月を堕とされた少年の話 【新暦2年】
その世界で、事実上『月が堕ちた』のは、後にも先にも一回きりである。
月は太陽と対になり、一日一度、交代でこの大地を照らす。それに基づけば一日一度は必ず地平線に月は沈むのだが、この言葉はそれを指すのではない。
旧暦一一九八年。新暦元年より四年遡ったその年、確かに『月が堕ちた』。一人の神の過ちと、一人の女の欲望により、空を渡る月神は地面に引きずり落とされ、力の源たる髪を切り落とされた。
太陽がどれだけ輝こうとも、一日の半分は完全なる闇に飲まれた。闇は人々の恐怖を逆撫で、希望を奪う。
闇夜の主が消えたその頃、闇に包まれた地上でもまた、激しい混乱を生み出す者がいた。
大陸の東端の国、フィアーセ。そこの女王、アリス・シルリアが巻き起こした大陸最大の戦争を、暗黒戦争という。
言葉は、希望の種だ。
僕が作ったのは、果てしない可能性を秘めたその種族が、可能性の芽を出すための、希望の種に過ぎなかった。
『言語』を司る神、フィーア。それが僕の名前だった。元々は人間という種族の守護神で、創造神のエリヤとトランドから与えられた言語の力を、彼らに与えるだけの存在だった。
人間という種族は変わっていて、千里を駆けるだけの丈夫な足も、敵を切り裂く鋭い爪も、体を守る丈夫な甲羅も彼らは持っていなかった。彼らが持っていたのは、器用な手と複雑な思考に耐えうる頭。
彼らは何も持っていなかったが、その代わり作り出すことができた。それは神をも驚かせるような発想の数々で、見ていて本当に飽きなかった。
それでも、人は弱い。あっけなく襲われ、あっけなく死ぬ。
そんな彼らに、僕は贈り物をした。僕の力を割いて、人間にも使えるようにした。
『言語』に力と意思を載せ、まるで神のように、自然を動かすことができる。
火を操り、風を呼び、水を知り、大地と生きる。何よりも自然に近い種族になれると、なると、思っていた。
それが過ちだと知ったのは、月が堕ちたその時だった。
月を堕としたのは人間だった。神の力をより求めた人間だった。彼女は月神の力を奪い、竜を操り、大陸を統べた。多くの人間が争って命を落とし、多くの生物がその戦に巻き込まれた。
信じることを諦めた。全てが間違いだと知った。僕は不相応な力を与えてしまったのだと。人はなによりも、欲に忠実な生き物なのだと。
僕は神の座を追われた。大地に落ち、森にひきこもり、全てから目を背けようとした。
『それでいいの?』と彼女が手を差し伸べるまで。
新暦二年、春。リア王国改めリストール王国で、新しい女王の即位式が行われると聞き、僕は彼女の招待に応じてフラフラと顔を出した。
風の精霊に力を貸してもらい、ひょいひょいと城壁を超え、今回の主役の元へと向かう。
「フィーア!」
「お久しぶりです、フェルシア」
中庭にいた彼女は、僕を見るなり抱きついて、そのままよしよしと頭を撫でてくる。背丈の問題上彼女の腕の中にすっぽりと収まってしまった僕は、懐かしさと不本意さで反応に困った。
別に彼女の背が高いわけではない。僕の姿が子供の姿をしているせいである。
「はぁ……癒されるわ……お久しぶり、フィーア」
「あのですね、一応僕は仮にも昔神だった者なんですが、それの頭を撫でたり抱きついたり……扱い酷くないですか?」
「今更じゃない。行き倒れたときは拾ってあげたし一緒に路銀集めしたり毒キノコ食べて腹痛に苦しんだり……苦難を共にした仲間じゃない。今更何の遠慮が必要なのよ」
いっそ清々しいまでの言葉に、僕は「そうですけどね」と苦笑する。実際、彼女が僕を『神』として扱うような女性であれば、僕は彼女とこんなにも打ち解けることはなかったと思う。
改めて、僕は彼女に向き直ると祝いの言葉を述べた。
「即位おめでとうごさいます。それと、ご婚姻もおめでとう」
「ありがとう。……なんか、改めて言われるとちょっと恥ずかしいわね」
くすり、とフェルシアは照れたような笑みを浮かべた。まるで子供のように大口をあけて笑っていた頃とはずいぶん違う様子。
彼女もまた成長し、大人の女性になっているのだということに、不思議な感慨を受けた。
フェルシア・リア・ドレイン――今は無きリア王国の第四王女。別名『戦華姫』と呼ばれる彼女は、暗黒時代を終わりに導いた立役者だ。僕と出会った頃はまだ十五歳、落城の際に川に落ち、従者のグレイと一緒に濡れ鼠になって僕の住む森に転がり込んできた。その時は王族の威厳なんて欠片も持ち合わせていない、どこまでも真っ直ぐなただの少女だった。
そんな少女が、ほとんどの貴族にすら忘れ去られた庶子の王女が、よもや大陸を救うような人間になると、誰が予想していただろうか。
彼女はフィアーセの急襲により崩壊していた祖国を纏め上げ、植民地となっていたフィアーセ西側のデルタ諸国を味方につけ、さらにフィアーセの王都でアリスのやり方に反対し続けていた第一王子セドム・シルリアと共に、アリスを討った。
数で言えば反乱軍はフィアーセ王国軍の十倍はいただろう。しかし、それだけ集めなければ反乱軍に勝ち目はなかった。アリスは神の力を得た者であり、彼女が扱う手駒は人知を超えた力を持つ――極めつけに、彼女は世界に七匹しかいない神竜まで手駒に加えていたのだから。
こんなところで一人で居ていいのか、と問うと、彼女は「今は手が空いてるから」と笑った。
「それよりも、出かけるんだって?」
「えぇ。精霊王が後始末したという魔術師達の封印を確認しがてら、大陸中を廻ってくるつもりです」
「そう。じゃあ長い旅になるわねぇ」
ふぅ、と彼女は小さくため息をつく。そんな彼女に、僕は最後に伝えるべき言葉を吐いた。
「あなたのおかげで、僕の世界は変わりました」
僕の言葉に、彼女は一瞬キョトンとした顔をする。
「え?何いきなり」
「あなたが僕を森から引っ張り出してくれたから、僕はもう一度人間を信じられるようになったし、世界が好きになったんですよ。……だから、お礼として、あなたの願いを一つだけ叶えてあげます」
中庭のテーブルに腰掛け、にこり、と笑みを浮かべる。反対側に座るフェルシアは、悩ましげにその細い指先を口元に宛てた。
陽光のように眩い金の髪が風に揺れ、サラサラと流れる。細められた空色の瞳。艶やかな紅色の唇と、うっすら色づいたバラ色の頬。
おそらくこの姿も、もう見ることはない。この国に再び帰ってくる頃には、人の寿命などとうに燃え尽きた後であろうから。
たっぷりと悩んだ後、彼女は顔を上げた。
「フィーア、最後まで人間を見捨てないであげて」
「はい?」
「フィーアはこれからもずっとずっと、私たちの行く末を見ていけるでしょ。私が死んでも、私の子供が、孫が、この大地の上で過ごしていくのよね。その時、もし人間がまた道を違えたら、元に戻る手助けをしてあげて欲しいの。あと、フィーアにはずっと人間を好きでいて欲しい。……私の、今世紀最大のわがまま。無理?」
僕は一瞬絶句して、それから吹き出した。――あぁ、これだから彼女は。
「いいですよ。その願い、聞き届けました。僕の命尽きるまで、僕は人間を愛し、導きます」
それは、僕がそうありたいと漠然に考えていたことを、はっきりと形にしたものだった。
僕は最後に彼女の手を取って、軽く口づけた。人間流の親愛の証。
「さようなら、フェルシア。これからもお元気で」
「さよならじゃなくて、行ってきますって言ってよ。もう会えないみたいじゃない」
「分かってるでしょうに」
それでも気分の問題よ、と唇を尖らせるので、僕は苦笑して「行ってきます」と言い直した。
彼女は笑う。僕の大好きな柔らかな笑みを浮かべて。
「行ってらっしゃい、フィーア」
そして僕は旅立つ。長い長い旅に。
キャラクター紹介をつけてみました。シリーズ共通のものです。参考にどうぞ。