軍は「子育てに失敗した」とか言われていたっけ。
もしかしてあれは、大公殿下のことなのか。
そこへ、再び扉が叩かれた。今度こそ、大公殿下のおいでになる前触れか、と嬉しくなったのだが。
入ってきた女官が告げたのは、
「今夜、大公殿下はしかるべきところでお休みになりますので、こちらへはおいでになりません」
という冷たい知らせだった。
「エルマがここで朝まで過ごすことは許す、とのことでございます」
今から部屋に帰れとは言わないよ、というわけだが、この豪華な寝台で、メイドの分際で一人眠れというのか。それはそれで困るなぁ。眠れる気がしない。
しかるべきところでお休みというのはつまり、大公殿下は今夜はファティマ妃のところに行かれるということだろう。お二人がどれ程の愛情をもって婚姻を結んだ仲なのかはちっともわからないけれど、少なくとも身重の妻のもとに夫が寄り添って悪いはずがない。大きなお腹を抱えてちょっと苦しそうなファティマ妃の背を、大公殿下が優しく撫でてあげたりするんだろうか。いや、王族はそんなことはしないのか。あんまり夢見るのはやめておいたほうがいいかもしれない。ファティマ妃の近くにいる女官を今夜は侍らせているのかもしれないし。
「しかるべきところでお休みか。わかった」
なぜか大将軍はうなるようにして言い、乱暴に杯をドンと置いた。少しばかり怒りを湛えた険しい顔で、
「邪魔をしてすまなかった。帰る」
と立ち上がる。
「ノヴァリス将軍、隣にご寝所を用意いたします」
アルミナが慌てて言うのを、いやいい、と制してしまう。
「ベルンハルト様ご寵愛の娘と、一晩一緒だったなどと誤解を招くのも嫌だからな。もともと少しお話したら退散するはずだったのだ。明日の朝にでもお目通りを願おう」
「でも、お部屋ならばすぐに」
「いや、やめたおこう。噂の娘をちょっと見てみようと思ったのは確かだがな。私まで遊びに巻き込まれるつもりはない」
「・・・・・・そうですわね」
アルミナが珍しくうめくような低い声で答えていたのが印象的だった。
「いいのよ、エルマ。遠慮しないで眠って。朝になったらちゃんと起こすから」
再三すすめられて結局、広すぎる寝台に横たわることになった。
でも、眠れるわけがない。大公殿下の御相手をするために準備した体はうずうずとして収まらないし、バカなことばかり頭に浮かんでくる。
ふと考えてしまったのだ。
あの美貌の大男は、どこにいるのだろう?って。
女官か誰かの寝台にでも潜り込んでいるのだろうか。
どこかの女が、あの乳香のむせるような匂いに包まれているのかもしれない。
思わず「ううぅ」と呻いてしまうと、アルミナが呆れたように寄ってきた。
彼女は、たとえ大公殿下がいらっしゃらなくても不寝番をするのだが、
「眠れないなら、本でも読んであげましょうか?」
とか嬉しそうに言い出すから泣きたくなる。
この状態で官能小説を朗読されたら、心が壊れそうなんでやめて。
「本はいいです。ノヴァリス将軍のことを教えてください」
とりあえず、そう頼んだ。