猫の置物の思い出の話
背徳の館フェリシルローゼ。
そこでは代償さえ支払えば手に入らない物はないという。
口に出すのも憚られるほど悪評しか語られない。
しかし、上流階級の人ならば誰しも足を踏み入れる事を望む裏社会の象徴である。
私の主である睡湖はそこの常連である。
私自身は睡湖が道端で気まぐれに拾ったものにすぎないけれど、何故か気に入っているらしく、自身の仕事の雑務を仕事として与えてくれたり、色々な場所に伴ってつれていってくれる。
そのため、睡湖についてフェリシルローゼには割と頻繁に訪れている。
睡湖と一緒にいて垣間見る光の差さない暗黒の世界、その最たる物がこの館だと思う。
トントンと丁寧なノックの後、扉越しに睡湖の声が聞こえた。
「胤麗、この手紙をデイオラールに届けてくれないか?」
扉を開くと、睡湖がいつものように背筋が凍るような美しい笑みを浮かべ、手紙を差し出して立っていた。
頷いて手紙を受け取る。綺麗な睡蓮の花の封印が押された真っ白の封筒。
睡蓮は睡湖の紋である。
こうして印を押しているというのは正式な連絡の手紙なのだろう。
宛名はデイオラール・ド・フェリシルローゼ、つまりフェリシルローゼの館の主の正式名称になっている。
どんな内容かは全く想像がつかないけれど、きっと知らない方が幸せだろう。
「わかった。行ってきます」
私はそう返事をすると、外套を羽織り外に出た。
玄関には既に馬車が待機していた。
睡湖の御者をしているヌヴィーが待っていて、馬車の扉を開けてくれた。
馬車に乗り込むと直ぐに馬車は動き出した。
ヌヴィーは本当は睡湖の為にしか働かないのだが、今回は何が起こってもおかしくはないフェリシルローゼに行くということでわざわざ彼が送迎をしてくれたのだろう。
しかし、その事すら不安を煽る。
何処を走ってるのかは全くわからなかったが、暫くして館に着いた。
ヌヴィーがまた扉を開く。封
筒を握り閉めながら馬車を降りると、ヌヴィーは戻ってくるまでここに居ると告げてまた御者の席に戻った。
館の入り口にはシャルロッテが立っていた。
シャルロッテはデイオラールの秘書とも愛人とも言われている、フェリシルローゼを実際に取り仕切っている謎めいた美女である。
デイオラールは館の主として契約など大きな仕事をこなしているのだが、シャルロッテは館で出す料理の食器の種類から掃除婦の素性まで館の全ての事情を把握している。
私はデイオラールと彼女の本当の関係は知らないけれども、会う度に睡湖の使いでしかない私に小さい香水の瓶をくれたり美味しい紅茶をだしてもてなし、髪を結わえたりたわいない話をしてくれる彼女のことはとても好いている。
「ようこそ、胤麗。睡湖からの手紙を持ってきてくれたのでしょう。ディオが待っているわ」
そうして手を引いてデイオラールの書斎へ連れて行ってくれた。
シャルロッテの手はこの館にはきっと相応しくないであろう柔らかさと温かさを持っていて、少しだけ、安心した。
デイオラールとは睡湖と一緒のときには何度も会ったことがある。
睡湖と談笑しているときは一見して、好青年あるいは貴族の青年実業家といった風体である。
こんな館を取り仕切る主には決して見えない。
しかし、仕事の話の合間に見せる目があまりに鋭く睡湖と同類なんだと実感させられる。
それにこの館は大分前からあるはずだから、きっとそんな若いわけでは無いと思う。
デイオラールの素性を知りたいなどと思ったら恐らくいつの間にか消されてしまうだろう。
だからこの事は深く考えない方がいい。
知る事より知らぬ事の方がうまく生きていける。
そんなことをぼんやりと考えている間に書斎の前についた。
「中にディオが居るわ」
そう言ってシャルロッテは書斎の扉を開いて中に私を押し込むと扉を閉めてどこかに行ってしまった。
仕方なく前に進む。
大きな机の向こうに、書類を作っている最中であろうデイオラールが座っていた。
デイオラールはペンを置くと顔を上げて私の方を向いた。
「ようこそ、胤麗。睡湖からの手紙を持ってきたのだろう?待っていたんだ」
バリトンの声を響かせ、デイオラールは言った。
私は急いで封筒を手渡した。
「ありがとう」
受け取ると、デイオラールは封を開け、便せんを読み始めた。
私は手持ちぶたさになり、周りを見渡した。
書架には沢山の本があり、壁には綺麗な絵が飾ってある。
しかし何より気になったのは硝子の戸棚に置かれた水晶細工だった。
動物や花を模った水晶。
光を反射しきらきらと七色に輝いている。
宝石の様な高価なものではなく、こういうものが置かれているのが凄く意外に思えた。
よく考えてみると、デイオラールと二人きりになるのは初めてだ。
そして書斎でこんな風に待つのも初めてである。
「ふう、やはり駄目っだったか」
手紙を読み終えたデイオラールは溜息をついて机に置いた。
私は急いで視線をデイオラールに戻すと、彼は困った様な表情をしながらも手紙を仕舞い先ほどの仕事の続きに取りかかり始めた。
「胤麗、僕は仕事があるけれど、君はお茶でも飲んでゆっくりしていってくれ」
デイオラールがそう言ったとき、扉が開いてシャルロッテが紅茶とお菓子を盆に載せて入ってきた。
ヌヴィーの事を思い出し長居は出来ないと思ったのだが、デイオラールが強く勧め、ついにはヌヴィーにも少し待っているようシャルロッテに頼みに行かせてしまったので、結局紅茶のお代わりまで堪能してしまった。
帰り際、シャルロッテがお菓子の残りを包んでくれているの待っていると、休憩に入ったらしいデイオラールが先ほど見ていた硝子の戸棚の前に立ち、私を呼んだ。
何だろうと思い近づくと、彼はこう言った。
「気に入った物をあげよう」
驚いた私は思わず彼を見上げた。デイオラールは好青年の笑みを浮かべながらこう続けた。
「実はね、睡湖に君をくれないかと言ったんだ」
ますます驚いた私はきっと目がまん丸だったに違いない。
心のどこかではそうして捨てられる可能性というのは常にあるけれど、やはり突然そう言われると驚いてしまう。
そんな私を見ながら彼は言う。
「でもね、駄目だってさ」
その言葉に一番驚いた。
睡湖がデイオラールの話を断るということも珍しい。
何せ睡湖は面白いことが好きで、デイオラールの持ってくる話はいつも面白いのだ。
しかし何よりも驚いたのは私をあげることを断ったということだ。
きっと直ぐに手放されると思っているし、それは悲しいけれど当然の事だ。
飽きっぽい睡湖の事だから、気まぐれに拾った私はいつ捨てられてもおかしくない。
それなのに断った。
そのことは嬉しいと言うより何より驚愕としか思えない。
「君にその返事の手紙を持たせたり、ヌヴィーに送らせたのは単なる嫌がらせだろうね。
まあ、とにかく僕とシャルは君を気に入っているんだ。それで君がずっと見ていたのでこの水晶細工をあげたいなと思ったのさ。
特に意味のない好意だ。好きなのをもらってくれ」
どうしようと思ったけれど、何となくもらっておかないと帰れない気がして、小さな猫の形をした細工を手に取った。
「…ありがとう」
お礼を言うとデイオラールは笑った。
「どういたしまして」
そこへシャルロッテが戻ってきた。
「胤麗、是非睡湖と一緒に食べてね」
包まれたお菓子は先刻の残りより増えている気がする。
もう、どうでもいいやと思い至って、二人にお礼を言って帰ることにした。
入り口まで二人に見送られ館を出るとそこにはヌヴィーが待っていて、行きと同じように馬車に乗り込むと馬車は睡湖の屋敷に向けて走り出した。
「ヌヴィー、待たせてごめん」
そういうとヌヴィーは振り向くことなく言った。
「胤麗様は帰ってきてくだされば其れでよいのです」
暫くして睡湖の館に着いた。
馬車から飛び降り、館の扉を開ける。
一目散に睡湖の書斎に行きノックした。
部屋の中にはデイオラールと同じで仕事中の睡湖がいたが、私に目をやると仕事の手を休めた。
「ただいま、睡湖。手紙渡したよ。これシャルロッテからのお土産」
睡湖にお菓子を手渡す。
その時お菓子を入れていた鞄の小さなポケットに入れていた猫の置物を目敏く睡湖が見つけた。
「それは?」
訪ねられ、仕方なく答えた。
「デイオラールがくれた。あげるって」
そして取り出して見せる。この部屋でもきらきらと猫は光っている。
「見せて」
睡湖が私の手から猫を奪う。
あっと言うまもなく、猫は床に落とされ粉々になった。
その破片は方々にちり、床の上でも七色に光り星空のように見えて綺麗だった。
何故か自然と溜息がでた。私はそのままくるりと踵を返し部屋に戻った。
三日後、金剛石の目をした銀色の仔猫の置物を睡湖がくれた。
その子は今も私の部屋に居る。