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第8章:命は金に換えられぬ、だが命を救うには金が要る(医療経済)

 「山の呪い」の正体が、蚊という媒介者が「毒」を注ぎ込む病であると証明されてから、グレンデールの街は異様な熱気に包まれていた。だがそれは、死の恐怖によるものではない。街に脅威を与え続けてきた「淀み」を排除しようとする、再生の熱気だった。


 代官クオールの命により、街中のドブさらいと、湿地の埋め立てが始まった。アルフレッドは、かつて剣を握った手で、今は泥まみれのスコップを握っている。

「カメリア、そっちはどうだ?」

 堤防の上で作業を指揮していたカメリアが、額の汗を拭いながら振り返った。

「最悪よ。このあたりの排水溝、百年は手入れされてないわ。淀んだ水の底に、ボウフラが星の数ほどひしめいている。……これ一箇所を埋めるだけで、何万という死神の種を葬れる。そう思うと、手が止まらないわね」


 かつて病人の枕元で薬草を練っていた彼女は、今や「街全体の循環」を管理する指揮官となっていた。そして、医学は個人の病を治すことにとどまらず、社会そのものの構造を変える『公衆衛生』に拡大した。アルフレッドは、この泥まみれの土木作業こそが、この時代における最大かつ最高の手術なのだと確信していた。


 しかし、その「手術」には莫大な費用が必要だった。資材の調達、人件費、そして全世帯への蚊帳の配布。代官館の金庫は、すでに底を突きかけていた。


「――代官様、正気ですか! これ以上の拠出は、グレンデールの商業を殺すことになりますぞ!」


 代官館の広間。この地の経済を牛耳る「グレンデール商会連合」の面々が、クオールを囲んで激しい抗議を浴びせていた。彼らにとって、目に見えない「未来の予防」のために今ある「黄金」を差し出すことは、到底受け入れがたい暴挙だった。


「蚊を殺すために、商会の利益を差し出せというのか? 排水路を整えたところで、明日売る絹織物が増えるわけでもあるまいに」

 首領格の商人が鼻で笑う。

「そもそも、病で死ぬのは運の問題だ。欠けた人員は余所者で埋めればいい。それが経済というものです」


 広間に冷たい沈黙が流れた。アルフレッドの拳が怒りで震える。だが、その沈黙を切り裂いたのは、怒声ではなく、乾いたアバカスの音だった。


 カチ、カチ、カチ……。


 ブルーノが、一束の分厚い方眼紙を持って歩み出た。

「……素晴らしい。実に『経済的』な考え方だ、諸君」

 ブルーノの目は、いつになく冷たく、そして鋭く光っていた。

「ならば、感情論は抜きにしよう。お前たちが大好きな『損得勘定』で話をしようじゃないか」


 ブルーノは一枚の巨大な表を机に広げた。そこには、過去十年の死者の数と、その死によって失われた「労働力と富」の推計が、残酷なほど詳細に書き込まれていた。


「いいか。昨年死んだ石切り工の若者。彼はあと三十年は働けた。彼が一生の間に生み出したはずの価値、市場で消費したはずの食料。……さらに、熱病で機能が停止した工房の損失。それらをすべて合算し、グレンデール全土で計算すると、この数字になる」


 ブルーノが最後のアバカスの珠を弾いた。提示された数字を見た商人たちの顔色が変わった。それは、クオールが要求している予算の十倍を超える巨額だった。


「お前たちが『運だ』と言って放置しているこの病は、お前たちの財布から、毎年これだけの黄金を盗み続けている。……今、工事に投資してこの損失を断つか、このまま毎年黄金をドブに捨て続けるか。どちらが『賢い商人』の選択か、算盤が弾けないわけではないだろう?」


 ブルーノが突きつけたのは、現代で言うところの「費用対効果分析(Cost-Effectiveness Analysis)」であった。命を黄金に換算する。その不謹慎なまでの冷徹さが、かえって商人たちの「共通言語」となったのだ。


「……だが、ブルーノ殿。その計算は、工事が『完全に成功する』ことが前提だ。もし失敗すれば、我々の投資は無駄になる」

 商人の一人が食い下がる。それに対し、アルフレッドが先日の「無作為化比較試験」の結果を記した羊皮紙を差し出した。


「これは予測(ギャンブル)じゃない。確定した利回り(リターン)だ。対策を施した家での死者はゼロ、施さなかった家では二十八人の発症。……あんたたちがいつも投資先を選ぶ時に見ている『確実な証拠』そのものだろう?」


 商人たちは顔を見合わせた。もはやこれは修道士の説教ではない。極めて精度の高い、しかも確実な「事業提案」であった。


 代官クオールが、最後に重々しく口を開いた。

「諸君。私は代官として、この街の未来を買い取る決断をした。……諸君が資金を拠出するなら、完成した排水路の利権、および周辺の未開地の開発優先権を与えよう。これは寄付ではない。グレンデールという街の将来を書き換えるための、共同投資だ」


 数分後。首領格の商人が、重い溜息とともに印章を取り出した。

「……負けましたよ。修道士殿のアバカスには、神だけでなく、悪魔の守銭奴すら宿っているらしい」


 それから、三年が経った。

 夏の盛り。かつてなら死の羽音が響き、葬列が絶えなかったグレンデールの街は、いま、驚くほど静かで活気に満ちていた。


 アルフレッドは、カメリアと共に整備された運河のほとりを歩いていた。水は淀みなく流れ、石造りの堤防の上では、子供たちが元気に走り回っている。

「アル、見て。あの子たちの足、虫刺されの跡一つないわ」

 カメリアが微笑む。今や街の「公衆衛生」を司る彼女の手には、一人一人の患者の診療記録ではなく、街の衛生状態を記した月次報告書が握られていた。


 調査本部の部屋では、ブルーノが最後のアバカスの珠を弾いていた。

「……今月の新規発症者、ゼロ。死亡者、ゼロ」

 ブルーノはそう書き留めると、真っ白になった帳面をゆっくりと閉じた。


「……終わったな、アルフレッド」

 背後に立った友に、ブルーノは椅子を回した。

「ああ。街から病気が消えた。……いや、違うな。俺たちが『消した』んだ」


 アルフレッドは窓の外を見つめた。人々は、かつての「山の呪い」のことなど、すでに忘れかけている。当たり前のように夏を過ごし、当たり前のように明日を計画している。

「誰も俺たちの功績を称えはしないだろうな」

「それでいい。公衆衛生が成功したとき、そこには『何も起きない』からな」

 ブルーノが自嘲気味に笑う。


 魔法も、奇跡も、顕微鏡もなかった。

 ただ、不屈の観察眼と、冷徹な統計学。そして命の価値を信じる勇気。それだけで、彼らは死神を退けたのだ。


 夏の風が、整備された街を吹き抜けていく。淀みのない水面に反射する陽光は、人類が知性という剣で切り拓いた、新しい時代の夜明けのように輝いていた。


(完)


【幕間:天界の観測所にて】


 神A (正装した疫学者の神):

「完結、だな。公衆衛生と医療経済。この二つが噛み合ったとき、医学は『個人の治療』を超えて『文明の防御機構』に進化する。アルフレッドたちが示したのは、まさに近代の夜明けそのものだ」


 神B (どこか誇らしげに、静かに拍手する神):

「ねえ、人々は彼らのことを忘れちゃうのかな? あんなに頑張ったのに」


 神A:

「それでいいんだ。システムが完璧に動いているときには、誰もその存在を意識しない。『当たり前の平和』こそが、データと論理が勝ち取れる最高の報酬なんだから」


 神B:

「……『何も起きないこと』が、一番の幸せなんだね」


 神A:

「ああ。……さて、彼らの物語はここで一旦幕引きだ。だが、SOAP形式で綴られたあの記録は、後の世の医学者たちにとっての聖典となるだろう。……さあ、次の世界に『未知のデータ』を探しに行こうか」


【全編読了、お疲れ様でした!】

統計学と疫学のほんのさわりですが、18世紀をモデルに描きました。


この物語を通じて、p値、交絡因子、RCT、公衆衛生といった概念が、単なる用語ではなく「命を救うための武器」として読者の心に残れば幸いです。

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