到来を告げる北の風
《Ⅰ》
穏やかな陽射しが降り注ぐ長閑な空気に、突如として緊張が走る。
私は宿屋を出て、この村の村長の家へと歩いていた。そして隣には、今にも鼻唄を歌い出しそうなほどに上機嫌な少女の姿があったが――その様子が今や、跡形もなく崩れ去っていた。
接近を告げる、複数の足音。制止を告げる間も無く、隣を歩く少女はその足音の発生源に素早く取り囲まれてしまう。私はあまりにも想定外な事態に、現状をただ傍観するしか出来ないでいた。
だがそれも、私に助けを求める少女の視線により急速に気持ちを切り替え、この場をどう対処すべきか思考を巡らせてゆく。
「すごーい! キレイな髪ー!」
「お人形さんみたーい!」
「やーん、服もかわいい! ねっね、これどこで売ってるの? 教えてー!」
この村に住む娘達がフォルテを取り囲み、賑やかな声を上げている。矢継ぎ早に繰り出される質問に目を白黒させ、更には困ったような視線で私に助けを求めるフォルテ。その間にも、質問は止まる事はなく繰り出されていた。
取り囲んでいる女の子の人数は三人、フォルテより少し年上の子が一人、同年代とおぼしき子が二人。
そして更に視線をその子達の後方へと移せば、今度は男の子二人が互いに小突き合いながら落ち着き無く立っていた。記憶が正しければこの子達の何人かは、昨日川の近くで遊んでいたのを思い出す。
これは……もしかしたら。
「クレスゥ~……」
思わずギクリとなり、その怨めしげな声音に視線を戻す。すると服の裾を両手で握り締め、上目遣いに私を睨み付ける姿が確認できた。
この場をどの様に対処すべきか、いまだ考えが纏まっていなかった。
少女達は興奮した様子でとっておきのオモチャを……いや、オモチャは言い過ぎか。まるでお気に入りの人形でも相手にするように、キラキラとした瞳でフォルテに声を掛け続けている。
「あなたどこから来たの!?」
「これからどこ行くの!?」
「他にもかわいい服たくさん持ってるの? 良かったら見せてー!」
ただただ少女達に圧倒され、フォルテは首をすくめて周囲を見遣るばかり。
「オイッ、その子困っとるやろ!」
ふと、後方に居た一人の男子の声が響いた。その男の子は少女達の間へ割って入り、場を納める。
少女達から解放されたフォルテは、一目散に私の後ろへと回り込み、子供達から姿を隠してしまった。その様子を見て娘達は落ち着きを取り戻したのか、互いに顔を見合わせ、ばつの悪そうな表情を浮かべる。
そのまま場に気まずげな空気が流れ、沈黙が生まれた。まるで警戒心の強い小動物のような姫君は、私の裾を掴んでは「うぅ~……」と、小さく唸り声をあげている。理由としては、直ぐに助けなかった私への不満と、先程の自分の様子に対しての照れ隠しだろう。
「君たちは、フォルテを遊びに誘いに来たのかな?」
取り敢えず私は、リーダー格とおぼしき少年に声を掛ける。
「そうや! 昨日ここらじゃ見かけん子供が歩いてたって聞いたから!」
少年は元気良く答える。
「なるほど」
一つ頷き、ザッとここに居る子供達を観察する。特におかしな事はない。流石に疑うまでもなく、純粋に遊び相手を求めての行動だろう。
そして今度は首を後ろに傾け、我が第二の主君を仰ぎ見る。
「この子達はフォルテと遊びたいみたいだけど、どうする?」
父娘と云う関係を疑われぬよう、なるべくフランク問い掛ける。だが、答えは数秒経っても返ってこなかった。それに苦笑を溢し、子供達へと向き直る。
「すまない、ウチの子は極度の恥ずかしがり屋さんなんだ。言葉には出してないが……どうやら君達と遊びたいらしい」
言い終わると同時に、背後から「ク、クレスッ……!?」と驚きに震える声が響いた。それを無視して、大きく一歩脇へとずれる。すると私の背に隠れていたフォルテの姿が子供達の前へと晒され、今度は驚きのあまり立ち竦んでしまう。
「ぁ……っと、その……」
弾かれたように顔を伏せ、要領を得ない呟きを漏らすフォルテ。
その小さな背に、手を添える。そして身を寄せて屈み込み、頬を合わせるように言葉を告げる。
「貴女はこの旅の間は、私の娘――<フォルテ・ルーグリット>です」
引き絞った声に、小さな頷きが返ってくる。
「それにこれは、我が国の民をその身で知る事が出来る良い機会です。<フォルテ>、この子達と接する事は――国を支え、貴女が将来守るべき大切な者達を知るのに、必要不可欠なことです」
二呼吸分の時が流れ、少女は瞳を伏せたままにコクリと頷く。
「ン………分かった、わ」
虫の鳴くような、か細い声。その返答と同時に私は少女から身を離し、次にリーダー格の少年と向き直る。
「それじゃあ宜しく頼む。ただし町の外には出ないこと、それとくれぐれも危険な事はしないようにな」
「分かった、学者のおじさん!!」
私は他の子供達も順番に見回し、フォルテの後ろへと下がる。そして足が根を張ったように、いまだその場から動こうとしない少女の背中を静かに前へと押した。
不安に揺れ、期待に震え、欲しいものを欲しいと素直に言葉に出来ない、そんな不器用さをもった少女を支えるように。
戸惑うように踏み出した一歩は小さい。反射的に振り返った心細そうな表情に、私は小さく笑みを浮かべて頷きを返す。そして、再び前を向いた少女は二歩目を踏み出した。
小さい歩幅ながら、それは一歩目より大きく、更にはしっかりとした足取りであった。
視界の中で小さくなってゆく複数の影を、ただ漠然と眺めている。
親離れ、子離れ……とは少し違うか。どこか妙な感慨に耽る自分を嘲笑いつつ、自分も年を取ったのだと深く実感していた。
「さて……」
腰に吊るした貨幣袋とは別の袋に手を入れ、中身をまさぐる。そうして取り出した細長い物を、おもむろに口へとくわえた。
これは城に仕える魔法薬剤師が独自に栽培した草を、乾燥させて紙に巻いたもの。これらは総称して煙草と呼ばれている。
このどうにも慣れぬ匂いに眉をしかめつつ、右手を煙草の先端へと近付けた。そして煙草の先へと意識を集中させ、そのまま中指と親指を強く弾く。響いたのは朽ち木を折るような、乾いた音。
その結果、体内に宿るマナの働きにより、発火と燃焼が引き起こされた。そして煙草をくわえたままに息を吸い込み、風に揺れ動く一筋の煙を静かに眺める。
吸い込んだ煙が体内を循環し、体内のマナと結び付いたのを把握すると、今度は煙草を握り潰して息を吐き出す。吐き出された煙は空へと登ることなく、音もなくその場で渦を巻き続けた。
不自然な滞留をする、マナを帯びた螺旋風。
手の中で煙草が完全に塵となった頃、その煙が渦の中心へと凝縮され――小さな精霊が、この場に召喚された。
それは風を司るシルフの眷属、その最下級に位置する精霊の一つ。淡く光を放ち、全体的に緑色の透明な羽をもった小人。
手のひらに隠れてしまいそうなその小さな精霊は、重さを感じさせない動きで空へと飛び上がる。そしてそのまま、既に点のようになりつつある子供達の後を追うように、風に乗り飛び去った。
一瞬、過保護と云う言葉が脳裏を掠めたが、むしろ足りないぐらいだと否定する。
まだ幼いとはいえ、この国の行く末を担う存在。それが町中で警護も付けずに居るなど、王都にいる頃では考えられないことであった。
先程召喚した精霊は、対象とする人物に危機や異変が迫れば召喚主に知らせるといったもの。何かあれば直ぐにでも駆け付けるつもりだ。
一つ息を溢すと先の煙草の残り香が鼻につき、小さく眉をしかめてしまう。魔力を帯びた草を使用した呪具の一種ではあったが、どうにもこの匂いには慣れる事が出来ない。
微かに意識を集中すると、フォルテと子供達の位置がぼんやりと伝わってくる。
詳細な位置は分からぬが、どうやら溜まり場となっている風車小屋へと向かっているようだ。用事を済ませたら一度覗きに行ってみようと心に決め、踵を返して歩を進める。
《Ⅱ》
私は今、他の民家よりも幾らか大きい家の前に立っていた。そして木の扉の正面にある簡素なノッカーを打ち付けると、硬質な音が響く。
「はーい」
しばらくして家の中から女性の声が返ってくる。そしてパタパタと扉越しに足音が聞こえ、微かな音をたてて扉が開かれた。
「あっ……」
私の顔を見上げたその娘は、驚きの声を上げた。
「あぁ、貴女でしたか……昨日は失礼しました」
その娘は昨日、この村で最初に聞き込みを行った娘であり、訳有って途中で切り上げてしまったのであった。
「ところで、ここが村長の家で合っていますか?」
間違ってはいない筈だが、念のため確認しておく。
「は、はい。間違ってませんっ」
どうやら急な来訪に気が動転しているようで、娘は頬を赤くしてそう答える。ふと、昨日宿屋の女将との会話が記憶の中から掘り起こされた。
「ああ、そう言えば――昨日は美味しいパンの差し入れをありがとう。お心遣い、感謝します」
礼を告げると、娘は俯き「いえ、そんなっ……」と小さく言葉を溢し、手を恥ずかしげにこねくりまわす。そして慌てたように居住まいを正し、落ち着きなさげに自分の髪に手櫛をいれる。
「あのっ……ここには、その、どういったご用で!?」
深呼吸したあと、娘はそう訊いてきた。
「ええ、実は村長さんに折り入って頼み事がありまして――」
「ええっ!」
急に驚きの声を上げた娘を、戸惑いを感じつつ見遣る。だがそんな視線に気付かずに、頬を真っ赤にしていた。
そして見るからに熱を持った頬に両手を寄せ、「いきなり――父に話しなんて――まだ……そんなっ――」と些か不明瞭な呟きを漏らしている。
……この子は大丈夫だろうか?
そんな失礼な考えが過ったが、取り敢えず正気になって貰うためその肩に手を置き、軽く揺れ動かそうとした刹那。
「ぁぁっ――!」
娘はビクリと身を震わせ、どこか艶のある声を上げた。反射的に肩から手を離し、思わず後ずさってしまう。
どうしたんだ……やはり、どこか病気なんだろうか……。
雨に濡れたような潤んだ視線を感じつつ、及び腰のままにおずおずと話を切り出す。
「その……スイマセンが、村長さんを呼んできては貰えません、でしょうか?」
娘の様子に言い知れぬ不安を覚え、必要以上に丁寧な口調で話しかけた。
何故か期待と不安に揺れ動く瞳に見詰められること数秒。娘はしっかりと頷くと、パタパタと急いだ様子で家の奥へと駆け出して行った。廊下を曲がり、その姿が見えなくなると大きく息を吐き出す。
どうにも、あれぐらいの年齢の娘が考えている事が分からない。無論、どの年代の女心なら分かると云う訳でもなく、比較的若い娘の考えが読めないというものだ。
自分が幼い頃からそう思ってはいたが、今やこの年齢になっても理解には及ばず、むしろ謎は深まるばかりであった。
戻ってきた娘にこの家の応接間に通され待っていると、暫くして一人の男性が部屋へと入ってきた。
背が低く横幅があり、頬肉が垂れた、全体的に丸い印象の男性だ。
だがひどく緊張した様子で、部屋に入ってから一言も言葉を発してはいない。そして私の全身を値踏みするように睨み付けてくる。
その様子に戸惑いつつも、なんとか会釈をする。無言のまま椅子に座ることを促され、村長から放たれる妙な圧力により、何故か肩身の狭い思いを味わう。
……何か、機嫌を損ねる振る舞いをしてしまったのだろうか……?
対面に座る村長からは、何故かこれから戦場へと赴く兵士のような決死の覚悟がひしひしと伝わってきた。
そのまま重たい沈黙が続き、どう切り出して良いものか分からぬまま、無為に時間ばかりが過ぎて行く。
そうこうしてる内に娘が部屋に入ってくると、二人分のお茶をテーブルに置いた。
そして娘は無言のままに退室し、扉が閉まる音が消えた直後、お茶で唇を湿らせた村長が微かに口を開く。その重々しい様子から意識を張り詰め、微かな緊張に身を固くする。
「……娘とは、どのような関係でしょうか?」
「……………………は?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「すいません、質問の意図が読めないのですが……?」
そう問い掛けると、村長は不愉快そうに眉根を寄せ、苛ただしげに口を開く。
「何をいっているんですかっ、私は貴方と私の娘の関係を聞いているんだっ!!」
すまない、いくら考えても何が言いたいのかが分からない。
「関係と言われても……昨日あったばかりですので……」
「昨日……!?」
今度は目元を手で覆い隠し、天井を仰いだ。
いったい今の言葉のどこに、ここまで驚かれる要素があったのだろうか……?
何かがおかしい……なんだ、このボタンを掛け違えたような違和感は……
そのまま暫し見当違いな問答を続けていくうちに、村長も次第に違和感が増していったのか、徐々に困惑した表情を浮かべてゆく。
そして紆余曲折の末、なんとか誤解は解けたようだ。
「大変失礼しました……」
「いえ、誤解だと分かって頂ければ十分ですよ。どうか頭を上げてください」
深く頭を下げる村長に声を掛ける。居住まいを正しては貰えたが、流石に気まずいのか目を伏せ、しきりに汗を拭っていた。
その様子には、こちらとしても妙な罪悪感を刺激されてしまう。どうか先程の誤解の件に関しては穏便に済ませて貰うように告げ、本来の目的を済ませる事とする。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。私の名はクレス・スタンノートと言います」
「……………………は?」
先程とは立場が逆転し、今度は村長が素っ頓狂な声をあげた。そのまま眼を見開いて数秒ほど固まり、口をパクパクと開閉する。
暫しの沈黙。
そして何かに気付いたようにハッとすると、苦い笑みを浮かべた。
「ハハッ、貴方も人が悪い。いくら場を和ませる冗談にしても、些かやりすぎですよ。ハッ、ハッ、ハッ……」
そういって村長は、すっかり冷めきってしまったお茶に口をつける。
「生憎ですが、私は正真正銘――<クレス・スタンノート>ですよ、村長」
ブハッ――と、村長がお茶を噴き出した。
そして口からたるんだ顎へと滴るお茶を拭いもせず、驚愕の表情で私を見遣る。どこか大袈裟な反応に苦笑しつつ、どうにも私の名は民衆の間に広く知れ渡っているのだと、改めて実感してしまう。
生きた伝説――そこまで言われると冗談か皮肉にしか聞こえないが、どうやら民衆の間で私は、<英雄の中の英雄>とまで囁かれているらしい。
名ばかりが広まった世間の現状。まさにそれを体現するような村長の様子を見据えつつ、私は溜め息を堪えながら口を開いた。
《Ⅲ》
簡素な造りの小屋の前に立ち、私は扉を素手で叩く。
乾いた音を二回鳴らし、返事を待たずに戸を開け中へと足を踏み入れた。
中は埃っぽく、部屋の光源は明かり取りの窓から射し込む光のみ。
急な来訪に驚く二つの人影を無視し、部屋の中をぐるりと見渡す。
一部屋限りの、生活感の無い小屋の中。
この小屋はそもそも住居ではなく、道端に建てられた物置のようなものだ。
そのため左手の壁には鍬などの農具があり、他にも剣や弓、槍や盾が一纏めに立て掛けられていた。
「おいっ、なんだあんたっ!」
部屋の奥の椅子から立ち上がり、男が誰何の声を張り上げた。
その声に視線を正面へと戻す。
こちらから見てテーブルの奥の男が椅子から立ち上がり、突然の闖入者である私を睨み付けている。そして先程声をあげた奥の男の対面に座るもう一人が、何かに気付いたように口を開く。
「あんた……確か、一昨日に村に来た……」
その手前の男には私も覚えがあった。
この<ルード>と云う村に入る際、入り口にいた衛兵の若い方だ。そしてその若い衛兵は怪訝な表情で歩み寄ってくる。
「こんな所に何の用だい? ここは俺達の休憩場所に使ってるんだ、悪いけど出てってくれないか?」
私はいまだ小屋に入ってから口を開かず、口を引き結んだままに観察を続けていた。
そしてツカツカと近付いてくる若い衛兵、その背景の一部が目に留まる。
テーブルの上に置かれた葡萄酒のボトルとグラス。更には数枚の銅貨に、散らばったトランプ。
そこから連想されることは、子供であろうと容易に想像がつくであろう。
「昼間から酒盛りに賭博とは……随分と良い身分だな」
微かに沸き出る感情を抑えつつ告げると、二人の衛兵の顔が見るからに引き吊った。
「あ、あんたには、関係ないだろっ……」
若い衛兵は途中で立ち止まると、眼を反らしながらそう吐き捨てた。
「いいから、用が無いならさっさと出てってくれっ……」
「平和ボケも、ここまで来ると問題だな」
そう小さく呟き、ゆっくりと息を吐き出す。
「生憎、私は君達に用が在って来たんだ」
私の高圧的な声に反応し、二対の眼差しが向けられる。
その眼差しに解を示すように、左手に持っていた一枚の書状を広げて見せた。
近くに居た男が困惑した表情で書状を覗き込む。
「要請書……?」
書面には近隣の森に棲息する害獣を討伐する旨が記載されている。その役割を担うのは衛士、つまりは目の前の彼等である。
そして『グランスワール王国騎士団・近衛騎士団長クレス・スタンノートに指示を仰ぎ、上記の任に就くこと』――そう、この村の長の署名入りで書かれていた。
書状を覗き込んでいた彼は、グラリとバランスを崩し、一歩、二歩と後ろへ下がる。そしてよたよたとおぼつか無い足取りのままに、遂には尻餅をついた。
そんな自分の醜態を省みず、まばたきもせずこちらを見上げてくる。
「ほ、本物…………?」
呆然としたまま呟き、立ち上がることすらしない。奥の衛兵は今の状況に対して、戸惑いを露にしていた。
それも当然だろう。書面を読んでいた衛兵が、突然バランスを崩して後退り、尻餅をついてしまったのだ、戸惑うのも無理はない。
ただ、私としてはこの者達に一から十まで説明している暇はない。フォルテの事もあるため、迅速に行動を移すとしよう。
「これが何か分かるかね?」
腰に下げた袋から、ある物を取り出しては彼等の見える位置に掲げる。
我が国の主精霊と崇める四大精霊『ノーム』――その加護を受けて精製される『樹霊鋼』。
この樹霊鋼を台座とし、<銀の硬貨>が嵌め込まれた、掌ほどの大きさのメダリオン。台座の爪によって嵌め込まれた銀の硬貨には、国の守護獣とされる<獅子>の紋章が精緻な意匠で刻まれている。
このメダリオンはその所持者の地位を示し、更には証明する為の物。
「たっ……――大変、しっ、失礼しましたっ!」
数瞬後、若い衛兵は飛び跳ねるように立ち上がり、最敬礼を返してくる。遅れて奥の衛兵も同様に、胸に拳をあてる敬礼をした。
二人は顔は青ざめさせ、瞳孔は開き、短い呼吸を幾度と洩らし続ける。それはまるで……死罪を待つ囚人を連想させた。
通称<銀のメダリオン>――下から<銅><銀><金>とあり、身分を示すにはこれ以上と無いもの。
勿論、これを複製などすれば、その関係者全員が即死刑となる代物であり、その所持者を疑う者はこの国に存在しない。
そもそも<騎士>とは、一介の兵士や衛兵等とは一線を画す、特権階級を示す称号である。
<銅>は最低でも<子爵・伯爵>等の身分を示すものであり、そして私が所持する<銀>は<侯爵>以上の地位を示すもの。その上の<金>に値する身分とは大公爵、または王族に所縁の在る存在だ。
破滅を導く冥府の遣いにでも出逢ったかのような、そんな彼等の恐慌に眉をひそめつつ、手を振り口を開く。
「構わん、楽にしたまえ」
私の指示に二人は素早く足を開いたものの、いまだに身体をガチガチに硬直させ、暑くもないのに汗を滝のように流していた。
まあ、無理もない……か。
最悪、自分達の首が飛びかねない相手が目の前に居るのだ……彼等の緊張も理解出来る。
そう考えて小さく溢した溜め息に反応し、若い衛兵はビクリと身を震わせた。チラリとその表情を見遣ると、先程までの青白い表情が今や土気色にまで変色していた。
もしかしたら先の態度の他に、一昨日の私に対する振る舞いや言動を思い返しているのかもしれない。
「……私は君達を罰するつもりは無い、安心したまえ」
その言葉に彼等の震えは止まったが、顔色はいまだに優れない。
いい大人がこちらを怖々と、更には小動物のように震えて見詰める様子は、正直見ていて気分の良いものではない。
可能であれば穏便に済ませたかったが、生憎と時間が押している。これから森に入り、本来なら二・三日掛かる害獣の処理を、私と衛兵の二人で短時間の内に済ませて村に帰ってこなくてはならない。
元々時間は無かったが…………そもそも私が、何故か村長の家で誤解を解いていた為に、更に時間が圧迫された事など彼等には余計な情報だろう。
私は若い衛兵を見つめ、口を開く。
「君は書状にあった通り、私と共に森へと向かって貰う。直ぐに準備をしてくれ」
「は、ハイッ、了解しましたっ!」
早口に発するも、混乱しているらしく周囲を忙しく見回し、中々動き出そうとはしない。
「……武器は持たなくて良いのか?」
そう言葉を投げ掛けると、ハッと顔を上げ壁に立て掛けてあった剣を取り、戻ってくると私に対し敬礼をする。
思わずそれだけの準備で良いのかと問いただしたくはなったが、今更どうでも良くなったため、その疑問は捨て置くとしよう。
私は武具や農具が立て掛けてある壁へと歩み寄る。そしておもむろに簡素な造りの弓を手に取り、木の質感や握り、弦の張り具合を確認した。
どうやら問題は無いようだ。持っていた剣は宿に置いてある為、狩りにはこの弓を使用する事とする。
「それでは向かおうか」
傍に置いてあった矢筒を抱え、若い衛兵の前を横切り戸の前へと歩いてゆく。
取っ手を掴んだところで二人に伝え忘れていた事を思い出し、背後を振り返る。
「言い忘れていたが、私がこの村に逗留している事は誰にも口外しないように」
そこで一旦言葉を切り、二人の衛兵を順番に見据える。そして淡々と、声を抑えて言葉を告げる。
「もし君達が口外したと分かれば、命は無いと思ってくれ」
言葉を受け、二人は再び顔を青ざめさせて無言のままに頷いた。
《Ⅳ》
* * *
グランスワール王国、初代国王グランスワール・ファン=ゲオル。
今から四百年以上も前、彼は小さな国や部族の集まりであったラインラント平野を統一し、一つの国家を築き上げた。
国王ゲオルは平野の中央に城を据え、一代にして隣国の存在に怯える事の無い、強固な国家とすることに成功した。
時は戻り、ラインラント平野の中央部の西寄りに、名も無き小さな森が存在した。
疎らに立つ若木は瑞々しく、頭上を雲のように覆う葉は鮮やかな緑色をしている。森の中から見上げれば、微かに傾いた陽光が木漏れ陽となり、あるいは梢が墨で塗り潰したような影となる。
立ち込める自然の匂い。吹き抜ける風にざわめく木の葉歌が鼓膜を揺らし、自然に囲まれていることを意識させる。
そんな森の中に、二つの人の姿があった。
片方は黒の帷子の上に簡素な革の鎧を身に付けた青年であった。赤茶色の髪の下には青白い不健康そうな肌を覗かせ、体調が優れないのか汗をダラダラと流している。
その者は森の傍にある村の衛兵を勤めており、名をユアンといった。そんなユアンの赤黄色の瞳は、すぐ傍の同じ瞳の色を持つ男性へと向けられている。
高い鼻梁と凛々しい眉の精悍な顔立ち。固く切り結んだ口許は、その者の厳格でストイックな意思を窺わせた。
そしてどことなく穏やかな、更には憂いを秘めた眼差しは、男ならではの色香を強く匂わせる。視線一つで女心を融かしてしまいそうな美丈夫であり、よく鍛えられたその長身は他者を圧する威風に満ちていた。
歳は四十に近いが一切の衰えを感じさせず、むしろ歳月を積み重ねる度、その身を研ぎ澄ませてゆく印象を抱かせた。
彼こそがグランスワール王国が誇る英雄にして、大陸最強の騎士として名高い、クレス・スタンノートである。
ギチリ、と空気が軋む音がした。
信じがたい程の――強者の威圧。それは幾多の死線を潜り抜け、無数の命を奪ってきた歴戦の勇者の証と言えよう。
ユアンは唐突に強烈な渇きに襲われ、一度だけ小さく喉を鳴らした。
偉大なる英雄の全身から静かに放たれる威圧感を肌に感じ、ピリピリとした切迫感が強まってゆく。
英雄の視線の先。木々の間を抜け、見据えた先には小石程度の小さな点が見えた。距離は百メートルを越え、彼は端正な目元を細め、その点を鋭く睨み付けている。
先程のなめし皮を力一杯絞ったような音の原因、それは彼の手元で引き絞られたストリングが上げた悲鳴であった。
一本の弓矢をつがえて引かれた弓弦は、美しい三角を描き、同時に肌を焦がすような緊迫感を発していた。
閃光の如き刹那、二本の指が矢を離す。
ビンッ――と空気が震え、矢が空気を切り裂き駆け走る。木々の合間に異質な風切り音が鳴り響き、一拍遅れて鈍い音が伝わってきた。
視線の先で動くのを止めた影を見据えたままに、英雄と呼ばれし男は静かに傍らの若者へと語り掛ける。
「行こう」
ただそれだけ言うと、射殺した獲物に向かい弓を片手に歩き出す。
ユアンはハッとして、即座に頷き彼の後に続く。
近付くにつれ、その鼻と舌は周囲に漂う空気比率の変化を嗅ぎ分ける。
日溜まりの中の緑に紛れた、錆びた鉄の匂い。零れ落ちたる命の蜜。一匹の四足歩行の獣――灰色の毛皮をもった狼は、首に突き立った一本の弓矢で絶命し、その血液を大地へと垂れ流していた。
クレスはその傍へと屈み、眇られた瞳で狼の死体の全身を観察する。
「見てみたまえ」
そう、ユアンに語り掛ける。青年は周囲に漂う血の匂いに顔を青白くしたまま、どうにもおぼつかない足取りで近づいてゆく。
クレスは狼の死骸、その腹の辺りを指差しながら口を開いた。
「肋が浮き出ている。それに脚は細く、明らかに痩せ細り過ぎだ」
確かに、とユアンは頷く。
「村の農夫達の話では、ここ最近で獣の被害が増したという事だが……おかしいとは思わないかね?」
「おかしい……とは……?」
ユアンは青白く顔のままに、恐る恐ると云った様子で聞き返す。クレスは青年を責める訳でもなく淡々と答える。
「森に食べ物が無くなった……だから狼達は畑を襲ったのだろう。そして畑から食糧を奪い腹を満たした筈の狼は、何故――ここまで痩せ細っている?」
「それは…………」
ユアンは呻くような声を発した。
「森から食べ物が消える事など、普通は有り得ない。今までは森の中で生活していた獣が、村の食糧を奪い……しかしそれでも餓死寸前まで追い込まれている」
「その……この森に、何か異変が……?」
動揺と、焦りを滲ませた質問に対し、クレスは暫し黙考したあとに口を開く。
「いや、まだそうと決まった訳では無い。この一匹だけが群れから離れ、飢えていただけなのかも知れないからな」
その帰ってきた答えに、若者はホッとした表情を見せ――
「だが、本来群れで行動する筈の狼が一匹でいた……偶然かも知れんが、この森に何かあったと考えておいた方が良い」
続けられた英雄の言葉に、表情をひきつらせた。
クレスは立ち上がるとグルリと周囲を見渡し、おもむろに右手を掲げた。
そして、パチンッ――と静かな湖面を打ちつけたような、玉石を打ち合わせたような、そんな玲瓏たる音色が響き渡る。
それはまるで獣避けとして鳴らされる鐘の響きのように、遠く近く、高く低く、森の中へと浸透してゆく。
「フム……あちらか」
クレスは斜め前方へ視線を留め、そう呟く。そしてユアンは本日二度目のその光景に飽きることなく息を飲んだ。
【精霊術】――体内や大地、または周囲に漂う精霊の力、通称<マナ>を活用し行使される術を、総称して<精霊術>と呼ぶ。
たった今、クレスは発動させた精霊術は<反響定位>と呼ばれるものだ。それは体内のマナを外へと放ち、周囲一帯のマナの濃度や分布を探る術である。
クレスはそれを森に棲息する獣、その体内に宿るマナを探る為に使用している。だが、この術はあくまで初歩中の初歩と呼べる術式であり、さして驚くようなものでは無い。
自然には大なり小なりマナが満ちており、また体内にもマナは存在する。生まれてから直ぐに身近に存在するマナ、そのマナを活用する精霊術は、例えいくら才能が無いものでも、努力さえすれば初歩程度の術は行使出来てしまう。
ユアンが驚いたのは、本来獣の位置を探る事が出来る筈が無い、<反響定位>の術式にて、遠く離れた獣の位置を探っていると云う事だ。
しかも、正確に、である。
精霊術には本来、索敵に用いられる術式が存在した。
しかし何故かクレスはその術式を使用せずに、わざわざ初歩の精霊術にて獣の位置を探っている。だがその理由は、彼が吟遊詩人達によって広く語られている存在であるならば納得がゆく。
それはこの英雄と呼ばれしは騎士には、精霊術の才能が備わっておらず、皆無に等しいと云う衝撃の事実であった。
だがそれでも彼は大陸最強の騎士と呼ばれ、ありとあらゆる試合、そして全ての戦で負けた事がない。剣も、槍も、馬も――誰よりも巧みに操り、戦場では数多くの敵を打ち倒してきた。
才無き者、幼くして騎士となった少年は周囲からそう揶揄されながら、まさに血を吐くような努力を重ね、いつしか英雄と呼ばれ今に至る。
長き、永き、気の遠くなるような時間を、彼はまるで己自身を殺しかねない鍛練を重ね続けた。日々汗を流し、土や血に濡れた研鑽の果てに、クレス・スタンノートと云う英雄が生まれたのだ。
彼がそうまでして強くなろうと、強くあろうとした理由――それは、一人の女性を護り抜く為だと、広く語られている。
《Ⅴ》
血に染まった鏃が、向かい来る狼の後頭部から外気へとその姿を覗かせた。
正確に眉間を矢で貫かれ、刹那にその命が散らされる。
ユアンはただその光景を呆然と眺めていたが、突如として理由のない不安がひやりと背中を撫で回す。
息が詰まり、背筋に極低温の旋律が駆け巡るのを感じ、熱くも寒くもないが妙に冷たい汗が体中から噴き出した。
時は少し遡る。
狼の群れを見付けたクレスは、自然な動作で矢をつがえた。
その余りにも自然体な様子に、ユアンは一瞬目の前の人物が、何をしようとしているのかが分からなくなってしまった程だ。
そんな忘我の最中に、矢は放たれた。
五匹いた群れの一匹に矢は当たり、狼はそのまま地に伏した。そして残り四匹はこちらに気付くと、まるで風の様な速度で迅速に駆けてくる。
ユアンはその光景に全身が粟立つのを感じ、直ぐに腰の剣を抜き放った。だが、その胸の内の不安が消えることは無い。
一方――クレスは、淡々と矢をつがえ、放つ。
一矢一殺。
矢筒の中の弓矢が数を減らす度、狼達の命の灯火は掻き消されてゆく。最短距離を駆けてきた狼達は、瞬きのような時間で死に絶えた。
最後の一匹が眉間を貫かれた瞬間、ユアンは頭の片隅で目の前に展開された、非現実的な光景に納得していた。
それはひどく理に叶った、単純極まりない事なのだと。
最短距離で向かってくる狼を、順番に射殺してゆく。そこには危険の無い、単純な作業の繰り返し。だが、それを実現するにはどれ程の鍛練と、そしてどれ程の修羅場を経験しなくてはならないのか。
その考えに至ったとき、突如として猛烈な寒気に襲われた。
今目にした技の冴えと正確さは、正に達人の域だ。牙を剥き襲ってくる餓狼もこの英雄にしてみれば、赤子に等しき存在なのだろう。
それを証明するように、何匹もの狼の死骸が如実に物語っていた。
二人は獲物を求め、再び森の中を歩き出す。
ゆっくりと流れてゆく視界。幹は次第に年輪を重ねたものが増えてゆき、木肌は深みのある色彩が混りだす。疎らだった木々は、まるで二人の行く手を阻むよう枝葉を寄せ合い密集していた。
まだ夕闇が迫るには早いが、木々が手を繋ぐように空を覆い、ひんやりとした木下闇が周囲を漂う。
どうやら一行の足先は、森の中央へと向かっているようだ。
下生えがワサワサと生い茂った獣道。そんな道なき道を進んで行くと、ユアンが恐れを滲ませた声を絞り出す。
「スタンノート卿……あれは、一体……」
「どうやら…………あれが異変の元凶らしいな」
二人の視線の先には、一匹の獣の姿があった。
全身が赤黒い毛皮に覆われた大猪。毛皮の下は見るからに堅い肉の鎧を纏い、口の脇から生えた二本の尖角は緩やかな弧を描き天を突く。
鋼糸を寄り合わせたような全身の筋肉は、そのまま鉄壁の盾となり、更には敵を打ち砕く鎚となる。
背丈は成人男性の胸元程の大きさだが、その黒い塊は実視以上の巨躯なる印象を視るものに与えていた。
「アレは、この辺りに棲息するはずの無いものだ。恐らく、何処からかこの森に流れ着いたのだろう」
声を潜め、クレスはそう独白する。そして、その推測は見事に的中していた。
件の大猪は、最近になってこの森へと移り住んだ存在だ。
このラインラント平野の北に広がる大密林。そこには幾多の種類の獣が棲息し、この黒い大猪はその中の食物連鎖の上位に位置していた。
この森にも猪は棲息していたが、この黒い大猪とは比べるに価しないほどか弱い存在だ。種としては同じ様なものだが、そこには個体差の範疇に収まりきらないほどの歴然とした力の差があった。
その理由を一言で表すならば、産まれ育った<環境の違い>であろう。
精霊が漂う北の大森林。そこには見目麗しいエルフという種族や、森の民と呼ばれる部族、更には雑多な生き物が棲息している。
森の大気は澄み渡り、清純なマナに満ちていた。
そしてその満ち溢れるマナや周囲を漂う精霊達の恩恵によって、森の中には様々な変化が起こる。
精霊が居るだけで自然はより豊かになり、更にはそこで暮らす生き物にも同じことが言えるものだ。
黒い大猪、それは長年に渡り幾多の恩恵をその身に受け、特に大地を司るノームの加護を得た存在であった。
クレスは手の中に視線を落とす。ごく一般的な木材を使用したこの弓は、手入れ不足のためか張力に多少の不満があるものの、使用には問題無い。
だが、ノームの加護を得た獣が相手となれば話は別だ。鋼のような筋肉を纏うその身を貫き、更には致命傷を負わせる事など、いくらクレスの腕を持ってしても加護無き武具では困難を極める。
この手の相手は精霊術を使用して倒すのが定石であったが……そもそもな話、それは無理な相談だろう。村の一介の衛兵ごときに強力な精霊術を望める筈もない。
話すまでもないがクレスに至っては、最下級の精霊の召喚ですら、煙草などの補助具を使用しなくてはならない程のレベルでしかなかった。
状況としては完全に手詰まりだ。
だがそんな状況にも関わらず、その表情に焦りは見られ無い。クレスは肩に掛けていた矢筒を取り外すと、背後を振り返る。
「これを持っていてくれ」
更には弓をもユアンへと預けてしまった。呆けた表情で見返して来るのを気にせず、クレスはそのまま大猪に向かい歩き出す。
武器を持たず、無手のままに。その後ろ姿は、どこか散歩に行くような気楽さが感じられた。
ここで一つ、英雄の謎を紐解こう。
試合、戦を問わず、精霊術が戦闘や戦術の基盤にして中軸を担う世界に関わらず――何故、その才能無き者が最強の称号を授かっているのか?
荒れ狂う精霊術の破壊は大地を砕き、射ち交わされる無数の魔弾は岩さえ穿つ。
戦争とはまず、複数人の魔術師による大規模精霊術の撃ち合いに始まる。
それら大量破壊術式に対して、同時に防衛術式、阻害術式、対抗術式が発動される。
精霊術の撃ち合いが終われば、次は幻獣種や攻撃精霊を使役する中規模戦闘の喚起術式、召喚術式に移行する。
そして戦場に仕掛けられた設置型攻撃術式の解除や、自軍への支援術式と続いてゆく。最後に剣や槍と云った小規模戦闘へとなるのが必然と言えた。
だが、これは過去の話に過ぎない。
これら年々進化し続けた精霊術を行使した他国間の戦争の歴史は、一人の英雄の手によって灰燼に帰した。
精霊術が廃れた訳でもない。魔術師が居なくなった訳でもない。では何故――?
それは凡そ二十年程前の事。まだ幼さの残る青年騎士が戦場に立ったその日、戦場に一つの不文律が打ち出された。
『クレス・スタンノートに精霊術を行使する事なかれ』
グランスワール王国に接する隣国は、かの騎士が居る戦場に限り精霊術を行使を禁じた。
それらの原因は敵国が放った、たった一度の大規模精霊術にある。
空を覆う炎翼の天使、それが放たれた直後、攻撃を仕掛けたはずの敵国側が一瞬にして壊滅した。
戦場に吹き荒れる熱波に陽炎が揺らめき、皮膚は爛れ、眼球は弾け、物言わぬ屍となる。周囲は炭化して黒く焼け焦げた、夥しい数の死体が転がる地獄絵図。
その惨状を産み出した存在こそが、才無き者と苛まれてきたクレス・スタンノートであった。
パキッ――と、地に落ちていた枝が小気味の良い音を鳴らした。その音に反応し、大猪は素早く顔を向ける。
全身から発散する圧力と敵愾心。
一度身を震わせ、頸を竦め、全身を一つの砲丸と成す。琥珀色の二本の尖角が、零れ落ちた細い斜光を鈍く反射した。
ドンッ――!
それはまるで空気が爆発したと錯覚させる、黒き愚風と化した突進。
誇張では無く、現実にして地が揺れ、その振動は刻一刻と増してゆく。その光景は思わず、己の腹に二つの風穴が空くのを幻視させるであろう。
ユアンはハッと、無防備に歩みを止める事の無い英雄の背中へ視線を移す。
そしてクレス・スタンノートは、かつて数千の敵を焼き殺した、一つの術式を発動させた。
『万象に宿りし鋼の意思よ、我が意、我が言の葉を断魔の剣と成し、全ての障害を討ち滅ぼさん』
朗々と、低く紡がれた言魂。
第二楷梯術式――『霊装機甲』
右手を、まるで何かを求めるかのように虚空へと掲げる。その刹那、刀身の存在し無い、剣の柄のようなものがその手に握られた。
一瞬毎に鋳造されし、英雄の武器。
一呼吸分の時間が過ぎた。そこにはひたすら武骨で、装飾性の欠片も見あたらない、ただ敵を切り裂く為だけに存在する両刃の大剣があった。
刀身は黒と白のモノトーンに彩られ、その長さは成人男性の身の丈を優に越す。
そんな鉄塊のような代物を、英雄は右手一本で軽々と構えた。
全身から発散する、強大で氷のように冷たい重圧――だが、取り巻く気配は静謐。ゆったりと腰を落とし、空いた左手はユルユルと体の前へと固定される。
「フッ――」
呼気を吐き、全身の筋肉が引き絞られ――大剣が振り落とされた。
雷光が瞬くような刹那。黒で塗り潰された世界を左右に別つ、一筋の閃光のような斬撃。
一瞬遅れて、破砕音が周囲を駆け抜けた。
血が詰まった袋を割ったような、紅い噴水。断面から零れ落ちる臓腑。その二つに別たれた半身は、推進力を消失させ、静かに崩れ落つ。
噎せかえる程の血と獣の臭い。噴き出した血潮は局地的な雨を発生させ、飽和した水分は足元に血溜まりをつくる。
木々の高さまで跳ねた紅血が、まるで露に濡れた葉を伝うように、その一滴を地上へと落下させた。
だがその朱の滴はこの惨状を産み出した男の頬に当たり、そのままシャープな顎先へと伝ってゆく。
クレスは左手でそれを拭い、右の大剣で虚空を薙いだ。ピッ、と血糊が払われ、そのまま流れる動作で剣の柄を肩に置く。
そして、パチンッ――と、左手の指が打ち鳴らされた。
「フム――どうやら、まだ居るようだな」
そう呟き、パチャリとブーツが屍の間の血河を歩み、血に濡らす。
並みの人間ならば両手でなければ持てないような長大な剣を、右手だけで軽々と操る――そんな常人とはかけ離れた姿を、ユアンはただただ茫然自失といった様子で見遣る。
第二楷梯術式――『霊装機甲』
精霊術は生活に使用される術式を<一楷梯術式>とする。
戦闘等に使用される高度な術式で、その最高位のものを<十楷梯術式>とする中で、二楷梯術式の『霊装機甲』は初歩の術式と言えよう。
だが、精霊術の才能無きクレスが使える最も高位の術式であった。
その効果は、マナを武具に変えると云った単純なもの。
だが多大なマナを消費し、直ぐに消滅してしまう武具をわざわざ生み出すのは本来ならば非効率的であり、そんな事なら実在する武具を始めから装備していれば良いだけの話。
戦場でもよっぽどの事が無ければ使用される事がない――筈であった。
ここで特筆すべき点は、クレスは己のマナから生み出すだけでは飽き足らず、敵が放った攻撃術式ですら己の武具へと変えてしまうと云う事であった。
例え城塞を一撃で破壊する大規模精霊術も、数千の敵を焼き尽くす最高位術式であろうと、彼の手は全てを無に帰し、己の力へと化してしまう。
それのなんと、規格外な事か。
例えそれが防御術式だろうが、結界術式であろうが関係は無く、ありとあらゆるマナを己の武具へと変えてしまう。
無茶を通し、無理を通す、まるでそれが彼の存在意義であるかのように。
前代未聞で滑稽無形な、最強の騎士。
彼はありとあらゆる魔術師の天敵と呼べる存在であり、更には誰もが追い付けないほどの武勇を誇る英雄でもあった。
前代未聞――とは、実は語弊がある。
歴史を紐解けば、過去にただ一人だけクレスと同じ戦い方をした人物が存在した。
その者の名は、グランスワール・ファン=ゲオル。四百年前に幾多の部族が入り交じる広大なラインラント平野を統一し、グランスワール王国を築きし、【初代国王】。
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