雨のうた
耳朶を叩くざあざあという音に唇を引き結ぶ。雨の日には今でも震えが走る。
小学三年生の下校時だったと思う。段々と夏の気配が強まっていく空気がぬるりと肌を詰り、雨音が鼓膜で跳ねまわる日だった。
大粒の雨が石畳の通学路に漣を立てる。少し先で神社の参道に通じる道に、自分以外に人影はない。空気が薄く霞んでいる。ハーフパンツの裾が億劫気に膝を撫でる。傘の露先から滴る雨粒と、ごつごつとした路面から不規則に跳ね返る水滴が混じり、黄色い長靴の上を滑った。
わざと水溜まりに飛び込んで燥ぐ程子供でも、植え込みの大きな紫陽花の青に目を細める程大人でもなかった。黄色い傘の小間から、むくむくと積み重なった雲が作る青灰色のマーブルが覗く。
何の気なしに転がっていた石を蹴り、憶えたてのアイドルの新曲を歌った。雨の日に恋人を迎えに行き相合傘で帰る、そんな他愛もない歌だ。
霞に自分の声が吸い込まれる。音楽教室で歌の上手さよりも絶賛された、その声が。長靴がぴしゃぴしゃと水を跳ね上げる音が傘の内に跳ねる。ゼリーに包まれたような籠った振動に、知らず、歌声は大きくなっていた。
丁度、小さな神社に差し掛かった辺りだ。
細い風が頬に触れた。無意識に目が空気の流れを追う。足が止まる。目線の先、鳥居の奥の雲に亀裂が走っていた。罅の向こうに、祖父の家で見た、黴臭い屋根裏部屋の天井の染みに似た色が覗く。
「こえあり」
ねっとりと耳を這うような声がした。ぬるい風が髪をさわさわと弄る。辺りを見回す。雨音を聞き違えたのだろうかと思った……思い込もうとした。
「ことほげ。じうをたたえ、うたえ」
馴染みのない響きは、最後の「うたえ」だけが意味をなした。床に落とした卵の白身が広がるような声に身震いする。握りしめた傘の柄に出来たささくれの一つが、掌をぷつん、と刺した。
「つづきを」
促され、喉が引き攣る。空気が纏わりつく。耳鳴りのような雨音を掻き分け、鼓膜をぞろりと弄る声。
「つづきを」
苛立ちが伝わる。強張った頬に傘から水滴が跳ねた弾みで、喉が突き上げられた。引き伸ばした古いゴム紐を弾いたような声で、ワンコーラスを歌う。
「もっと」
催促が続く。請われるまま、セカンドコーラスを重ねる。
「もっと」
満足気な声に喉が緩む。Cメロの雨音に踊るラップ。
「もっと」
水滴が路面を叩くリズムに、段々と頭の芯がぼやける。大サビを歌う。
「もっと」
一曲歌い終えてしまったのに。また頭から歌えと言う事だろうか。それとも、別の曲にするべきだろうか。何を歌えばいいのだろう。少し考え、先程と同じアイドルの別の曲を歌うことにした。さっきよりも丁寧に、雨上がりの空と虹を描いた、透き通るメロディラインを――なのに。
ワンコーラス歌いきる前に、
「つまらん」
参道から、水を張ったまま何年も放っておかれた水槽のような臭いが吹き付ける。顔を背けようとして出来なかった。鳥居の奥、空中で雨が不自然に跳ねていた。プラスチックの筒の上からシャワーでも掛けたみたいに、水滴を纏う太い透明な帯が鳥居の下を滑り抜ける。
本当に恐ろしい時は、悲鳴も上げられないのだと知った。傘を放り出し、萎えそうな足を必死に動かす。不自然な雨音が迫る。
首が、がくん、と撓り、視界が激しくぶれた。
ランドセルが後ろに引っ張られ、水浸しの石畳に尻もちをつく。石畳に跳ねる雨音と苔の臭い。四つ這いで手足を動かす。剥き出しの膝が石畳に抉れ、掌に小石が食い込む。構わない。兎に角逃げなくては。
生温い密度が身体に巻きつき、締め上げられた。目に映らないそれの表面を雨が滑る。立ち込める臭気が鼻の奥をふさぐ。苦しい。足がばたばたと石畳と何も無い空中を蹴る。
どれくらいそうしていたか、気付けば身体は自由を取り戻していた。へたり込んだまま荒れた息で振り返る。電柱の向こうで、さっき放り出した傘が濡れた石畳に黄色を映している。泥水を吸って身体に張り付いた服に、髪から滴る水が薄く膜を張った。
いつの間にか、雨は止んでいた。
あれ以来、雨の日に歌うのを止めた。防音の効いた室内だろうが、音楽の授業で先生に注意されようが構わなかった。勿論、音楽教室も辞めた。締め上げられる苦しさと、身体の内側に腐敗を植え付けるような臭いを思い出す度に息がつまった。
あの後、図書室で借りた児童向けの郷土史で、こんな一節を見つけた。
昔から、この辺りで雨の日に歌を歌ってはいけないという言い伝えがあった、と。特に、雨を楽しむような歌は。それ以上詳しいことは書いていなかった。今では誰も守っていない言い伝えだ。辞典で「声あり」の意味を知った。あれは「いい声だ」と言っていたのだ。それから、「寿げ」「慈雨」「讃え」の意味も。
あの日から、一人で歩くざあざあ降りの雨の日に、自分の足音に別の音が重なるようになった。雨粒が地面に落ちる前に空中で弾かれ、向きを変える。他の粒にぶつかり、たたっ、ぴしゃ……と。
「もっと」
と、厭らしい声が耳元で催促する。私の声は、あの何者かに余程気に入られたらしい。すっかり声変わりをした今でも強請って来る声はいつまで続くのか。
怖かった。とても。
言葉の意味を知ってから、芽吹いたものがあったから。
自分の声がどれほど人ならざる者の心を捉えたのか。アレが、己以外に向けられた歌を赦せなかった程に。そう考えるだけで。尾骶骨から項に向けて、背骨の突起の一つ一つに生温い舌で唾液をまぶされるようなじれったさ。身体中の産毛を撫でる薄い痺れ。腑を吐息が滑る。あの日の雲間の向こうに見えた色の芽は、じりじりと、でも、確実に昏がりに根を張っていた。
乱したい。この声でアレを、悦びで、怒りで、痛みで嬲って。汚らしい臭いを、空から張り巡らされた水滴の網に捉えて。「もっと聴かせてくれ」と、「もう赦してくれ」と懇願させ、冷えた石畳の硬度にのたうち回らせたい。
今日も傘を広げ歩き出す。込み上げる熾火色を呑み込み、注意深く、唇を引き結んで。
堆積し続けた雨は、きっともう、喉の下まで迫っている。




