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時刻は夕方、近所のスーパーマーケットにて。
「ねえねえ、今日の晩御飯どうしよっか?」
先と同じく20cm上の目をこちらに下ろしながら美由が聞いてくる。つかここから見てると威圧的に見えてしまうから嫌で仕方ない。かといってしゃがんで目線を合わせて会話されてもなんか小さい子を扱ってるみたいで嫌な気もする。
それにしても、いつもはあれが食べたいこれが食べたいとか思っているのに、いざ聞かれると何も出てこないのは何故だろうか。現に僕も今その状況である。
何度も商品コーナーを行き来してもなお、何が食べたいかわからない。それは美由も同じなようで、ずっと首をかしげ、「うーん」とか唸っている。
「もうカレーでいいんじゃない」
「んー、そうだねー」
さすがに歩くのと考えるのが面倒くさくなったのか、そっけない返事だけ返し、さっさとカレーの材料を買い物カゴに入れていく。しかしさすがカレー。困った時はいつも助けてくれる。お野菜も行けて肉も行ける栄養の塊と言ってもいいくらいのメニュー。アンパンマンなんかよりよほど栄養価も高いし体にいい。なんであいつが脇役なのか訳が分からない。あれか、カレーは作るのに時間がかかるとかそんな感じだろうか。その点アンパンマンは顔をちぎるだけでいい。いや僕なら絶対に嫌だけど。絶対に痛いし。痛いとかの前に死にそうだし。
不毛な考えを巡らせている間にも、美由はカレーの材料をそのかごにそろえ、レジに並んでいるところだった。ちょうどいい。もうすぐで、買い物が終わることだし、考えを巡らせるのをやめ、待つとしよう。
そんな僕の心の平穏を見事にぶち抜いたのは、前方から聞こえた「きゃー!」という悲鳴だった。ついその悲鳴の方向を向いてしまう僕の心の弱さを見た直後に死ぬほど恨むことになるのをその頃の僕にはまだ知る由もなかった。
悲鳴の方向に向いた僕の両目がとらえたものは、まあ、言うところの事件のようなもので、ついさっき買ったーいや、万引きしたのであろう刺身包丁を右手に持ち、左腕で誰かを自分に引き寄せ包丁を首に突き付けていた。
僕は知っている。包丁を持った男、詰まるところの愉快犯の名前ーではなく、捕えられている少女の顔と名前だ。
今、僕の目の前で情けなく捕まっているのは、僕が高校を辞めるまで同じクラスだった女子、米倉 奈緒香 である。運動部なのでずっと外にいるせいか色素の薄くなった茶色がかったショートヘアー、薄くなった髪とは対照的に健康的に焼けた小麦色の肌。大きく見開かれた茶色の双眸は明らかな恐怖を湛えていて、足もガクガク震えていた。
僕が見てしまったことを後悔したのは、捕まり恐怖を湛える人間を生で見てしまったという背徳感ではない。僕が後悔したのは、もう、高校を辞めた僕には赤の他人で、別の世界に住んでいる感覚だった同級生を見てしまい、あまつさえ目をも合わせてしまったという、おそれのようなものだ。無論、彼女にはそんなつもりはないのだろうけれど。
「オラ!!何見てんだ!!」
愉快犯の怒号がフロアを揺らす。僕はその怒号には耳もくれず、食い入るように彼女と目を合わせていた。逸らせるものなら逸らしたかった。しかし、彼女の目が、恐怖を湛えているその双眸が、僕に目を逸らすことを許さなかった。やがて、彼女の双眸がぐらりと揺らぎ、口を動かした。何て言いたいのかなんて僕は分からない。そもそも僕に語り掛けているのかさえ怪しいくらいだ。そう思い、僕は諦観を決め込むため後ろに下がろうとする。ここは、あまり運動のできない僕がでしゃばるべきではない。僕ではない、誰かが、愉快犯を止める力を持つ誰かに、僕は任せることを選んだ。
逸らせない目を無理矢理逸らし後ろを向き数歩歩いた僕は思った。『誰かって誰だろう?』と。僕には名前もわからないので誰かは誰かなのだけれど、それでも、僕の中の何かがちくりと痛んだ。
現れるかもわからない匿名性の高きこの上ない人に頼るのが最善か?もちろんそうだろう。この状態で携帯なんて出せば何をされるかわかったもんじゃない。きっとなにかをやられる。ひどいことを、痛いことを。
気が付くと僕は、かなり後方へと下がっていた。ここからなら彼女の姿も見えない。僕は完璧な傍観者へとなった。しかしそこで僕は気付く。
姉が、美由が、前にも後ろにも、右にも左にも、いないということに。