自由貿易都市 ザスカニア
《Ⅰ》
ヴォルカニカ帝国へと向かってた三台の馬車は現在、来た道を引き返してはラインラント平野へ戻り、更にはそこから北上している。
山賊に扮したグラード率いる傭兵団<破城の鎚>による商隊襲撃から一夜明け、私達は一路<自由貿易都市 ザスカニア>へと向かっていた。
それは商隊の彼等が、<奴隷商人>である事が関係する。
奴隷制度に関してはグランスワール王国、先々代国王によって遥か昔に廃止とされている。つまり、公には<奴隷>等と言う身分の者は存在しないのだ。
だが矛盾はしているが、今別の馬車で拘束されている彼等は、奴隷を商品として扱う<奴隷商>であった。
この奴隷に関しての我が国での処罰は、特例ながら10年以上の国への隷属、果てには極刑もあり得る重罪である。そこに北の大密林に住まうエルフ等の他種族であろうと関係は無かった。
ただしそれは、<我が国>では――と言う話だ。
我々が進路を変えた最大の原因は、商人達が<商人組合>所属だと言うことに由来する。
自由貿易都市 ザスカニア――そこは通称・<商人の街>と言われる都市だ。
ザスカニアは各地に点在する<商人組合>の本部がある都市であり、そして世界的に中規模程度の都市でありながら――決して公には認められてはいないが、一つの<独立国家>と称されている。
今回の件は我が国や他国との外交に絡む、酷く繊細な問題であった。
今回の件は間違いなく騎士の領分から外れた話であろう。本来ならば外交官、果てには国の代表となる者が取り組むべき課題と言えよう。つまり、将来的には我が幼き主君――フォルテが担うべき問題でもあった。
これから向かう先での話は、我が国の貴族どもから逸脱行為や越権行為だと非難されてもおかしくは無い。ただしかし、私に与えられた強権を振りかざしてでも、これらの問題は見過ごす訳にはいかないのだ。
昔の指をくわえて見ている事しか出来なかった、幼き頃とは違う。今私にはそれを成せるだけの、関わる事を許される<力>がある。ならば、私は進むべきなのだろう。
いや、進むのだ。それを、私自身が強く望んでいるのだから。
「クレスッ!」
そんな考え事の最中、不意に私を呼ぶ声に顔を上げれば、直ぐ目の前に頬を膨らませるフォルテの顔があった。
「はい……?」
「また怖い顔してるっ」
私は何の事かも分からずにいると、「む~」と不満気に、いやむしろ小動物が威嚇でもするように唸られた。
「私、その顔キライッ」
そしてフォルテは頬を膨らませたままに、プイッと横を向いてしまう。
そこで私は、またやってしまったのかと己の失態に気付いた。どうやら昨夜の一件以降、フォルテはご機嫌斜めなのだ。
さて……どうすればこの主君の機嫌の勾配を直せるかと悩み出してはみるものの…………実は昨夜から考えてはいたのだが、結局何も思い付かないままである。
昔アルト様とも似たような状況に陥った事が多々あったが、その時も解決策が出てくる筈もなく、私はただひたすら平身低頭にて嵐が過ぎるのを待つばかりであった。
どうやら私はその頃から、主君のご機嫌取りに関しては一切成長していないようだ。そんなことで頭を悩ませていると、馬蹄の音に紛れてくぐもった笑い声が聴こえてきた。
そちらへ視線を向けると、もはや定位置に座り込む傭兵団<破城の鎚>の頭領グラードが、クツクツと喉の奥で可笑しそうに笑みを溢している。
「ちょっと貴方、何が可笑しいの……!?」
それに気付いたフォルテは、腕組みしながら物怖じしない様子でその理由を問い質す。
一方グラードは降参でもするように、肩の位置まで両手を挙げた。しかしまだ、笑みが顔に貼り付いたままであったが。
「失礼、フォルテ様……まさかあのスタンノート卿の、そんな困り果てた顔を見るのは初めてでして……」
そう言ってグラードは、再び可笑しそうに笑い出した。
「フン――私はクレスの困り顔なんて、もう見慣れてるわ」
フォルテもまた再び不満そうに顔を背け――そして何故だか、自慢気に言葉を吐き捨てた。
その反応にグラードは、「そうですか」と呟いては刀傷の残る顔を笑みで歪めさせる。そして剃り上げた自分の頭を撫で上げると、ニヤニヤとしながら口を開いた。
「私としては先程の、スタンノート卿の表情の方が見慣れたものなんですがねぇ?」
私は先程、そんなに怖い顔をしていたのだろうか?
そんな疑問を抱いていると、フォルテがムッとした様子でグラードを睨み付けた。
「貴方、そんなにクレスの事を知っているの?」
フォルテは低いトーンで、囁くように問い掛ける。
「そうですね……戦場で肩を並べて十五年、といった所ですかな」
フォルテは「十五年……」と呟くや、今度は視線にて私に問う。
「そうですね……正確には分からないですが、恐らくはそれぐらいかと」
そう答えると、フォルテはどこかショックを起こしたような表情を浮かべた。
一体、どうしたのだろうか……?
「とは言ってもグラード、君とこうやって話すのは久し振りだな」
「まあ、そうですな。卿のご活躍もあってか、帝国とは三年前に休戦となりましたし……その時が最後ですかね」
グラード率いる『破城の鎚』は、数在る傭兵団の中でも指折りの実力を備えている。その頭領であるグラードの実力は、王宮を守護する近衛騎士団と遜色無い程だ。
「ただ卿と話した内容と言えば、どうにも血生臭い話ばかりしか記憶に無いですなぁ……ま、立場上致し方無いことですがね」
確かに、彼との会話は軍議や戦場で交わしたものが殆どだ。だが、他に話をしなかったからと言って、戦友や友人としての情を抱かないと云う訳では無い。
「グラード、今は主に<商人組合>の護衛をしているのか?」
そう私が問うと、グラードは片頬を微かに上げて答える。
「まあ、そんなところですな」
グラードはそのどこか含みの在る言葉を発して、私から視線を横へと移動させた。
「スタンノート卿……そんな事より、少し昔話でもしませんか……?」
「ん?――――!?」
その視線の先には、なぜか頬を紅潮させては拳を震わせるフォルテの姿があった。翡翠色の瞳はうっすらと泣きそうになりながらも、まるで敵でも見るかの様な強い感情を込めてグラードを睨み付ける。
私はその姿にどう声を掛けて良いやら、思わず判断に窮してしまった。
ただ、どこか場違いな感想ながら――その真っ直ぐと感情を顕し、揺るがぬ意思を秘めた姿を……私は眩しく感じてしまう。
神秘と――そして人智の中間に位置するような、迷いの無い美しくも力強い姿に。
「そう、そうだっ! あの名高い『帝国軍夜襲単騎迎撃戦』の話でもしましょう!」
その声に意識を引き戻された。
そしてグラードはフォルテの人を畏縮させる視線に冷や汗をかきながら、私の返事を待たずに話し出す。
「あれは五年前の事でしたな。いつもの帝国との国境争いが勃発しようとする気配を感じ、我らも城砦へと詰めている時でした――」
グラードは<私との会話>を所望していた筈なのだが……その放たれる言葉達は、『話』というよりは『噺』をするかの様だ。
恐らくそれは間違いでは無い。グラードは身振り手振りを交えつつ『噺』を進めてゆく。
「――そう、帝国の本隊はまだ山裾に居る筈でした。常ならば交戦は二・三日後となる筈です……だがしかしっ、虫も寝静まる夜に、突如として遠くから馬蹄の轟きが聴こえてきました!」
ふと気付けばフォルテは怒りを掻き消し、代わりに興味津々と云った様子で耳を傾けていた。
「馬蹄の音は耳をつんざくような地響きへと変わり、それに馬の甲高いいななきが重なります! 私達は即座に跳ね起き、何が起きたのかと寝起き頭に取り乱し、城砦は混乱に包まれました!」
嗚呼、そうだ……今更ながら思い出した。この強面の傭兵グラードは、その顔に似合わず話し好きなのだった。
「私は後から知りましたが、帝国は闇夜に紛れ二百の騎兵を奇襲として放ったのです。それに気付き、我等は急ぎ戦いの支度をしますが…………敵は迅速でした」
そこで言葉を切ると、グラードは悲痛な面持ちのまま中々先を話そうとはしない。
一秒、二秒と間が空く。
そしてその沈黙に焦れた様に、フォルテは胸の前でギュッと両手を握る。
「それで、どうなったの――!?」
フォルテのその声にグラードは厚い唇をニヤリと歪め、再び『噺』を開始した。その様子はまるで、昨日の馬車の中での黙りが幻のようだ。
「奇襲用の先遣部隊。それは帝国の精鋭で構成された切り札とも言うべき連中でした。私達は急ぎ鎧を着け、剣を取ろうとしたところで…………城門が開く音を聴きました」
いつの間にやら、フォルテはグラードの前に座り込み、期待と不安に眼を輝かせていた。その先を促す視線に、グラードはどこか心持ち満足そうである。
「『馬鹿なっ、速すぎる!』そう、城砦に居る誰もが思いました。しかしその驚愕も、次の瞬間には疑問へと代わりました。何故か?――今度は、城門の閉じる音が聴こえて来たからです」
声は低くも張りがあり、その荒々しさが物語の迫力を伝える。私も事情が事情なら、その『噺』を楽しんで聴ける程に上手かった。
「そうっ、ある一人の騎士が鎧も無く、ましてや武器も持たずに城砦の外へと飛び出して言ったのですっ!――その騎士の名は、クレス・スタンノート!」
そしてグラードはまるで褒め称えるように、誇らし気にも声高々と私の名を叫んだ。
これは一体全体……どんな恥辱プレイなのだろうか……?
「スタンノート卿は馬に跨がり、単騎にて二百もの騎兵に恐れを抱く事無く、勇猛果敢にも駆けて行きます。そして帝国兵に向かい声高に叫びました」
私の内心を知ってか知らずか、噺が止まることはない。
「『闇夜に紛れ、国土を荒らす鼠どもよ、貴様等は誰の許しを得てこの地に足を踏み入れた! 聞け、我が主に弓を引きし不届き者どもっ、我は断罪の騎士クレス・スタンノート――暗き地の底、冷たき冥府の荒れ野へと貴様らを旅立たせる遣い也!』」
私はこのまま、恥辱の限りを尽くしたと言っても過言ではないこの一種の拷問に耐えなければならないのだろうか……? グラードは何か私に怨みでもあるのかと、思わず勘繰ってしまいそうだ。
噺は佳境へと進むにつれ、声はより一層熱を帯び、大仰な手振りは物語を効果的に演出する。
「その怒号は敵を一瞬にて威圧し、戦場を呑み込みました。そしてスタンノート卿は目前へと迫り来る殺意の奔流に一歩も引かず――いえ、むしろ卿の方から迎え撃って出たのです!」
そしてグラードはそこで、「フゥー」と大きく息を吐き出す。
「此処までは、皆によく知られている話です。ですがこれから先の話しは……実際にその場へと駆け付けた、私の主観が混じってしまいます――それでも聴きたいですかな?」
どこか神妙な面持ちで問い掛けると、その対面に座っていたフォルテは即座に頷きを返した。
私はグラードのその言葉には、嫌な予感がザワリと駆け抜けるのを感じた。ただここで止めては、フォルテに怨まれそうだという消極的な理由からその予感を黙殺する。
「畏まりました。これは民衆の間で語られていたものとは異なる、真実なる物語なのです」
どこか念を押すように言うと、グラードは先程とは打って変わったゆっくりとした口調で紡ぎだす。
「吟遊詩人達によって語られる噺には、聴衆が楽しめるようにと様々な脚色がされています。しかし実際に戦場で目の当たりにする光景には、英雄譚で語られる壮麗さなど……微塵もありはしません」
そして悲痛な面持ちで、訥々(とつとつ)と言葉を重ねる。
「空は薄雲が覆い、星明かりも乏しい夜の下――再び城門が開かれ私達が駆け付けた時には、二百もの騎兵は半数になり、既に潰走を始めていました。そして敵の返り血と――全身を覆う大小様々な傷から溢れ出る血潮に、その影を紅く染めたスタンノート卿の姿がありました」
フォルテの口許から「ひぅ」と、思わず漏れたような音が聴こえた。
「周囲には切り伏せられた人と馬の死体が幾重にも積み重なり……そして生温い夜風に乗って、離れた場所に居る我々にまで強烈な血の臭いが漂ってきます」
――これは止めるべきだ。
そう、私の意思が咄嗟に囁きかけ、無意識にも口が開く。
「グラード……すまないが話しはそこまでに――」
「待って」
しかし、私の言葉は途中で断たれた。
「私は、聴きたい」
それは淡々とした言葉ながら、奥に息苦しさを感じさせるなにかが潜んでいた。
そして返事を待つことすらせず、酷くもどかしげな声が耳朶を打つ。
「クレスの事なら、知っていたい」
グラードから此方を窺う視線を感じた。『いかがしますか?』と、その視線は語り掛けてくる。
視線を返せば、『よろしいのですか?』と、確認を促す視線が送られてくる。
それに対して私は――『仕方なかろう』と、自己完結型の呟きを漏らすしかない。
フォルテが、それを望んでいる。
ならばそれを否定する理由が、一体どこにあると言うのか。
グラードは半微笑を浮かべつつ、再び声を震わせた。
「我等はその惨状を前に、身を震わせました。呼吸する度に喉がひりつき、心臓は暴力的なまでに早鐘を打ちつけます」
グラードは己の胸の前に掲げた掌に視線を落とし、その拳を固める。
「ですが……それは恐怖に依るものではありません。身を揺るがす程の敬意、更にはそれを遥かに凌駕する畏敬の念が、私の胸中に駆け巡ったのです」
そしてグラードは正面に座るフォルテへと、一つの問いを投げ掛けた。
「さて、フォルテ様……我ら傭兵が、時に命をも賭けてまで戦う理由をご存じですかな?」
それにフォルテは暫し黙考し答えた。
「……金銭を、得るためだと聞いてるわ」
グラードは一つ頷く。
「正解です。我らは基本、金さえ貰えばどんなことでも引き受けます」
そして「勿論、例外は在りますが」と呟やき、再びフォルテに問い掛けた。
「それでは我等傭兵が信じているもの、そして部下達が私に付き従っている理由は分かりますか?」
フォルテは先程より長い沈黙を経て、今度は首を左右へ振る。
「難しく考える事はありません。答えは至極簡単――それは『力』です。傭兵とは実力が全てであり、部下が私に従っているのは、私に従うに足る『力』があるだけに過ぎません」
グラードはそう言うと、私達が乗る馬車の御者台に居る部下へと首を巡らせる。
「私達に取って『力』とは唯一無二の信頼の証であり、傭兵である証明――言うなれば、我等は『力』を心棒する奴隷なのです」
グラードは再び視線を前へと戻す。
「その夜の惨状に居合わせた傭兵の誰もが、一人の騎士の『力』に対し、信仰に等しき忠義を抱きました。二百もの騎兵を一人で相手取り、その半数をも切り殺すなど……その場に居る誰にも不可能だからです。そしてその卿の身体は、今も立っている事が信じられない状態でした。だがそれでも瞳は炯々と強い光を放ち、その覇気は一欠片たりとも損なわれていません――その姿は、英雄等といった称号とは酷く解離した……正に悪魔じみたものでした」
悪魔……か。その言葉は言われ慣れたもので、今さら痛痒にも感じる事は無い。だが、それは私自身の話で――フォルテは違ったようだ。
「クレスは、悪魔なんかじゃないっ!!」
激昂した様子で立ち上がり、怒りを顕にグラードを睨む。
それに対し、グラードは落ち着いた様子で両手を前に出した。
「落ち着きください。悪魔、は些か失言でしたな……失礼しました」
そして己の膝に両手をパシリと叩き付け、勢いよく頭を下げる。その謝罪にフォルテは気勢を削がれ、どこか不満そうに座り直した。
「英雄と言う称号は、『人間の枠組み』の話です。私が卿を悪魔と喩えたのは――卿の存在が『人間の枠組み』を超越したものだと感じたからですよ。それはまるで、人間の姿をした、別の何かに感じられたからです」
強面の頭領は細く、長く息を吐く。そして目の前で睨みを利かす少女に、どこか気圧されたように言葉を紡いで行く。
「仮にも私は傭兵団の頭であり、それなりにも腕には自信があります。ですが……卿と同じ事が出来るかと問われれば、首を左右に振る他ありません。私ではいくら血を吐く様な鍛練を積んだとしても、その高みには登れないと……理性では無く、本能にて悟らされました」
言葉を切り、グラードは軽く首を振る。
「話が逸れましたな。その後、半数となった騎兵隊は退いていきました。そして遠方にて進撃の支度をしていた敵本陣は、予想だにしていなかった報告を受け混乱を極めます。結果的に卿は二百の騎兵を退かせただけでは無く、二千もの敵兵をたった一人で追い払いました。これが『帝国軍夜襲単機迎撃戦』の話です」
グラードは大仰に頷き、一息つく。
「如何でした、フォルテ様。少しは楽しめましたかな?」
「フン……まあまあね」
フォルテは先の失言が気に食わないのか、憮然として答える。その様子に私は苦笑いを溢すしかなかった。
「そうでしたか。それなら他の話でも如何でしょう? スタンノート卿の英雄譚の他にも、色々と話は取り揃えておりますよ」
グラードはフォルテの様子に気分を害す事もなく、寧ろまだまだ話が出来そうだと上機嫌に切り出した。
そしてチラリと私に目配せをし、どこか含みの在る笑みを浮かべる。
私達の現在の目的地であるザスカニアには、馬車にて後三日も揺られなければ着かない。
グラードはその間フォルテが暇をもて余さないようにと配慮したのだろう。その気遣い対し胸中にて礼を告げる。
ただフォルテの話し相手になってくれるのは嬉しいのだが……可能であれば、私の話は避けて欲しいと願わずにはいられなかった。
「ふーん……それじゃあ次もクレスの話を聴かせて」
「畏まりました。それでは――」
どうやら……叶わぬ願いであった様だ。
《Ⅱ》
* * *
金糸の織り込まれた真紅の絨毯が敷かれた廊下を、一人の壮年の男性が歩いていた。
淀み無く、屹然と歩く様子はその者の高い地位と高潔さを伺わせる。
その者はグランスワール王国の王城に仕えし、千にも登る使用人達のトップに位置する存在。執事長のオラン・シュラザートである。
そしてオランは一つの扉の前で歩みを止め、乱れた様子も無い襟元を整え戸を叩く。
コン、コン――と静かな音の並びは、ここ十何年以上も狂いもなく鳴らされ続けて来たものだ。
ただし、いつもの入室を促す声が返って来ることは無い。その事にオランは無数に刻まれた顔の皺を微かに歪め、堅く目を綴じる。
そして先のノックから十秒程の時が経ち、オランは再び戸を鳴らす。コン、コン――と先程と寸分の狂いもない音は、予定調和とでも言うように再び同じ結果をもたらした。
扉が沈黙を訴え、オランはその前に所在なさげに立ち尽くす。まるで悪戯好きの小妖精が音を掻き消し、オランを嘲笑っているかのようだ。そして沈黙に業を煮やしたのか、普段の彼からは想像できない暴挙に出る。
カチャリ――オランは微塵も迷いや後悔の無い様子で、入室の許可無く扉の中へと足を踏み入れた。
部屋の両壁を書架に埋め尽くされた執務室に入り、オランの瞳は一人の女性の姿を写す。
リージュ・ル=グランスワール・ファン=アルト皇女殿下。豪奢な金糸の髪に、陶磁器のような白い肌。翡翠石に勝るとも劣らぬ双眸には、常ならば強い意思を称えた光が渦巻いていた。
だが今や、見るものを陶然とさせる美しさがどこか精彩を欠いている。
その原因は、四日前に届いた一通の書状にあった。彼女は執務机の上で組んだ両腕に、憂いを浮かべた顔を乗せては儚げに吐息をする。
彼女はオランが入室したことにすら気付かず、一心不乱に机の上へと視線を落とし続けていた。
「アルト様」
深く落ち着きのある声音が彼女の名を呼ぶ。だが、皇女アルトはそちらへ視線を向けようともしない。
「なに……オラン」
仮にその皇女から発せられた声音に名前を付けるとしたら、無気力であろう。何時もの彼女を知るものならば、その様子に目を剥き、病魔に憑かれたのかと勘違いをしてもおかしくは無い。
執事長のオランをしても珍しく、言葉を選びあぐね言い淀む。
そして失った言葉を探すかのように、オランは視線をさ迷わせた。
目に付いたのは執務机に山積みとなった書類の数々。ただそれらに手を着けた様子が無いのは一目瞭然である。
その書類のどれもが報告と確認資料であり、さして重要なものでは無かった。だが、それらに目を通すのが彼女の仕事だ。
オランはほんの微かに、表情を曇らせた。そして皇女アルトはそれに気付かず、この四日で数十――いや、数百回と読み返した机の上の書状を見詰め続ける。
まるで――そこに書かれた内容が、今この瞬間にでも変わっている事を祈るように。
憂いを秘めた絶世の美女。常の彼女ならば、その表現は似つかわしくは無い。
そう――彼の英雄にして、大陸最強の騎士であるクレス・スタンノートが、彼女の側に居るときならば。
だが、クレスより長く彼女に仕えるオランからすれば、今この姿が皇女アルトの本当の姿であった。
幼き日の<彼>との出会いが、幼き日の彼女を、その取り巻く世界を破壊し、一瞬にて別の色彩へと造り変えた。
「アルト様、そろそろ昼食のお時間です」
結局オランは、この部屋へと訪れた本当の理由を口にすることはしなかった。
『騎士クレス・スタンノートを婿養子とし、帝国の嫡子として迎え入れたい』
ヴォルカニカ帝国から書状が届き、今日で四日。今だ返事も無く、一切の音沙汰も無いのでは国の信用にも関わる。
だがそれでも、オランはその事については何も口出しはしなかった。その理由は、オランがこの二人を最も良く知る人物だと言う事に他ならない。
「要らないわ……食欲無いもの」
それはなんとも覇気の欠片もない、弱々しい声音であった。その声に対し、オランは硬質な声で返す。
「なりません」
その声に初めて、彼女は視線を上げる。
「アルト様がここ数日で口にしたのはパンの一切れにスープのみ。それでは御体を壊してしまいます」
普段よりも語気を強め、更には眉根を寄せて言葉を紡ぐ。オランは二人の事に対しては口出しはしない。だが、それ以外の事となれば話は別だ。
「それに、アルト様の最近のご様子には、他の使用人達も心配しています」
その言葉に彼女は瞳を伏せ、「でも……」と口ごもった。
そんな彼女の様子にオランは気付かれぬよう、そっと息を溢した。
(まるで手の掛かる娘が、もう一人出来た様ですな……)
そう心中で呟き、実の娘であるソニア・シュラザートの様子を思い浮かべる。ここ数日、ソニアもまた心ここに在らずと言った様子であったからだ。
オランは思考を打ち切るように、一度首を振る。
「それに、アルト様の今のご様子をクレス殿が知れば驚かれますよ?」
その言葉にピクリと細い肩が震える。
「そう…………そう、ね」
消え入るような呟きの後は、確かな響きで頷きが伴う。その様子にオランは、そっと安堵の溜め息を溢す。
オランはドアが閉まるのを執務室の中から見送る。そして部屋に一人残され、ぐるりと室内を見回した。
家具に使われた木材、それと紙とインクの匂いが部屋には満ちている。その中をオランは静かな足取りで、執務机の前へと歩を進めた。
パラリ――と、書類の山が捲られ、それらの内容を精査して行く。
(急を用すものは、どうやら無いようですね)
十数分後、オランは無言にて確認作業を終え再び息を吐く。
四日前から城内での書類の処理が滞っている。理由は言うまでもないだろう。
まだ表だった事態にはなってはいないが、それも恐らくは時間の問題だ。彼女の存在は言わば、替えの利かない歯車だ。
何人たりとも、その役割を変わる事など出来はしない。グランスワール王国と言う、大きな機巧を動かすには皇女アルトの存在は必要不可欠なのだ。
そして十数年後、その部品の代わりとなるのが――リージュ・ル=グランスワール・ファン=フォルテ第一皇女候補である。
民はこの母娘に治世を望み、その身を、その心を、王座へと縛り付ける。それは三百年も続く血脈。グランスワールの血を、名を継ぐ者の定めと言える。
そして民は気付いて居るのだろうか――その基盤が今や、少しずつ綻び始めていることを。
オランは皇女アルトの存在を、『ひび割れたゴブレット』と称している。美しい硝子細工の杯は、硝子が故に脆い。
ひび割れたグラスに水を注げばどうなるか、そんな事は注ぐ前から分かる。つまり、皇女アルトの本質はそう言うものだ。
だが、その事を他の誰も知ることは無い。
何故か――それは偏に、クレス・スタンノートがその零れ落ちる水の<受け皿>になっていたからに過ぎない。
それのなんと脆く、危うい関係か。
その事に気付いているのは、この老執事ただ一人。本人達すら知らぬ、いや、近くに居ながら互いに目を逸らし続けてきた、この国の欠陥。
オランは一度、ブルリと身を震わす。理由は寒さにではない、この国の脆い基盤に抱く恐怖にだ。
国の崩壊の足音が微かに聴こえ、オランは机の上の一枚の書状へと視線を落とす。この一枚の紙切れが意図せずして、だが確かな足音を引き連れこの国を崩壊へと導いている。
言い知れぬ悪寒に、オランは口に溜まった唾を飲み込む。静粛が佇む部屋に、その嚥下の音は意外なほどに大きく響いた。
「クレス殿……」
呻くようにその名を呼ぶ。彼が不在のこの国に、確かな危機が迫ろうとしている。
そしてオランは、彼に護られし少女を思い浮かべた。フォルテはもしもの時の替えの部品だ。それも国の行く末を左右する程に重要な。
そんなフォルテの教育係を務めているオランは気付いていた。フォルテはその母、皇女アルトと瓜二つであると。
外見、そして――その『本質』までもが同じである事に。
* * *
《Ⅲ》
広場から伸びる目抜き通り。石畳が敷き詰められた街路の片脇には、露店が隙間無くずらりと並び、露店商達は道歩く者達に頻りに声を掛けている。
視線を動かしても、川のように流れる人の濁流の前に視界は覆われてさして遠くまで見通せない。周囲の人々が放つひとつひとつの声は言葉が聞き取れないほど小さいが、全体が寄り集まると騒然とした雰囲気は否めない。
熱気と活気、そして雑然とした気配を前に、私とフォルテは呆気に取られ立ち尽くしていた。
山賊に扮した傭兵団の商隊襲撃から四日、私たちは今<自由貿易都市 ザスカニア>に居た。傭兵団の頭領であるグラードは別行動を取っており、約束の刻限まで時間をどう潰すかと言ったところだ。
フォルテがはぐれぬ様に手を繋ぎながら、今一度ぐるりと周囲を見回す。すると浅黒い肌が特徴の西のベントン族、焦げ茶色の髪と目を持つ北のバークレー族など、他にも多種多様な人種が確認できた。
見たところ中には敵対国家に属した人種も居るようだが、争いが起こる気配は無く、寧ろ友好的な気配すら感じられる。普通では見られない光景に、胸の内から沸き上がる驚きを隠せないでいた。
「ねえ、クレスッ」
私を呼ぶ声とともに手を引かれてそちらを見下ろせば、フォルテが露店の一角へと熱心な視線を送っている。視線の先には、建物から突き出たルーフの下に幾つもの大樽が置いてあった。その脇には恰幅の良い商人が瓶を片手に声を張り上げている。
「あれ、何売ってるのっ!?」
周囲の雑音に負けぬように、フォルテは興奮した様子で声を上げた。
「あの樽の中身はおそらく、砂糖と蜂蜜に漬けた果物ですね」
「ほへぇー」
私の答えにフォルテは目をキラキラと輝かせ、露店へと自然な様子で足を一歩踏み出した。その様子に苦笑しながら、私はフォルテの小さな手に引っ張られて行く。
大樽の中には季節の新鮮な果実――橙や金柑、林檎等が薄くスライスされて入れられていた。近付くと樽に詰められた砂糖漬けの華やかな香りが濃く漂ってくる。
蜂蜜には防腐作用も有り、それらを一緒に瓶詰めして長旅の土産としても売っているのだろう。
瓶詰めされて木箱の商品棚に並ぶそれらを、フォルテはまるで宝石でも眺めるように見詰め、更には小さな鼻を小動物のようにヒクヒクと動かす。そして恰幅の良い商人がフォルテから私へと視線を移した。
これは、買わない訳にはいかないであろう……
「店主、そちらの小瓶のを一つくれ」
「へいっ、まいど!」
その声にフォルテはこちらを振り返り、パァッと花開くような笑みを浮かべた。この笑顔がみれるならば、安い買い物だと言えよう。
「旦那、お支払は紙幣と硬貨、どちらになさいますか?」
「硬貨で頼む」
「へい、小瓶詰めは銅貨三枚になります」
差し出された手に、貨幣袋から抜き出した銅貨を落とす。
ついでに隣の豚の塩漬け肋肉が吊るされていた露店で、少し遅い昼食を二人分買い求めた。暫く歩けば人混みもそれなりになり、広場の素朴な石垣へと並んで腰を下ろす。
「デザートは後です。先に昼食を頂きましょう」
「わ、分かってるわよっ」
先程から視線が固定されており、一応釘を刺しておく。まあ……さして効果があるとは言えないが。
紙袋から腸詰めされた豚挽き肉が挟まったパンを取りだし、一つをフォルテへと手渡す。
この旅の始めの頃は、手掴みで物を食べることに難色を示していたのだが、今では気にした様子もない。最初の村の宿では、女将に「どこぞのお嬢様みたいな食べ方だ」と言われてから、いつかバレてしまうのではと危惧してはいたが、今ではその心配は無くなっていた。
それが良いことだとも、悪いことだとも言えない、本人は手掴みの食事も気に入っているようだ。ただ……城に帰ったのち、執事長のオランが私に愚痴の一つでも溢しそうな気がしてならないが。
フォルテはパンを両手で掴み食べ始める。どこか慌てたように口一杯にパンを頬張る姿は、冬に備え頬袋に食べ物を詰め込む栗鼠の姿を連想させた。
私も紙袋から取り出したパンを口へと運ぶ。そして何気なしに、広場から放射状に伸びる大小九本の通りを見遣る。
四本の大通りは他にもある円形広場に繋がり、民家に挟まれた細道は更に枝分かれしながら街中を縦横無尽に駆け巡っていた。
ここはまるで迷宮のような都市だ。人も、道も、物も――この街に存在する全てが雑然と、統一される事も無くひしめき合っている。
調味料や酒、衣料品に武器、精霊石、錬金生成液、魔術骨董品と、それら露店に並ぶものも統一性は無く、この都市の在り方を示しているかのようだ。
それが悪い事だとは言えない。勿論様々な問題もある筈だが、この都市に住む者達は些細なしがらみに囚われる事無く、日々を謳歌しているのだろう。
無数に詰め込まれたモノ達は時に反発しあう。だがそれらがもたらす物は、新たな刺激と、新たな共存である。そんな都市の在り方が、二年前に一つの発明を産み出した。
『精霊動力』――そう名付けられし機巧は、大陸を揺るがす程の価値のあるものであった。まだ研究段階ではあるが、その研究の果てには『空を飛ぶ』事をも可能にすると発表されている。
空を飛ぶとは随分と滑稽無形な話ではあるが、もしかしたら私達人間も鳥のように自由に空を駆ける日が来るのかもしれない。
『精霊動力』とは言わば、精霊石に込められた『マナ』を取り出す機関らしい。そして現在ではこの機関を組み込こみ、風や潮の流れに左右されずに海を自由に行き来出来ると言う『動力船』なるものの開発が進められているようだ。
私は学者では無く、騎士で在るが故にこれらの仔細は分からないが、今が技術の変成期であることは容易に想像が付いた。この精霊動力の発表を機に、この都市は爆発的な発展を遂げたのだ。
「ね、クレス」
袖を引かれ視線を向ければ、フォルテはいつの間にか食事を終えていた。私はまだ半分しか食べておらず、いつもの倍以上のスピードで食べた事が窺えた。
その代わりにとでも言うように、食べ滓を口の周りに付けている事にも気付かず、こちら見上げてくる姿には自然と笑みが浮かんでしまう。
手を伸ばして口許を拭い、食べ滓を落とす。そしてきちんと包装され、ズシリと重さがあるそれをフォルテへ手渡す。
フォルテはもどかしそうに包装ほどき、蓋を開ける。すると甘く華やかな匂いが周囲へと拡がった。
フォルテは瓶にギッシリと詰まった果物の一つに手を伸ばす。細く白い二本の指でつまみ上げた果物は、トロリと蜜を滴らせている。
慎重に、そして勢い良く、覚悟を決めたように一思いに口へと運ぶ。
「んん~~~!!」
目をギュッと閉じ、更には足をバタつかせ、喜びを全身を使って表す。その喜びっぷりには驚きはしたものの、気付けば私の顔にも深く笑みが刻まれていた。
そのまま続けて一つ、二つと口に運び、その度に喜びを露にする。
「クレスッ、これスッゴく美味しいっ!!」
「そうですか。それは良かったですね」
フォルテは「うん!」と頷き再び小瓶の中身へと取り掛かる。
その姿を眺めているだけで、胸に暖かいものが込み上げてくるのを感じる。それは幼き頃のアルト様に連れられて、城下へと赴いた時に感じたものと似たような感情であった。
「?? クレスも食べたいの?」
私の視線に気付いたのか、フォルテは指に付いた蜂蜜を赤い舌で舐めとりながら、小首を傾げ聞いてくる。
「あ、いや……」
不意打ちと、その様子に言葉が詰まっていると、フォルテは気にする事無く小瓶から果物を抜き出す。
「はい、アーン」
「いや、その……」
口許へと突き出されたそれをどう対処すべきか判断に迷っていると、フォルテは意にせず近付けてくる。
「垂れちゃうから口開けて!」
咄嗟にその言葉に従い口を開けると、直ぐに口の中一杯に甘味が広がった。そしてそれを気恥ずかしさを共に飲み下す。
「ねっ? 美味しいでしょっ?」
「え、ええ。とても美味しいですね……」
そう答えるとフォルテは更に上機嫌になり、どこか調子の外れた鼻唄を奏で始めた。
その様子を見ては……今さら甘いものが苦手だとも言えなくなってしまった。まだ口の中に残る、胸焼けを起こしかねない香りを意識から弾き出し、気付かれぬように表面状は平静を装う。
甘いものを食べている時の女性は、とても幸せそうな顔をする。それはフォルテも例外ではなく、その様子に水を差すのは忍びない。
宝石のようにツヤツヤと輝く果実を、喜色一杯に口へと運び、全身で嬉しさを表す様子はこの上無く愛らしく、微笑ましい。
「ん? クレスもまだ食べたいの?」
「あ、いや……そう言う訳ではっ…………」
高鳴る胸の鼓動を誤魔化すよう、極力平坦な口ぶりで返す。
「ふーん――」
固唾を飲み、次の言葉を待った。実際には数秒だが、無限にも感じられる長い時間。
フォルテはパッと笑みを浮かべる。
「もう、正直に言えば良いのに――はい、アーン」
確かに……正直に言えば良かったと、数秒前の自分を恨まずには居られなかった。
《Ⅳ》
背中をじっとりと濡らす汗の不快さと、いまだに口の中に残る甘ったるさを強靭な意思の力で捩じ伏せる。そうしなければ大変な事になると、私の直感が告げていた。精神的に、そして肉体的に。
「そういえばクレス、さっきお店の人が言ってた<紙幣>って何?」
小瓶にぎっしりと詰まったデザートを瞬く間にぺろりと平らげたフォルテは、不意に小首を傾げそう言葉にした。
「そうですね……紙幣は、<商人組合>に所属する商人達の間で使用されている、通貨の一種です」
ひとまず口の中に溜まった様々なものを飲み下し、質問に答える。
「えーと、要するにお金ってこと……?」
「まあ、似たようなものです。紙幣とは只の<紙>であり……<紙>以上の価値は無いものですが」
「んんん――???」
腕を組んでは頭の上に疑問符を浮かべるフォルテ。その様子にはつい笑みが零れてしまう。
「紙幣は商人達の間で硬貨の代わりに使用されています。そしてその紙幣を組合へと持っていけば、硬貨と交換してくれる――言わば硬貨の<引換券>みたいなものです」
フォルテは石垣に座り足をプラプラとさせながら「ふーん」と頷く。
「ちょうど良い。あれをご覧ください」
私が指差す方向では、露店商と客との間で商品と紙幣が交換されていた。
仮に紙幣の存在を知らないものが見れば、まるで商人が<ピクシーの惑わし>に掛かっていると勘違いしてしまうであろう。一見、紙幣はただ判の押された紙切れにしか見えない。勿論、それら紙幣に押された判は全て特殊なインクが使用され、複製は不可能となっている。
フォルテはどこか不思議そうにその光景を眺めていた。
「何だか、変な感じ」
漠然とした感想を漏らす横顔を見詰め、その理由を聞いてみた。
「んー、だって、さっきクレスが言ったようにあれって只の紙なんでしょ? 燃えて無くなっちゃったり、何かあって硬貨と交換出来なくなったりしたら大変じゃない」
その解答を聞いて頷く。胸中では教え子が満点を取ったような嬉しさで溢れていた。
「そうですね、最も恐れるものは硬貨との引き替えが出来なくなると言うことです。それでもなお、商人達は紙幣を使い続けます……それが何故だか分かりますか?」
フォルテは暫く考え込んではいたが、諦めたように首を左右に振った。
「理由は三つあります。まず商人達は大口の取引となれば数千、時には数万もの硬貨を使用するとか。それだけの量の硬貨を持ち歩くにはかさばりますし、否応にも目立ってしまい……最悪、強奪の可能性もあります。これが硬貨でなく紙ならば目立ちにくく、危険性はグッと低くなります」
フォルテの表情に理解の色があることを確認し、説明を続ける。
「二つ目は硬貨全体の流通量の関係です。硬貨に使用されている、<金・銀・銅>には限りがあります。それに国の判断が無ければ、更に硬貨を鋳造することは出来ませんからね」
「勝手に増やしたら犯罪だからよね?」
「その通りです。ところが、商人達は今ある硬貨の流通量で商売をするには、限界を感じていました……そこで硬貨の代わりに紙幣を流通させることで、本来の硬貨の流通量を二倍から三倍近くまで引き上げます。その結果、市場の隅々まで硬貨が行き渡り――より一層、各都市間での貿易が盛んとなりました」
フォルテは「へぇ~」と溜め息にも似た声を出し、瞳を真ん丸に見開く。
「そして最後に……ここに来る途中、グラードは傭兵が拠り所としているものは『力』だと言いましたね。それでは……商人は何を拠り所としているか分かりますか?」
フォルテは唇を微かに突きだし、不安そうに答えを出す。
「お金、かな……?」
「残念ながら外れです。正解は、『信頼』ですよ」
再びその表情に疑問符が浮かび上がるのを感じ、それを払拭する為にも説明を続ける。
「先程の紙幣の話に戻しますが、紙幣は硬貨の引換券です――組合は硬貨を確実に引き換えする事を『保証』し、商人達は組合を『信頼』している。つまり商人達は、その『信頼』を第一前提として、紙幣にて商売をしている訳ですね」
フォルテは二度、三度と小さく頷き与えた情報を吟味し始める。その姿勢は、長年の教育と指導により習慣となっているものだ。
商人は『信頼』を拠り所としている――今回の奴隷商の件は、それが問題なのだ。
本来、商人組合に所属していない筈の奴隷商人達。それはつまり、一部を除く各国家で禁止されている『奴隷貿易』をしている可能性が浮上する。
もしそれが事実だとすれば、<商人組合>の信頼――その根底をも揺るがす事態だ。
私達はその奴隷商達の<粛清>に偶々立ち会ってしまったのかも知れない。死人に口無し――それは今回の件を闇に葬り去る事を意味する。
実際に奴隷商達はグラード率いる傭兵団に殺される事無く、私の判断の元で生き永らえている。そして現在、グラードによって<組合>へと引き渡された筈だ。
今回の件の闇は深い。我が国でも長年に渡り取り立ててきた問題である。
だがその闇をいつか打ち払わなければ、光が視える事は無い。
その全ての闇を払うのは叶わずとも、一筋の光明を射し込ませなければならないのだ。
この無窮の闇を究明するためにも――私は会わなければならない。この<自由貿易都市 ザスカニア>、そして<商人組合>のトップに君臨する一人の女性に。
ふと、街の一角に不審なざわめきが起こる。そちらへと視線を向ければ、見知った顔が視界に入ってきた。
髪の毛を一本も残さず剃り上げ、頬には刀傷の残る凶悪な人相の傭兵だ。彼も私に気付くと片腕を上げて笑みを浮かべた。その笑みによって凶悪な顔に一層磨きがかかり、周囲の人々の緊張がここまで伝わってくる。
悪い人物では無い――とは完全には言い切れ無いが、周囲の反応も致し方ない事ではある。当の本人は気にした様子もなさそうな為、本来私が気を揉む事では無いだろう。
「お待たせしました、スタンノート卿」
グラードは小走りに近寄って来ると、声を潜めて小さく謝罪する。この強面の傭兵と一緒に居る私とフォルテは、周囲の目からどの様に写るのだろう――と、そんなとりとめの無い思考を打ち払いつつそんな彼に確認を取る。
「いや、それほど待ってない。それで、もう会えるのか?」
「ええ、問題ありません」
街に入り、グラードと別れてまだ半刻といったところだ。正直な話、約束もなく組合の要人に会うのだからもっと時間が掛かると思っていた。最悪、一晩宿に泊まる事さえ考慮していた位であった。
「それでは案内します、付いて来てください」
グラードはその事実に特に驚いた様子もなく、先導して歩き出す。
それに付いて後ろにフォルテを伴い暫く歩くと、グラードは肩を寄せてボソボソと言葉を掛けてきた。
「ところでスタンノート卿……顔色が優れない様ですが、何かあったのですか?」
「ああ、いや…………」
それに対して暫し逡巡し、口を開く。
「……差し出された物は笑って食べる。それだけだ」
「へ……?」
ポカンと口を開け、意味が分からないという表情を浮かべるグラードにそれ以上答える事はせず、後はただ無言を貫く。
それは長い時間が生んだ、自分を縛るルールみたいなものだ。それ以上を言葉にする意味は無い。
そのままひたすら黙して歩く。暫くすると人通りは少なくなり、雑踏も薄れていった。街並みもどこか雑然としたものから統一性のある、調和の取れたものに変化してゆく。
どうやら、街の中心部から外れているようだ。落ち着きのある閑静な住宅地。ただそれら瀟洒な建物は、周囲の景観も相まってか屋敷と呼んでも差し支えない規模のものばかりだ。恐らくこの辺りに住んでいる者達は、大商人やこの都市の有力者といったところであろう。
コツコツと石畳を踏み歩きながら進む方角には、周囲よりも一際大きな屋敷が構えていた。グラードは敷地の入口に詰めていた警備兵へと慣れた様子で挨拶を交わす。
そして直ぐに頑強そうな門戸が押し開かれた。その様子にはどこか拍子抜けしたものの、グラードの背中に付いて敷地内へと足を踏み入れる。
専属の庭師によって管理されている事が一目で分かる庭園を抜け、玄関の前へと立つ。グラードは物怖じした様子もなく真鍮製の意匠を凝らしたノッカーを打ち付け、暫くしてその扉を開けた。
そして躊躇無い足取りに続き屋敷へと入ると、一つの声により出迎えられる。
「遠路はるばる――我が屋敷へようこそお出でくださいました」
澄んだ声音が、静かに空間へと染み入る。玄関の正面、そこには淑女然とした様子で漆黒のドレスの両裾をつまみ上げ、頭を下げる女性の姿があった。
「フォルテ第一皇女様――それに、クレス・スタンノート卿」
淑やかに優美な所作で居住まいを正し、見るものを陶然とさせる笑みを溢す女性。
「私は商人組合の組合長、そしてこの都市の代表をしております<クロイツェル・ラーウ=フローラン>と申します」
ぴったりとした黒のドレスに包まれた艶美な肢体。綺麗な鼻筋と形の良い唇、その口許に妖しく香る微笑み。そして長い睫毛と、眼窩に潜む紫紺の瞳――それらが織り成す色彩に、胸がざわめくのを感じた。
クロイツェル女史は頭を下げた拍子に頬に掛かった髪を、まるで白魚のようなたおやかで細い指で戻すと、様々な感情が彩る紫紺の眼で私を流し見る。
「スタンノート卿にお会いするのは久し振りですね。最後にお会いしたのは確か……魔王に関する首領会議でしたかしら?」
「お久し振りです、クロイツェル女史。ええ、そうですね……確かに首領会議以来かと」
「あら――クロイツェル女史だなんて……スタンノート卿でしたら、<フローラ>と愛称で呼んでくださって結構ですのに」
瞳は柔らかく垂れ下がり、ふっくらとした艶やかな唇から、悩ましい吐息混じりの笑みが漏れた。
「えっ――?」
隣でフォルテが息を呑むのを感じ、先とは些か趣の異なる動揺が背筋に走った。その反応を無視し、眼を細め、視線に力を込めて目の前の女性を睨み見る。
「クロイツェル女史、おふざけはこの辺りにして頂きたい」
艶やかな笑みを映す表情に視線を据え、こちらの動揺を悟られぬよう肚に力を込める。
「今回はそちらの<商人組合>に所属している、奴隷商人の件で話し合いにきたのです」
私の視線を受けてもクロイツェル女史はその表情を変える事無く――いや、より笑みを深くした。その事実に、その様子に、先ほどから感じていた違和感の形が浮き彫りになっていく。
闇の中から表れた盤面。それらはまだ闇に隠れてはいたものの、次第にその姿が顕となっていった。盤面を照らす<違和感>に――目の前の女性が表す色彩に――憶測は真実味を増してゆく。長く、小さく感じていた違和感は、自然と一つの結論を弾き出した。
『嵌められた――と』
私の表情の変化に、クロイツェル女史は蕩けるような笑みを浮かべ――そしてグラードは申し訳なさそうに、表情を曇らせた。