いい子じゃない
「え、そこで・・・・・・歌を練習しようって思ったの?」
「はい」
リンジーが目をぱちぱちした。かわいい。
「あ~、いいんじゃないかしら。ええ、とてもいいことだと思う」
うんうんと大きくうなずきだした。
「楽器でも歌でも、練習したいと願い出れば時間を都合してくれるわよ。ダンスや楽器を、夜に集まって練習しているメイドも多いし」
「えっ、そうなんですか?!」
知らなかった。
仕事が終わって疲れた~とメイド部屋に戻ったら、とにかくさっさと寝ようとしてたから、ちっとも知らなかった。
「メイド長に言えばいいのよ。それに、エルマだったら妃殿下ともお話しできるんだから、妃殿下にお願いすれば」
リンジーは何でもないように言う。
「妃殿下にお願いなんてそんな・・・・・・」
「まぁ、エルマはまだ妃殿下のことがわかってないわね! 妃殿下はそういうのが大好きなのよ。何かやりたいことがあったら何でも願い出てみるといいわよ。ぜひこれこれを覚えたいという願い出があると、大公妃殿下はたいていお許しくださるの。というか、そういうふうにアピールして、妃殿下に気に入られようとする子だっているの」
「そうなんですね。私はまだここへ来たばかりで、ほんとに何もわからなくて」
言いながら情けなくなった。
知らない、わからない、説明されてない。
そんなふうに言い訳する自分が悲しい。
リンジーがそっと髪を撫でてくれた。
「そうね。説明はしないわ。入ったばかりのメイドは仕事をこなすだけでも大変で、新しいことを覚えなさい練習しなさいと言っても嫌がるだけだもの」
たしかに。次々と用を言いつけられているところに、また、礼儀作法の時みたいに覚えることがたくさんあると言われるのは苦痛かもしれない。鞭の教師を思い出して、ゾッとした。そういえば、あの教師は大公宮の住人だったりしないんだろうか。
「でも、許可をするのはメイド長じゃないんですか」
「メイド長は妃殿下と私たちを繋いでくれているだけよ。細々としたことはメイド長が差配しているけれど、大事なことは妃殿下がお決めになってるし、妃殿下はメイドのこともいつも気にかけてくださってるわ」
昼間見た光景を思い出して、何となく納得した。こんなに多くの女性を召し抱えた大公宮の後宮で、妃殿下はとても立派な女主人なのだ。
「大公宮の6000人の美女、とよく言われているけど、本殿の女官とメイドは合わせても実際は2000人ちょっとよ。それに、ダンスや楽器はだけではないわ。何でも学ばせてくれるわ。なんなら、閨房術も」
「け、閨房術・・・・・・」
寝所で男性を喜ばせる技とかってやつですかっ!
とっさに、昼間のクリムハルト様の腕を思い出した。
それを無理に一掃するように、亡き夫との記憶がドッと流れ込んでくる。
さらにその奥からあの方の顔がさっと脳裏を横切って、私は思わず目をつぶった。
「まぁ、エルマは閨房術に興味があるの?」
「え、あ、えっと・・・・・・」
顔から火が出るようだ。
それでいながら頭のなかで昼間の庭の茂みを思い出している。
昼間、顔がひきつるほどの苦しさの中にいた理由は、自分で少しはわかっている。
正直に言えば私はあの美貌の男に抱かれたかった。
おまえが欲しいとあの美貌の男に求められたかった。
あの乳香の甘い匂いにみだらな欲を呼び起こされたに違いない。
あんなに密着していたのに、胸のひとつも触られずに「ではな」とすました顔で去られたときの、自分でも信じられないくらい悲しかった。
バカみたい。
本当にバカだ。
あんなにも男たちに迫られることが嫌だったのに、今の私は美貌の男に欲情してのたうちまわっている。自分の容姿にはじめて自信を喪失して、屈辱感と羞恥心の間でぐるぐると心が踊っている。あのあと、あっけなく「もういいわ」とメイド部屋へ追い返されたのも悔しい。時間が経つほどに、心の中がぐちゃぐちゃになっていた。
あれはファティマ妃のものなのだと冷静に考えようとすればするほど、心の奥で炎が燃えている。
ちゃんと歌くらい満足に歌えたらよかったのに、と思ったのは言わば逃避だ。
「泣かないで、エルマ」
リンジーは頭を撫でてくれた。
「泣いてません・・・・・・」
「エルマはいい子。素直でかわいい」
「いい子じゃありません」
「そんなことないわ。クリムハルト様は魔物みたいなものなの。あれにやられない子はいないわ」
ちゃんとわかっているというように、やさしくリンジーは撫でてくれた。まるで子供にするみたいにリンジーは頭や肩を撫で続けてくれる。彼女のほわりと暖かい体温が寝具のなかに満ちて、苦しい気分を少しだけほぐしてくれた。
「大公妃殿下もエルマのことを玩びすぎね。かわいそうに」
「妃殿下のせいじゃありません」
私があわてて言うと、リンジーはピタッと手を止めて、それから、ほうっとため息をついた。
「あなた、ほんとに飼い慣らされちゃってるわね。かわいいわ」
「え?」
「よし、エルマ。あとで、私と一緒に奥方様のところへ行きましょう」
「はい?」
「気分転換よ。メイド長に聞いてみるわ。許可が下りたら、本殿の外の皆様に会わせてあげる」
話が飛びすぎてついていけない。本殿の外に出られる?
外には何があるの?
「大公宮は広いわ。本殿の外にも色々な場所があると話してあげたでしょう」
「薬草園や果樹園もあるんですよね」
「そう」
リンジーがうなずいた。
「それに奥方様がいらっしゃる集賢殿」
「この間の、あの話の・・・・・・」
「そうよ」
奥方様。
ジョシュアに存在するかよくわからないと言われたご側室は、リンジーによるとちゃんと大公宮の一番北の一角に住んでいる。最古参のご側室で、やはり大公殿下よりも年上なのだという。
館は大公宮の本殿と同じくらい大きく、大公殿下はそれを「集賢殿」と名付けている。もともとは蔵書や文書を保管する館で、本が好きな奥方様がその管理もかねて自分のご住まいとしたのが始まりらしい。
大公宮には常に様々なものが献上されたり持ち込まれたりする。財宝として本殿に納められたものを以外の、よくわからない珍品は、とりあえず集賢殿に持ち込まれる。珍しいものを見ると奥方様は大喜びして記録させ目録をつくる。増え続ける様々なものを収容するために集賢殿は増築を重ねて、本殿と同じくらい大きな館になったそうだ。奥方様は集賢殿にかかりきりで非常に忙しくて、なかなか外に出てこないのだそうだ。
「物を管理するって、そんなに大変なのですか?」
「もちろんよ」
リンジーが言うけれども私には実感がわかなかった。ジョシュアがよくわからない説明と言った理由がわかった。
正直、さっぱりわからない。
最古参の側室。
大公殿下よりも年上ということは50歳くらい。
その奥方様の館に連れていってあげると言われても、さっぱり心が動かないし、ファティマ妃の耳に入ったら不快に思われそうで怖い。頭の中に昼間お会いしたファティマ妃と、それからクリムハルト様の顔を思い浮かべる。
クリムハルト様。
クリムハルト様。
こんなの子供の熱病みたいなものだ。
私が長い間くすぶらせてきたあの方への気持ちに比べたら、きっと。
すぐに忘れる。
「外に出たら、楽しいですか?」
「え?」
「外に出たら・・・・・・気分転換になるんですか?」
「そうねぇ、エルマは来てすぐに大公妃殿下にかまわれるようになったから、あんまり他を見てないのよね」
少しばかり苦々しさのある声で、リンジーが言った。
「大公殿下がお戻りになったらわかるわ。大公宮はね、大公殿下のためにつくられたものなの。大公宮はファティマ妃殿下がお輿入れになるよりもずっと前から続いているの。わかってる?」
「お輿入れになる前から・・・・・・」
「そう。本殿の外には大公殿下にずっとお仕えしてきた人たちが大勢いるの。会わせてあげる」
それは。
つまり。
ファティマ妃とは対立する立場に来いということ?
私は身を固くした。
外は見たい。
バカみたいに胸を締め付ける美貌の男の顔も忘れたい。
でも、ファティマ妃から離れたいわけではない。
そんな私の気持ちを見透かしたように、リンジーが優しく言う。
「大丈夫よ。エルマはとてもいい子だもの」
結局、クリムハルト様の正体はわからないままだったことに気づいたのは、起床の鐘に飛び起きてからだった。