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到来を告げる北の風(Ⅱ)

 《Ⅵ》


 だいぶ遅くなってしまったな……


 太陽はオレンジ色に染まり、地に描かれる影は細長い。


 若い衛兵には村長の元へと害獣の討伐が完了した旨を報告しに行って貰い、私は足早にある場所へと向かっていた。


 精霊から危険な知らせは無かったが、やはり自分の目で確認しなければ安心することは出来ない。




 そして風車小屋の近くに着くと、思わず安堵の息を吐く。どうやら心配は杞憂で済んだようだ。


 遠目からではあったが、三人の子供達とフォルテの姿が確認できた。


 時間が時間なので子供達の人数は減っていたが、特段ケガなどは見受けられず、楽しそうに遊ぶ様子が見て取れる。その光景には、思わず口許が弛んでしまった。足先の向きを変え、道の脇へと入り腰を下ろす。


 後一日、この村に逗留する予定ではあったが……一秒でも長く、フォルテには笑っていて欲しかった。


 この先、同じ様な体験が出来るとは限らない。今、この時を胸に刻み、それを糧に前へと進んでいかなくてはならない。それは覆す事の出来ぬ、定めのようなものだ。




 怒ったり泣いたりしている時間よりも、笑ってる時間が多い方が良い。


 例え嘘でも、夢でも、我が<娘>に、今だけは幸せな思い出を――その為ならば、私は如何なる犠牲をも払い、影ながら微力を尽くそうと誓う。


 間も無く西の空が深紅に染まり、険しい山々の稜線に太陽が隠れようとしていた。


 西の山々、そこはラインラント平野の終わりを意味し、つまりグランスワール王国の領土では無くなる事を意味する。北西から南西、更にそこから南東へと、まるでハンカチのシワのような山脈が走っていた。


 そしてその西の山脈の向こう側、そこは我が国と幾度と無く剣を交えた<ヴォルカニカ帝国>が治める領土だ。




 人が居れば争いが起こる、それが世の常と云うもの。そして隣国とは大抵不仲なものだが、我が二国間ともその例に漏れない。


 国境から西は険しい山々と高原が織り成す不毛な荒野ばかりであり、我が国と比べれば実りの少ない土地だ。そして、国境を外へ広げることを望まない王など居ない。


 今は和平を結んだ相手とはいえ、領土を巡り長年に渡って争い続けた国であり、幾ら警戒しても足りない位であろう。




 立ち上がり、服に着いた草葉を払い落とす。そしてこちらへと歩いてくる娘へ声を掛ける。


「民の事を知ることは出来ましたか?」


 フォルテは立ち止まると、上気した頬を隠すように横を向く。腕を組み、なんと答えようかと唇をムニムニと動かしていた。その様子に忍び笑いをして、再び口を開く。


「取り敢えず、宿へと向かいましょうか」


 私の言葉に、フォルテはどこか恥ずかしそうに頷いた。 そしていざ宿屋へと向かおうとした矢先、唐突にフォルテが険しい表情を浮かべた。


「クレス……今日、何してたの……?」


 そういって私の上から下を視線で一撫でする。


「今日は……調査のため森へと行ってましたが……?」


 そう答えるも、私を見詰める視線には疑問と違和感が付きまとっていた。




 そして時計の短針が半周する位の沈黙の後、苦々しい表情でその艶やかな唇を開く。


「なんだか……変な臭いがする……」


 その言葉にハッとなり、慌てて肩口を鼻許へと押し付ける。


 微かな汗の臭いと森の土と緑、そして錆びた鉄と獣の臭いが服にこびりついており、それらが合わさって何とも形容しがたい()えた臭いがした。鼻が麻痺していたのだろう、自分が放つ異臭に気付かなかったことに愕然としている間に、フォルテは私の脇を通り抜ける。




 そして数歩先で立ち止まり、こちらを振り返る。


「クサイから、離れて歩いてきて……!」


 そう言い放つと後は振り返ることなく、スタスタと一人で先へと歩いていってしまった。


 私はその後ろ姿を呆然と見詰めながら、先程の言葉を反芻(はんすう)していた。


『クサイから、離れて』、『クサイから』、『クサイ』、『クサイ』、『クサ――』


 思わず、膝を折ってしまう程の破壊力を秘めた言霊。それは今まで生きてきた中で、至上最大級の衝撃であった。


 その言葉は天から降り注いだ雷のように、私の脳天から足先までを貫き、私の胸に深く鋭く刻まれた傷跡は、癒える事は無いだろうと容易に予測できた。


 赤子の頃から見守ってきた、我が子同然の少女。


 世の娘を持つ父親は、常にこの様な仕打ちを受けているのかと察すると、思わず畏敬の念を抱いてしまう。




 不意に夕陽が眼に染み、目を逸らす。すると視線の先には小川があった。


 涼やかなせせらぎを心の清涼剤に、無心で川の流れを見詰める。


 世の中は無情だ。


 そう心の中で呟き、私は臭いと胸のわだかまりを落とすため――川へと飛び込んだ。




 そして濡れ鼠と化した私は宿屋へ戻ると、女将さんに「あんたも、いい年なんだからと」こっぴどく叱られてしまった。


 やはり、世の中は無情だ。




 《Ⅶ》


 蒼天に浮かぶウロコ雲。


 それは精霊の多大なる加護を受けし聖獣、<竜>が空を通過した跡だといわれる。それは幸か不幸かは定かでは無いが、何か大きな事が起こる前触れとも言われていた。


 ただそんな言い伝えが在るものの、実際なにかが起こったと云う話は聞いたことは無く、単なるおとぎ話のようなものだろう。


 私としては昨日以上の不幸は勘弁したい為、吉兆の前触れだと切に願いたい所だ。




 そんな、穏やかな朝。昨日の今日で、どうやら私とフォルテが滞在する宿屋の前は、村の子供達の集合場所になったらしい。


 二階の窓を開けて外を見れば、既に数人の子供が集まっている。更には今日は何をして遊ぶかと、相談する声もが聞こえてきた。




 そんな中、フォルテを伴って外へと出ると、昨日のリーダー格の少年が子犬のように駆け寄ってきた。


 挨拶もそこそこに、眼をキラキラさせて質問をぶつけてくる。


「なあおっちゃん、おっちゃんはお城の学者さんなんだろ!? それじゃあ<クレス・スタンノート>と話したことあるのか!?」


 一瞬答えに詰まり、隣に居るフォルテとお互いに見合わせた。


「いや……生憎、話したことは無いな……」


 嘘はついていない。


「じゃあ、会ったことは!?」


 言い得て妙な質問だが、本人に対して会ったことがあるかとは……どうにも返答に困ってしまう。


 横ではフォルテが可笑しそうに笑いを堪えていた。


 首を左右に振り否定すると、少年はその答えに不満なのか、肩をガックリと落とした。苦笑しながら、少年に質問の意図を尋ねてみた。するとどうやら、この少年は将来騎士になりたいそうだ。


「俺もクレス・スタンノートみたいに、姫様の騎士になりたいんだ!」


 目の前の少年に鼻息荒く告げられ、その当の姫様は驚きの余り目を白黒させていた。


 そんなやり取りをしていると、一人の少女が少年に対し、どこか呆れたように言葉を投げつけた。


「オズエ、あんたなんかが姫様専属の騎士にでもなったら、逆に姫様が困っちゃうわよ」


 少年――オズエは後ろを振り返り、「なんだと!」と怒りを露にする。


 そしてフォルテは少年に聴こえないように、こっそりと「確かに、困るわ……」と呟く。


 その反応には私自身、失笑を禁じ得なかった。




 オズエと少女の言い争いは続く。


「そもそも、姫様にどうやって会うのよ!? 会ったことも無い人を騎士に任命する訳ないじゃない!」


 なるほど、至極まともな意見だ。


 その言葉にオズエは怯み、更に少女が畳み掛ける。


「大体、姫様と会うなんて、一生に一度有るか無いかなのよ? どう考えたって会えるはず無いでしょ。よく考えなさいよ!」


 今が正に、その一生に一度の機会なのだが……流石にそれを少年に教えるわけにもいかない。


 オズエは「ウググ……」と呻きを漏らし、口をへの字にする。




 その様子は流石に可哀想に思え、私は少年に助け船を出すこととした。


「オズエ君、君はどうしても騎士になりたいのかね?」


 少年は私を仰ぎ見ると、戸惑いながら頷く。


「そうか……。私は<クレス・スタンノート>とは会ったことも無ければ、話した事すら無いが……」


 そう前置きして、隣からのこそばゆい視線を無視しつつ言葉を重ねる。


「聞いた話によれば彼は以前、こんな事を言っていたらしい――


『判断に迷うならば、その答えはどちらでも良い。ただ悩んだ末に自らが掴んだ答えを信じ、それを貫き通すだけだ』、とね」


 少年の純朴な視線を受け、ただ見詰め返す。


「もし仮に、将来君が騎士になることと選んだとしよう。そしてその選択が……君にとって後悔無きものであることを、私は切に願うよ」


 そして少年の希望に輝く瞳を見て、その後に「ただし」と付け加える。


「騎士になると云う事は、人を殺す覚悟が無ければいけない」


 淡々と告げた言葉に、少年は小さな身体をビクリと震わせた。そしてそのまま、私は話を続ける――隣に居る、この国を担うべき少女にも言い聞かせるように。


「その殺した相手には、親や兄弟、友人や恋人が居て……もしかしたらその者は、妻や子供を養う父親なのかも知れない。もし騎士になるのなら……その事を決して忘れてはいけない」




 子供には重い話かも知れないが、これは紛れもない真実だ。


 更に言えば、人を殺せばその家族には恨まれるであろう。仮に養う親が居なくなった子供は、最悪賊へと身を堕とすか、餓死するか、はたまたどこかに売り飛ばされ奴隷として一生を終える事もありえる。


 そしてそんな事が頻繁に起これば周辺地域の治安は悪化し、また同じことが繰り返され、死は循環し、また周囲へと不幸を撒き散らす。




 国の英雄とは、他国からすれば怨むべき象徴であり、英雄とは<大量殺人鬼>の代名詞のようなものだ。


 死の連鎖、そんな悲しみの連鎖は消えない、消えることはない――そう……本来ならば。だが、今、その連鎖を断ち切る事が出来る可能性があった。


『魔王』


 その存在に対抗するため、今までの交じり合う事をしなかった人々は、国は、今現在手を結び協力している。


 今まで積み重なってきた禍根が、恨みが、完全に消える事はないだろう。


 だが、それでも――例えほんの僅かでもその傷痕が癒えるのならば、私は今の仮初めの平和を、永遠(とわ)なる平和へと導きたい。


 グランスワール王国が誇る英雄。


 他国からは人類史上最も多くの人間を殺した、人殺しの化物――『殺人卿』と恐れ、恨まれる私が、平和を願うとは……これ以上とない皮肉だろう。


 だが……そんな私だからこそ、この世界に魔王が現れたと知った時――狂喜に震えたのも事実だ。


 もう、人を殺さなくても良いのかも知れないと、夢想した。


 もう、人間同士で争わなくて良いのかも知れないと、切望した。


 そんな夢のような世界を、胸に抱いた。




 実際に現れた魔王の存在はいささか違えど、『魔王』の存在を――この世界で最も望んでいたのは、私自身だったのかもしれない。


 もし、このまま世界が平和であれば、目の前の少年がその手を血に染めることはないであろう。他者を殺める事なく、唄でも歌い、そうやって笑い合いながら暮らすことが可能なのだから。


 恨まれるのは――英雄である私一人で十分だ。


 既に私の手は、如何なる手段をもっても洗い落とせぬ程に血で汚れ、(けが)れているのだから。それが、私の選んだ答えであり、進むと決めた道なのだ。




 少年から視線を外し、私の隣に立つ、愛しき少女を見遣る。


 私が今まで辿ってきた道に、一片の後悔も無いと言えば嘘になるであろう。


 後悔せずに済む選択肢があったのではないか――そう、何度も、何度も、何度も……飽きること無く問い続けた。


 今でも、不意に記憶が呼び起こされ、それが最善の答えだったのかと己に問いただす時があった。


 それらの問いの答え、悩み続けた先には、必ず――目の前の少女と、その母親の顔が浮かんでくる。


 我が主君を、そして生まれてきたその娘の存在に、私は幾度と無く救われた。彼女達の存在が、私と云う罪にまみれた人間を肯定してくれていると、そう思うのだ。


 間違ってはいなかったと。


 死なせる事無く、彼女達を護ることが出来たのだと。




 オズエは戸惑い、不安を浮かべて私を見詰めていた。


 私はその少年の頭に手をおき、その髪をわしゃわしゃとかき混ぜる。そして急に頭を撫でられ、今度はびっくりした表情を浮かべた。


「オズエ君、私は君に騎士になるなとは言わない。ただ、辛く、険しい道だという事は…………覚えていて欲しい」


 一拍を置いて、少年はしっかりと頷く。


「うん。それじゃあ、フォルテの事を宜しく頼む、小さな騎士くん」


 最後に少年の頭をポンと叩き、私はその場を後にした。




 《Ⅷ》


 村長の元へ赴き、改めて昨日の害獣討伐の報告を行った。


 この件の謝礼に関しては丁重に断りを入れた。金銭は私にとって、はっきりと言えば不要な物であったからだ。


 俸給はその役職に見合った金額が国から支払われ、そもそも私に散財の趣味は無い。


 そして騎士見習いとしてずっと城に住み、衣食住は基本的に金が掛かる筈もなかった。そのため私の財産は、この村の全員を一年間養うだけの金額があるだろう。




 その後は世間話をし、そのまま流れで昼食を頂く事となった。昼食を用意してくれたのは、村長の妻と……娘である。


 食事は終始和やかに進んでいた筈、だったが……どこかその妻と娘の私に対する視線が気になり、料理に関しては記憶がうろ覚えだ。


 多分、旨かった……筈だ。




 そして村長の家を後にし、村を回って次の街までの食料やその他諸々の消耗品を揃えた。まだ次の町の分までは余裕があったが、何事も準備をしておいて損は無い。


 金銭面に関しては出立の前に十分な額が渡されており、旅費に困るという事は無かった。腰に下げた貨幣袋には最初、グランスワール金貨三十枚、同銀貨四十枚、同銅貨五十枚が入っている。


 ちなみに金貨十枚あれば、夫婦と子一人の三人家族が一年は不自由なく暮らしてゆける額だ。そして更には隣国・ヴォルカニカ帝国の貨幣も入っている。


 今回の旅の到達点と言えるべき場所、それは隣国であり、我が国と長年争い続けたヴォルカニカ帝国である。


 魔王が動きを見せぬ今、かの皇帝が魔王に危険が無いと判断したとき、再び相まみえる可能性が最も高い国と言えよう。


 訳あって魔王が現れる二年前から休戦・不可侵条約は結んではいたが、油断出来ない相手には違いない。もし、こちらに攻め入ろうとしているのであれば、帝国の民にもその不穏な気配が自然と表れてくる筈だ。


 そうなればまた避けられぬ運命をもって、我等は衝突を迎える事になるであろう。そして戦いの火蓋が切られれば、迷うことなど許されない。


 殺戮の前の静けさが世界を包み込み、胃の腑の奥から湧き上がる根源的な感情に身を委ねる。


 人の焼ける鼻を刺すような匂い、人々の怒号と鎧の擦り鳴らされる金属音、更には荒々しく踏み鳴らされる鉄靴(てっか)の音。


 そんな血肉を削り合う戦いの果てには、大地を埋め尽くさんばかりに数百、数千の死体の赤絨毯が視界一杯に敷かれる。


 そこは微かなうめき声が奏でる、屍山血河(しざんけつが)の地獄絵図。可能であれば、そんな光景はもう二度と……見たくはないものだ。




 「ん? あれは……」


――この村の子供だろうか?


 これからの旅の行く末に思考を巡らしていると、いつの間にか進行方向上に小さな人影があった。


 舗装されていない細い道の真ん中に、まるでこちらを待ち受けているように佇んでいる。


 黄土色のフーデットローブを目深に被り、そのローブの裾は小さな体躯をスッポリと覆い隠すだけでは飽き足らず、更には足元の地面まで覆っていた。


 ローブの大きさがまるで合っておらず、非常に歩きにくそうだ。いや、そもそも暑くないのだろうか?


 少年か少女すらも判断がつかないその子供との距離は縮まって行く。


 近付くと、それが少女なのだと分かった。フードの下から覗く肌は透けるように白い。


 そして睫毛の長い大きな瞳、小さな鼻、薄い唇、少女めいた柔らかな輪郭、そしてそれらは無表情ながらどこか愛嬌が感じられた。


 ただ一時も外されることの無かった、私を見詰めていた視線に変化が起こる。


 こちらを見詰めるその瞳――漆黒の虹彩に囲まれ、縦に割れた黄金の瞳孔が浮かび上がったのだ。


 その変化に驚く間もなく、更なる衝撃が私を襲った。少女の頬を、一筋の透明な雫が流れ落ちる。




 そして感極まったように、震える声音で呟いた。


「やっと――――やっと、貴方に……会えた」




――成る程……涙を溢すほどに、この子は一人で不安だったのだろう。


「君は……迷子かな? お父さんかお母さんと、はぐれてしまったのかい?」


 周囲をグルリと見渡してみたものの、それらしい人影はない。


 困ったものだ……迷子と言っても、この村の中をどう探して良いものか。まずはこれ以上の不安を抱かせないように、この子を安心させるとしよう。


「大丈夫、私が親御さんを見付けてあげるから、心配しなくていい」


 そういって、フード越しに少女の頭に手を置いた。


 触れた掌から、少女の身体が小さく震えているのが伝わってきた。恐らく見知らぬ土地に独りぼっちで、ずっと心細かったのだろう――


「ち、が、い、ま、すっ! 私は迷子じゃありません!!」


 と、私はどうやら勘違をしていたらしく、この少女は何故だか怒りに震えていたようだ。




「私は、貴方に会いに来たのですっ!――<クレス・スタンノート>!!」


 今の言葉を聴いた人が居ないか、周囲を素早く見回す。確認を終え、胸を撫で下ろしたところで少女と向き直る。


「君は――何故、私の名を……?」


 微かに警戒心を滲ませ問い掛けた。それに対し少女は腕を組みグスッと(はな)をすすり、不満気に愚痴を溢す。


「まったく……貴方のせいで、折角の感動の再会が台無しです」


「再会……?」


 濡れた瞳が咎めるように私を睨みつつ、「はぁ……」とこれ見よがしに大きな溜め息を吐いた。


「確かに気付く筈はありませんが…………折角……その、盛り上がるような演出をしたというか……したのに。こう、もっと……胸にグッと来るような反応が…………」


 ブツブツと呟く少女を不審に思い、小首を傾げる。


 どうにも変わった子だ。そもそも何故、この子は私の名前を知っている?


 いささか疑問が残るが……考えられる可能性としては、この子の親が私を知っていて、それを何らかの切っ掛けで少女が知ったというところか。


 再会、と言われても記憶には無い…………この子供はもしかしたら、思い込みが激しいのかもしれない。


「何ですかっ、その憐れむような視線はっ!!」


 私の視線を敏感に察知し、少女は烈火のごとく怒りをあらわにした。


「そもそも貴方が悪いんですよっ!」


 そう叫び、黄金の眼で睨み付けてきた。




 その様子には、どこか長年仕えてきた主君に似たようなものを感じる。なんと言うか……理由も告げずに癇癪(かんしゃく)を起こし、私を一方的に責めるようなところがだ。


 だが相手は子供、ここは落ち着いて対応するのが大人の責務であろう。どうにも思い込みの激しいこの子を宥めるため、ゆっくりと頭を撫で付ける。


「大丈夫、親御さんはちゃんと見付けてあげるから……まずはそれからだ」


 そのまま頭を撫でていると、少女の口から「うぅ……」と呻き声が漏れた。そして少女の瞳に、何故か諦念(ていねん)といった年齢に不釣り合いな色彩が混じる。


 その事に微かな疑問を抱いていると、少女に頭に置いた手を小さな両手で捕まれた。


 そして見た目からは想像できない程の強さで、私の右手は少女の顔の前まで引っ張られ――


『ガブリ』


――と噛まれた。




 痛みというよりも驚きにより手を引き抜こうとしたが、不可解な事にビクリともしなかった。


 その間にも妙に鋭い糸切り歯が、プツリ――と私の皮膚を突き破る。それにより血が溢れ、少女の薄い唇を朱に濡らした。


 歯と言うよりは<牙>と呼んで差し支えないそれを引き抜き、小さな口が離れる。


 そして少女は、指先へと伝う鮮血を口に含んだ。温かい口内に含まれた指先に、ザラリとした濡れた舌先が這わされた。


 輪郭をなぞる様に紅い舌が蠢き、そして液体を嚥下(えんか)するように、コクリと少女の細い喉元が動く。


 少女の両の手の拘束を振りほどけぬままに、私はその光景を呆然と驚愕の狭間に見続けた。


 この場合、どの様な反応を示すことが正解なのか判断がつかなかった。もしかしたら怒る事が正解なのかも知れないが……生憎と、私はこの少女を叱る事が出来そうに無い。


 私は目をしばたいた。何故だか――不思議とこの少女は、どこか夢見るような表情をしていた。


 おそらく初対面であろう少女に、手を噛まれ、血を吸われ――手を振りほどく事すら叶わぬこの奇怪な状況にも、ついに終わりが訪れる。


 血と唾液が混ざり、指と唇が細く糸を引いた。


「その……君は…………」


 咄嗟に発した言葉に、何も繋ぐ事は叶わない。そのまま二度、三度と空気を求めるように口を閉口させてしまった。




 少女は己の唇にペロリと舌を這わせ、睨むとはスレスレの、どこか一途さを感じさせる瞳で私を仰ぐ。


魂環回路(パス)を結びました……これでもう、二度と、貴方を見失う事はありません」


 そう言って背を向ける。


「また、会いに来ます」


 ポツリ――と、淋しそうな言葉を置き去りに、少女は歩き出した。


 そして少し歩いた先で、突如として少女のローブが翻る。まるで籠から解き放たれた雲雀(ひばり)のような、風を捕まえた鮮やかな動き。


「――――ァゥ」


 それは少女がローブの裾を踏みつけ、盛大に転けた際に生まれた音。


 地面へと見事な着地を果たした少女は、一向に動き出さす気配は無い。


 余りに見事な転倒に、思わず息を呑み固まってしまった。そして心配になり、声を掛けようとした矢先――少女はガバッと上半身を起き上がらせた。


 そしてグルリと振り返り、まるで私を親の仇のような眼差しで睨み付ける。


……これは、私が悪いのだろうか??


 頬を恥らいに染め、暫しの間私を射殺さんとばかりに睨み付けていたが、少女は何も言わずに立ち上がると歩みを再開した。


 勿論、今度は一歩一歩、慎重に、である。




「はぁぁぁ…………」


 少女の姿が視界から消えた後、思わず溜めていた息を盛大に吐き出した。


 実は進行方向が少女と同じであった為、歩き出す事も叶わずに突っ立っていたのだ。


 ゆっくりと少女の姿が消える間、何もせずに立っていた私の姿は、端から見れば酷く滑稽に映ったであろう。


 流石にあのまま後を着いて行くように歩いては、あの娘が気の毒に思えたのだ。




 私の名を知っていた不思議な少女。その瞳から察するにあの少女は――非常に珍しい亜人(デミ・ヒューマン)だと推測される。


 他にも様々な疑問が沸いて出てくるが、その中でも解けそうに無い最大の謎があった。


「そもそも何故……あの娘のローブの下は、裸だったんだ?」


 こればかりは、私の理解を越えていた。




《Ⅸ》


「ねぇクレス、ちゃんと聞いてる?」


 外に星が煌めく静かな夜。対面のベットに腰掛けたフォルテは、不満そうに頬を膨らませていた。


「え、ええ……半分ほど」


「もうっ――」


 不機嫌そうに目を細め、唇を尖らせる。


「すいません、少々考え事をしてまして」


 考え事とは昼間の不思議な少女についてだが、その件に関してはお茶を濁しておいた方が無難だと、私の勘が告げていた。勿論……私の勘は、あまり当てにはならないが。


 フォルテは「フーン」と睨んでいたが、何かに気付いたように目を見開いた。


「あら――? クレス、手を怪我したの?」


「ええ、昼間に、その…………噛まれまして」


「そうなんだ」


 特に不審に思うことはせず、フォルテは不思議そうに頷いた。恐らく、犬猫に噛まれたと勘違いをしたのだろうが、わざわざ間違いを指摘するつもりはない。


 そもそも、どう説明して良いか困るのが正直な感想だ。




「そう言えば今日、記念にってこんなのを貰ったわ」


 喜色を浮かべ、フォルテは手のひらサイズの石を見せてきた。それは鉱石と水晶の中間のような、不思議な光沢を放つ物体。


「ほう……精霊石ですか」


 私が石の名を告げると、フォルテは顔を綻ばせて頷いた。そして全体が微かに透ける精霊石を目の高さにまで掲げ、まるで宝石を見詰めるかのように眺め始める。


 精霊石――つまりは、精霊の力が宿った石を総称して<精霊石>と呼んでいる。ただ、その存在自体は珍しい物ではない。


 豊かな土地、または精霊が多く住まう場所であれば良く見掛けるものであり、フォルテが持っているソレも珍しい物では無かった。


 見たところその価値は<六等級>といったところで……つまりは、市場では<クズ石>と呼ばれるものだ。勿論、この少女に今手にしている物の価値が分からない筈が無い。


 精霊石は一般市民の生活から、薬、術具、装飾品と様々な役割を以てこの世界に浸透していた。


 王族ともなれば<一等級>――果てには<特等級>と呼ばれる通称<大精霊石>を、見るだけでなく触れる機会すらもある。だがフォルテにとって今手にしている精霊石は、どんな宝石にも勝るとも劣らないものなのだろう。


 そんな少女に何か声を掛けようとしたが、私の口は一言も発する事は無い。


 精霊石を見詰める翡翠色の眼差しには嬉しさと、そして悲しみが同居していた。


 目の前の少女が、自分の立場を忘れて振る舞うことが出来た至福の時。その思い出の結晶とでも言うべき精霊石に、記憶を重ねているのだろう。


 そんな少女の追憶の最中に、私が声を掛けるなどとは不粋の極みであろう。




 一体どれ程の時間が経過したのだろうか……?


 幾度となく角度を変え、光の粒子を宿した精霊石を見詰めていた少女は、静かに口を開いた。


「ありがとうね、クレス」


 その言葉は、まるでセイレーンの歌声のように耳朶(じだ)を打った。


「――なんの事でしょうか?」


 私の<答え>に、少女は口許に優美な弧を描く。性別を超越した美しい微笑に、私の目にはその母親の姿が重なってみえた。


「ううん……何でもない」


 首を小さく左右に振り、ベットから立ち上がる。そして私の目の前にまで静かに歩み寄ってきた。


 いぶかし気に見守る中、フォルテは目の前でハーフターンを刻む。


 フワリと衣服と髪が凪びく軽やかな動きのままに――ポスンと、私の膝の間に小さな身体が収まり、二人分の荷重にベットが微かな軋みを上げる。


「どうしたのですか……?」


 そう問い掛けるも返答は無く、無言のままにピタリと身を寄せてきた。


 スッポリと収まった小さな体躯を見下ろしながら、深く考えず、その頭に手を置いた。どことなく、この少女がそれを望んでいた気がしたのだ。


 柔らかく華奢な体躯が腕の中にスッポリと収まったままに、とつとつと言葉が紡がれてゆく。


「私ね、やっとお母様の事が分かった気がする」


 絹のような質感の髪を撫でつつ、今しがたの言葉の意図に対し思考する。


「まだ、なんでか分からないこともあるけど……でも、そうなんだなって、分かるんだ」


 夜空に描かれた文字のように、静かに融けてゆく言葉達。だが、どうにも要領を得ない音の羅列に疑問符が浮かんでしまう。


 フォルテはそれ以上、何も口にすることは無く、ただ全身の力を抜いて身体を預けてきた。そのまま、どこかぬるま湯のような静寂が流れて行く。


「長年仕えて来た身ではありますが……いまだ、アルト様に関しては分からない事が多々ありますね」


 私はただぼんやりと、主君に対する感想を口にした。




 主君の考えを理解をするのが、忠臣の務めと言えよう。


 ただ私はアルト様の身を護る剣となる為に、騎士として忠誠を誓った身である。その役割は主君に仇為す者を断罪し、主君の許しを得ずにこの大地を侵す外敵を打ち払う事。


 アルト様の騎士として余計な迷いは不要であり、無駄な浅慮は必要ない。




 だが、本当にそれだけで良いのかと、問い掛ける自分自身が居るのも事実であった。


 剣として、盾としての役割を違えるつもりは無い。だがそれだけでは、護る事が出来ないものも存在する。


 真の平和とは何か?


 それを叶えるは<力>だけでは足りない、剣や盾だけでは成し得ることは出来ないのだ。


 『政治』――それこそが、誰もが望む平和を叶える為の唯一の手段であり……だがしかし、騎士である私には、酷く縁遠いものであった。


 騎士に政治とは、畑違いもいいとこだろう。


 そもそもな話、役割が違う。政治は王族や城に仕える文の重鎮、貴族諸侯の領分である。


 銀のメダリオン――侯爵に匹敵する地位や権力を与えられているとはいえ、私は元々低い身分の出身だ。


 そんな私が政治に関してとやかく口を挟めば、貴族達の反感を買いかねない。いや、そもそも私という存在を疎ましく思っている貴族が居るのは重々承知であった。


 平民上がりの身でありながら、子爵・伯爵の貴族達を凌駕する権力を持つ存在。それが如何に歪な存在であるか、戦場から一歩引いた位置から見れば良く分かる。


 表立って口にする者はこそは居ないが、不意に感じる事も多々あった。貴族達からすれば、私は云わば『目の上のたんこぶ』と言ったところなのだろう。




 視線を下に落とすと、小さなつむじが目に入った。


 もう半月もすればこの少女の歳は十を迎え、政治の舞台に立つこととなる。


 そこは血こそ流れはしないが、どこか戦場の<えぐさ>にも似た何かを感じさせる場所だ。貴族達の私利私欲、利己と欺瞞、嘘と虚礼が入り交じる世界。


 まさに目に入れても痛くは無い、娘のようなこの少女。そんな存在が煌びやかで醜い世界に進むことを想像すると、どうしても鉛を飲み下したように腹の辺りが重くなってしまう。




 昔となんら変わっていない。


 騎士として、私は誰にも屈せぬ力を手に入れた筈であった。だがそれでも、こと政治の世界に置いては、目の前の少女を護ることは叶わない。


 魑魅魍魎が集い、甘い蜜を吸おうと大きく口を開け、時に欲望の牙を剥く宮廷社会。


 華奢な身体で、こんなにも小さな背中で……王族として宮廷社会、その中枢へと入って行かなければならない。


 この子の母と同じ様に、ただ指をくわえて見守ることしか、私には出来ないのだ。それがただ、歯痒く感じてしまう。


 不意に、腕の中でモゾモゾと動く気配が伝わってくる。


 艶やかな髪を胸に擦り付けるように、少女は私を仰ぎ見る。顎先を擦った髪の感触をこそばゆく感じつつ、気持ちを切り替えて反応を待った。


 そしてフォルテはどこか不満そうな面持ちで口を開く。


「そう言えば、今日村の皆に聞いたんだけど……クレスって昔、隣の国のお姫様を助けたって…………本当なの?」


 言葉の端々に棘を感じさせつつ、睨むような視線が私を下から穿ち続けた。


 その件に関しては、身に覚えが無い訳ではない。


「しかも……そのままお姫様と愛の逃避行をしたって聞いたけど――」


「それは誤解です」


 ここは流石に、ハッキリと否定しておくべきだろう。


「それに関しては逃避行等ではありません。私はただ、彼女が本来居るべき場所へと送り届けただけです」


 この説明だけでは不満なのか、「フーン、どうだか……」と呟き、ことさら白い目で見詰めてきた。


「どの様に聞いたかは定かでは無いですが……おおかた、吟遊詩人たちが脚色したのを聞いたのでしょう」


 恐らくフォルテが聞いてきたとされる、詩人達によって広められた英雄譚(サーガ)は以前耳にした事があった。


 聞いた話によれば……なんでも民の間でもっとも人気のある話らしく、民衆の娯楽の為に様々な脚色がされていたようだ。


 その中で有名な話は――


『騎士クレスは、拐われた敵国の姫君を助けに、単身盗賊の巣へと赴いた。


 そして騎士クレスは数百の敵を打ち倒して姫の救出を果たした。その折りに二人は驚く事に、燃えるような恋に落ちてしまう。


 そして身分も、国も違う二人はそのままひっそりと、誰も知らない辺境の地で添い遂げたのだ』――と云う、馬鹿げた話であった。


 いつの間にか敵の数が膨れ上がっていたり、更には恋だの愛だのと(うた)われる位は構わない……いや、本当は良くないが、そこは敢えて捨て置こう。


 ただ、なにも大陸全土に広めなくても良かろうと、(くだん)の吟遊詩人達には一言言いたいところだ。


 そこまで馬鹿な話が広まれば、否応にも騎士団や王宮の中にまで知れ渡ってしまう……つまりは、アルト様の耳に触れてしまったのだ。


 勿論、正確な経緯は知っていた筈だが……『それとこれとは別』――と言う事らしい。




 今現在、私を咎めるようなフォルテの視線は、その時のアルト様の視線とまったく同じと言えよう。


 つい先程とは違う種類の原因から、まるで鉛を飲み下したように腹の中が重くなってしまう。


 更には執事長オランの愉快そうな表情と、その娘ソニアのどこか苛立だし気な様子までもが記憶の中から掘り起こされた。


 私はなんら悪くは無い筈であったが、その時ばかりは例の英雄譚(サーガ)のように、辺境の地でひっそりと暮らした方が良いかもしれないと脳裏を過ったものだ。


 一つ重い溜め息をつき、腕の中の少女を見遣る。


 何故か無条件でこちらが悪いと思わせる非難めいた視線に、冷や汗が背中を伝うのを感じてしまう。ここは妙な誤解を解くため、事の経緯を説明するしかないと判断を下した。


「あれは、三年程前の事です――」




 * * *


 時は遡り、三年前の事。


 グランスワール王国と、その隣国であるヴォルカニカ帝国は、山脈を西に越えた位置で国境争いを続けていた。


 昔から両国の間で小競り合いは絶えず、その時の争いも同じ様なものである。


 互いに半日ほど離れた位置に陣営を構え、小規模な戦いを三度繰り返した頃の事。最初の戦いから一週間が過ぎ、事件が起きた。


 ヴォルカニカ帝国陣営への補給部隊が、国境である山脈を根城とした盗賊団に襲われたのだ。


 勿論、補給部隊は山賊に警戒していたが、山脈を抜け、更に小さな森を抜けた位置で襲われたのだ。山賊達のテリトリーを抜け、警戒が弛んだ隙を突かれた形である。


 恐らく山賊達はこの機会を用意周到に狙っていたのだろう。無駄な行動もなく、補給物資の実に五割近く――約二千人分の兵糧や物資を迅速に奪い取った。


 そしてその略奪した戦利品には、帝国が誇る美しき姫の姿があった。


 隣国の姫がその補給部隊に居た理由は兵達を鼓舞する為であったが、その姫の存在が状況を最悪のものにしてしまった。


 この時点で帝国の陣営は、壊滅的な打撃を受けたと言っても過言では無い。補給が満足に受けられない事は死活問題ではあったが、より深刻な問題が彼等の前に立ち塞がったのだ。


 結果として彼等は前に出て戦うことも、部隊を本国へと引き上げる事も出来なくなったのである。


 まず今回の戦い目的は両国間の国境争いにあり、帝国はグランスワール王国の陣営を退かせる事を第一目標としていた。


 だが戦いを続けるにも盗賊団に補給を奪われた状態である。物資や食料が心許ない状態での戦いは、正に死にに行くようなものだ。更には姫を拐われ、四千もの兵達の士気は最悪と言っていい程に低下していた。


 それならば一度陣営を引き払い、本国へと戻り体勢を立て直すのが上策であるが――それを盗賊達が許さなかった。


 帝国の陣営は、グランスワール王国の陣営と盗賊団が根城にしている山脈の中間に位置する。


 つまり陣営を引き上げ本国に戻ると言うことは、山賊から見れば姫を奪還しに山へ来るするように見えてしまうのだ。


 状況としては『前門の虎に後門の狼』と言ったところか。そして盗賊達は姫を拐った事を近隣に吹聴し、更には帝国へと姫の身柄を引き換えに莫大な身代金を要求した。




 そして帝国の補給部隊が襲われ、一日が経過した頃――その事実がグランスワール王国の陣営にも伝わった。


 つまりこの時点で、盗賊達の<運の尽き>と言えよう。





 グランスワール王国の西の陣営、そこは頑強な石造りの城砦(じょうさい)である。そこには五千にものぼる国境騎士団が隣国との争いに備えていた。


 そして城砦にはその時、鋼色の鎧を纏った国境騎士団とは別に、一人の異形な騎士が存在した。


 白銀と紺碧に輝く甲冑。燃えるような真紅の布地に、金の刺繍が施された豪華絢爛なマントを羽織った一人の騎士。その姿はまるでおとぎ話の世界から抜け出してきた、光輝く騎士のようであった。


 周囲の騎士達とは違った出で立ちではあったが、誰もそれを不審に思うことはしない。むしろその姿を視界に収めると、どこか崇拝にも似た畏敬の眼差しを向けていた。


 そして更に不可解な事に、本来この城砦に居る五千の騎士達を纏める騎士団長が、その騎士の後ろにて指示を仰ぐ形を取っている。


 そしてその事に誰も、何も不満を口にせず――むしろそれが当然だとでも言うように振る舞っていた。


 騎士達の中には、まだ十代の青年騎士の姿もあれば、四十を過ぎた古強者の老騎士の姿もあった。だがしかし、皆が等しくその騎士に敬意を払っている姿は、事情を知らないものが見れば異様な光景であろう。


 だがこの国に――いや、この大陸に住まう者ならば、その騎士の名を聞けば誰しも納得せざるおえなかった。


 騎士の名は『クレス・スタンノート』。グランスワール王国に仕える二万人以上もの騎士達の頂点に位置する存在であり、こと戦場に置いて不敗を誇る英雄であった。




 時刻は星夜の煌めく頃。斥候(せっこう)から山賊襲撃の一報を受け、城砦が奇妙な空気に包まれた。


 現在、帝国の兵達は浮き足立っている状態であり、一気呵成(いっきかせい)に攻め立てれば呆気なく瓦解する事は明白だ。


 だがその結果、隣国の囚われの姫君が儚くもその命を散らす可能性があることを否定できない。


 彼等騎士達は主君に忠誠を誓い、無辜(むこ)なる民を護るために戦っている。その刃の矛先を、護るべき存在であるか弱き女子供に向けるべきではないと重々承知していた。


 それは勿論、隣国の齢十五の少女であろうと、彼等の矜持(きょうじ)――高潔なる騎士としての精神が間接的であろうと、なんら罪無き命を奪ってしまう事が許せなかったのだ。


 困惑と葛藤にざわめく五千の騎士達。だがその煩雑された気配が、次第にある一点へと集束し、やがて広間には無音の空間が形成されていた。


 その無数の視線の先には、武を志す者ならば誰もが全幅の信頼を寄せるであろう騎士の姿。ただ皆は身動ぎもせず、固唾を呑んで指示を待つ。


 そしてその重い沈黙を破るかのように、クレス・スタンノートは一つの指示を出す。


『馬を三頭用意し、口に木板を噛ませ、そして蹄には綿を詰めた布地を被せよ』


 それだけを告げると、クレスは部屋の一つに引き籠ってしまう。


 そして兵達が馬の準備を終えた頃、クレスは皆の前へと戻って来た。だがその姿は英雄的壮麗さが欠片も見当たらない、全身が(すす)にまみれた姿であった。


 皆が驚愕の面持ちで見守る中、クレスは静かに口を開く。


『私が単身にて盗賊の巣へと赴き、姫君を救出しよう。騎士達は万が一に備え、城砦にて待機せよ』


 他の者ならそれは大言壮語ととられるだろう。だが、彼は英雄であった。その言葉も、纏う雰囲気にも充分な説得力があり、誰も異を唱えはしない。


 そしてクレスは闇夜に紛れ、一人の馬廻りを連れて山賊の根城へと赴き、見事姫の奪還を果たす。


 更にはそのまま姫を連れ、護衛も付けずに帝国の陣営――つまりは敵陣の真っ只中へと向かった。そして帝国兵達の驚愕と興奮に包まれるなか、何の見返りも無しに姫君を引き渡し、その場を去っていったのだ。




 そして帝国兵達は本来敵である一人の騎士に敬意を払い、自分達の国へと帰ってゆく。


 この事件を切っ掛けとし、その一年後にグランスワール王国とヴォルカニカ帝国との間で、『休戦・不可侵条約』が結ばれたのであった。


 * * *




 掻い摘まんだ説明を終えたが、フォルテはどこか不満気な表情だ。なぜそんな表情を浮かべているのか分からず、内心首を捻る。


「そう言えば……執事長のオランから歴史について学んでいた筈ですが、ご存じでは無かったのですか?」


 ふと純粋な疑問を覚え、それを投げ掛けた。オランは執事長でありながら、フォルテの教育係りをしていた。


 文法に始まり礼儀作法や算術等、その種類は多岐に渡り、歴史もそれらに含まれていた筈だ。


 そして私の言葉を受けフォルテは、ギクリと身を固くすると視線を逸らしてしまう。


 なるほど……元々フォルテは勉強が好きでは無い。勿論、私も同じだ。


 ただフォルテの場合は、普通とは事情が異なる。幾多の学問を修める事は、王族の『義務』である。


 執事長のオランに言わせれば、『学ぶ事は、己を知る事』と、以前私に話したのを思い出した。


 なんでも、『己の存在を正しく認識し、自分の進むべき方向を自分自身で定めることを可能とする為。そして学ぶことで、非奴隷たる教養が身につく』との事だ。


 私はその言葉の意味すべてを理解することは叶わなかった。ただ『学ぶ事で、人は自由になる』と云う事は理解できた。



 私の記憶が正しければ、この子の物心がつく前から、極めて多種多彩な習い事が始まった。三歳に満たない年齢であった筈だが、それから六年以上も毎日、城の奥にて王族の教育を受け続けた。


 この広大なるラインラント平野を領地とするグランスワール王国。将来その頂きに座するであろう少女は、城と云う狭い世界だけで生きてきた。


 それはまさに籠の中の鳥のようで――普通とは駆け離れた歪な時間が、この少女を形造ったのだ。


 それを悪いとは言わない。アルト様も、オランも、城に住まう者……無論私も、親愛と情愛をもって接してきた。例え歪であろうと、フォルテの幸せを願い一瞬一瞬を積み重ねてきたのだから。


 そんな少女は私の些細な質問に対し、キョロキョロと視線を右往左往させていた。その様子はどこか悪さした子供のようで――つい、ふつふつと胸の奥から悪戯心が沸き上がってしまった。


「そう言えばフォルテは……勉強が嫌で、良く執事長から逃げ回っていましたね」


 その言葉にフォルテは、ボッと火が点いたように顔を真っ赤にさせる。そして私を見上げ、恥ずかしそうに口許をわなめかせた。


「そうそう、それと確か、急にかくれんぼを始めるフォルテを探すのは、決まって私の役目だったような……」


 今ではそんなことは無いが、それはこの子が勉強が嫌で嫌で仕方なかった頃の話。


 逃げ回るこの子を見付けて連れ戻すのは、何故か私の役割だったのは懐かしい思い出だ。




 外の月が隠れたのか――部屋の中に闇が落ちる。ただそれでも、目の前の少女の姿はハッキリと見てとれた。


 ただ何を言うわけでも無く顔を伏せ、服を掴んで肩を縮込ませる姿はどこか微笑ましい。そんな少女の頭に手を添え、口を開く。


「そろそろ休みましょうか。明日の朝にはこの村を出て、次の村まで歩かなくてはなりません」


 触れた手から、少女がコクンと、小さく頷くのが伝わってきた。


 だが――そのまま待っていても、フォルテは自分のベットに戻ろうとはしない。その事を不審に思っていると、まるで虫の鳴くような声が聞こえてきた。


「クレス……」


「ん? どうしました?」


 目に見える逡巡(しゅうじゅん)。フォルテは赤みが帯びた頬のままに、何度か迷うように口を押し開こうとする。


 だが無為に時間ばかりが流れた。不意に四角く切り取られた窓から、蒼白い月の光が部屋の中へと射し込む。


「クレスは……私に何かあったら、助けてくれる? その、お姫様みたいに……」


 か細い声で紡がれた言葉。私はただ、自分の想いを口にする。


「怒りますよ、フォルテ様」


 少女の肩にピクリと震えが走る。しかし私はそれを意識に留めず、言葉を重ねた。


「そんな当たり前の事を聞かないでください。例えこの命を犠牲にしてでも、助けるに決まっています」


 もしもこの親子二人の存在を失えば、私には孤独な破滅が待ち受けているだろう。


 我が人生はこの子達の為に尽くさねばならないと、 強迫観念にも似た想いに衝き動かされ、今までを生きてきた。


 その尊き存在が失われる事は、私の存在意義が消えるのを意味する。もしも意義を見失えば、生きる事は――死ぬ事よりも恐ろしい。


 無明の世界を照らす一片の光。私はその光をただ望み、無数の命を奪い獲って来たのだから。


 ならばこの子の為ならば、どんな犠牲を(いと)う事無く、私はその道を駆け抜けよう。例えどんなに穢れ、死に溢れた道だとしても。




「さ、いい加減夜も遅い。自分のベットへとお戻りください」


 静かに顔を伏せるフォルテ。「ン……」と頷きこそすれど反応は鈍く、立ち上がろうとする素振りすら無い。


 やはり、先の言葉はキツ過ぎてしまったのだろうかと、胸の内でモヤモヤと不安が渦巻く。


 無言の時間。外の涼やかな虫の音が沈黙を埋める中、ふと気付いた事があった。


 フォルテはもじもじと恥ずかしそうに体を揺らしていた。それはどこか、恥じらって言いたいことを言い出せない様子で――


「フォルテ、もしかして……」


 ピクリと小さな肩が震え、意識が僅かに固くなるのを感じた。


「寝る前のトイレを済ませていないのですか? でしたら、もう暗いですし私が付いて――「違うっ!!」」


 フォルテはそう鋭く叫ぶと同時に、ダンッと床を蹴り付け立ち上がる。そして振り返る事無く、一目散に自分のベットへ潜り込んだ。私はただそれを、間抜けにもポカンと口を開いて見送るしか出来なかった。


 流石におねしょは不味いと思っての気遣いだったが、どうやら怒らせる結果となってしまったようだ。


 シーツを頭まで被り、まるでヒナ鳥の様に丸くなっている。トイレでは無いとすると、先程は何を言い出そうとしたのだろうか……?


 暫し考えを巡らせていると、ピンッと閃きが走った。


 もしかしたら、一人で寝るのが心細かったのかも知れない。城を離れて早三日、そろそろ寂しさを覚えても無理はないだろう。


 フォルテは今まで城と言う揺籃(ようらん)の中で生きてきた。外の世界に好奇心はあるだろうが、時が経てば不安にも思う筈だ。


 ただ……今さらそれに気付いた所で、手遅れ感は否めない。フォルテは見たところ、ばっちりとヘソを曲げている。


 まあ…………次からは気を付けるとしよう。


「おやすみ、フォルテ」


 そう言葉を投げると、小さく「おやすみ」と返ってきた。ただ……酷く不機嫌そうな声音だったのには、苦笑いしか出てこない。




 《Ⅹ》


 白みがかった空の下、舗装もされていない街路には私達の他に人影は見当たらない。頭上に広がる夜と朝の漠然とした大気の境は、胸の中に奇妙な感慨を抱かせる。


 隣を歩いていたフォルテは立ち止まると、おもむろに後ろを振り返る。


 何を思い、何を感じているのか――その横顔からは、全てを読み取る事は出来ない。ただこの村との、この風景との別れを惜しんでいるように感じられた。


 王都から最も近く、牧歌的で長閑な村。そしてこの少女が初めて、誰に気兼ねする事なく年相応に振る舞えた場所。


 そもそも、フォルテが再びこの地に訪れる事が出来るかは定かでは無い。


 この旅が終われば、再び今までの城の中の生活に戻らねばならない。そして十歳を迎えれば政治の舞台へ上がる事になり、今まで以上に多忙を極めるであろう。




「またいつか――この地を訪れましょうか」


 自然と出た言葉。なぜかその横顔を見ていたら、意図せず口から溢れてしまった。


『いつか』――それはどれ程先の話になるだろう。一年後か、五年後か、十年後か、はたまた二十年後か。


「うん――また来たい」


 フォルテは小さく囁くように、ただ確とした意思を込めて呟いた。


「ええ……また来ましょう」


 それは未来への約束。果たせるかも分からぬ誓い。


 人はそれを『嘘』と言うのだろうか――?


 それが叶わぬ願いかも知れぬのに、さも当然のように言葉を吐く。ただ――この少女は、それが如何に困難な願いか分かっていて、それを十分に理解した上で言葉にした。


 ならば、私は幾らでも嘘をつこう。そして、嘘を嘘で終わらせぬように私の誇りに誓いを立てよう。また少女がこの村に来て、笑えるように。


 未だ低い陽射しは視界に映る景色を白く染める。それはまるで世界そのものが停滞したかのように見えた。


 フォルテはゆっくりと瞳を閉じる。目の前の景色を、その思い出を――瞼の裏に焼き付けるように。


 そして眼を開き(きびす)を返すと、振り返る事はせずに颯爽(さっそう)と歩き出した。凛としたその様子は、ここで得た糧を胸に前へと進もうとする、確かな成長を窺わせる。


 その少女の成長に嬉しさを感じると同時に、一抹の悲しみを覚えた。ただその思いは悟られぬよう胸に秘め、私もただ前に進んで行こう。


 この旅の終わりに、どの様な変化があるのかを見届ける為にも。




『また、会いに来ます』――そう言葉を残した不思議な少女。そして昨夜に触れた、いまだ私の記憶の中にしこりを残す微かな疑問。


 帝国の姫君。三年前に救出を果たし、陣地へと送り届けた際――どこか張り詰めた表情の彼女が飲み込んだ言葉。


 それは状況とは酷く不釣り合いな、不可解な声無き言の葉。なぜ彼女は『助けてくれ』――『救ってくれ』と、その瞳にて私に訴えかけたのだろうか。

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