それは若葉の色
「あなた、本殿のメイドなのですってね」
「はい、そうです」
「許可が降りないので本殿に帰れなくなっている、とセイレーンに聞いているいますよ」
「はい、そうです」
「本殿のメイドは大公妃様のものです。勝手に引き取るわけにはいかないのです。わかりますね」
「はい、わかります」
セイレーンが言うほど簡単に工房で働けるとは思っていなかったけれど、ナセン様は全くもって私を引き受ける意思は無いようだった。仕方がない。
医務殿にはそれなりにお産の女たちを手伝う細々とした用事があるし、産着や肌着をひたすら縫ってあげれば喜ばれる。セイレーンの部屋で寝起きさせてもらってきたけれど、医務殿のどこか片隅に置いてもらえる自信はある。仕方がない。セイレーンとはお別れだ。
そんなことを考えながらも、かなり私は気落ちしていた。
そんな感情が伝わったのかもしれない。ナセン様は形のいい眉をひそめ、少し考える風だった。やがてフッと小さな吐息をついて近付いてきた。歩みと共に若葉色のドレスがさらさら揺れて波打ち、光がこぼれ落ちる。しゅるしゅると衣擦れの音も美しい。見とれてぼうっとしていると、ふいにナセン様に私の手を取られた。
「ひっ!」
思わず体を固くする。
「きれいな手ね」
そう言うナセン様の手は、指先が黒っぽく変色して、短い爪も異様な色だった。貴婦人である彼女が手袋を取って素手で触れてきていることに気がついて、肌が粟立った。
「この手で撫でられたい男は多いでしょう」
「ええええ、いえ、そんな」
「この手を潰して私のところで働こうと言うの。何てもったいないことを」
ナセン様の指の皮膚は一部が固くざらざらとしてごつごつしている。およそ貴婦人の手じゃない。母の手よりも、もっと過酷に働く手。大公殿下の寵愛を独り占めしていたというかつてのナセン様は、こんな手をしていなかったのだろう。セイレーンが憧れるナセン様も、結局は、美しい手をしていた昔の自分の方が好きなのだろうか。
「もったいないなんて、そんなことありません」
きれいな手がなんだというのだろう。
私は一流のメイドになろうと思っていた。
人から望まれるような有能なメイド。働き者の手を持つ、一流のメイドになりたかった。
セイレーンのように、人から欲しいと言われるような人間になりたい。セイレーンだって、貴族の愛人として美しいものを与えられる生活よりも、ナセン様に望まれて糸を紡ぐ生活を選んだ。
私も、人から望まれたい。
「私は・・・・・・私はちゃんと働きます」
思わず強く言ってしまったら、ナセン様ははじめて柔和に微笑んだ。
「そうね。あなた、ちゃんと働き者なのですね」
「え?」
「よくよく手を触ったらわかりました。セイレーンが言っていたことも嘘じゃないのでしょう。あなたのことをずいぶん褒めていたのです。肌着を完璧に縫うのだと。ここにいる女たちの世話も手伝っていると。本殿のメイドが命じられもしないことをするだなんて信じていませんでしたが、でも、手を触ればわかります」
「そうですよ。私、嘘なんて言いませんよ。こう見えてエルマは働き者なんです」
セイレーンが横から口を出して、むくれている。
「それに、なんですか。私の手なら荒れても惜しくないんですか。酷いですよ」
「あら、セイレーンはその手から誰よりも美しい糸を紡ぐのだからいいのです。私にとってはその手が何よりも尊いのです」
とセイレーンを一気に赤面させてから、ナセン様が笑って私の手を放した。
「それに!」
なおもセイレーンが言う。
「エルマは乳を揉むのがうまいんです!」
「え?」
ナセン様が思いっきり怪訝な顔で
「乳?」
と呟いて、そしてなぜか私の胸元をじっと見てきた。
「・・・・・・そうね、とても大きいですね」
「いえ、違うんです! 自分の乳なんて揉みません!」
慌てて首を振って、とっさに自分の胸を腕で隠すようにしてしまったら、セイレーンが笑いながら説明を足した。
「エルマの乳を揉む話じゃありません。ここの人たちですよ。お乳の出が悪い人に、そのお乳が出るようにするんです」
「お乳が出るように?」
ナセン様が首をかしげている。
「赤ちゃんが無事に産まれても、お乳ってなかなか出ない人もいるんですぅ。それに、胸にパンパンにたまってるのに詰まっちゃって出てこないっていうのもあるんです。あれって熱が出てほんと苦しいんですって! それが、エルマが乳を揉んであげると、嘘みたいに出が良くなるんです。昨日なんかも、ピューって飛ぶほど出てきたんです! ほんとにすごいんですよ! 私も子供が産まれたらエルマに乳を揉んでもらわないと!」
「そ、そう。それはすごいのね」
ナセン様が顔をひきつらせる。
「私には縁がないことだけれど」
いささか地を這うような声で、うわぁ完全に気分を悪くしているなぁというのが伝わってきた。セイレーンも、この話題がそこまでナセン様の気に触れると思っていなかったらしく、大柄な体を縮めるようにしている。まぁ、仮にも側室の肩書きを持っているのだから、たとえナセン様が隠れて恋人を持ったとしても、子供を産むわけにはいかないだろう。
かわいそう、なんて少し感じてしまった。
凍りついたような空気を打ち破ったのは、ナセン様だった。
「ねぇ、あなたの目、私は嫌いじゃありませんよ」
うふふと妖しい笑顔で私の顔をのぞき込む。その奥にわずかに敵意とか苛立ちを感じて、背筋がぞぞっとした。おそらく私が一瞬でもこの人を、かわいそう、と貶めたことに気付いたのだ。
「恋焦がれるような目でさっきから私のドレスを見つめているのですもの。そういう目は好き。素直でまっすぐで貪欲で、素敵。触ってみますか?」
「い、い、いいのですか?」
思わずごくりと喉を鳴らしてしまった。
「ええ。どうぞ」
ナセン様は抱きつくような勢いで近寄って、薄絹のドレスの袖を持ち上げる。私は恐る恐る手を伸ばした。
柔らかく、ぬめるようなしっとりした感触。
思ったよりも重い。
それにまだ染料の強い香りがする。
放しがたくて一心に触っているとナセン様が身を震わせて笑った。
「ほんとうに、あなたったら! ねぇ、これは染めたてなのですよ。あまり強く触っていると色が指に移ります。ねぇ、この色、きれいでしょう。やっと染めたの、この色を。でも半月も持たないのです」
「え?」
「だんだんくすんでしまうのです。若葉の季節がすぐに終わってしまうように」
「やっぱりこれは若葉の色なんですね」
「そう。春の太陽に輝く芽吹きはじめの若葉の色。やっと出せた色なの。ですから、大急ぎで仕立てさせたのです」
シュルシュルと絹の擦れる音がする。
ああ、この輝くような色が、あと数日で終わってしまうなんて。
かなしい。
なんてしんみりとしていたら、いきなり手が伸びてきて胸をもまれた。
「いっ! や、何するんですか!」
びっくりしてナセン様を見る。
「ねぇ、エルマ。明日は私が本殿へつれていってあげます」
わたしの抗議などどこ吹く風でナセン様は言い出した。なぜかまだ私の胸を撫でるように触っている。
「あ、あの、なんで」
「今から私の館にセイレーンと一緒にいらっしゃい。あなた、本殿に戻るなら髪を洗って体も洗わないとでしょう。あなたに着せたいドレスがあります」
「え? え?」
何で胸を撫で回されているのかと聞いたつもりが、なぜかナセン様の館に行く話になってしまった。
「あのドレス、あなたならきっと映えるでしょう」
「え、あの、でも」
突然の強引な申し出に私は呆然としてしまった。そもそもちょっと距離を取りたいのに、離脱するタイミングを失って、ナセン様のなすがまま、今度は胸をしたから持ち上げて揺すられている。
横で聞いていたセイレーンはやけに嬉しそうな顔をして、全然助けてくれない。
「支度って言ってもエルマの荷物なんて何にもないんですよ。今着てる服を後で返しに来ればいいんです」
本殿に、帰れるらしい。