第7章:真実を解き明かすクジ引き(RCT:冷徹な試験場)
「蚊帳を張れ。水溜まりを埋めろ。夕刻には煙を焚け」
アルフレッドたちの訴えは、ようやく街の人々に受け入れられ始めていた。だが、現実は残酷だった。グレンデール地方の経済は数年の凶作と疫病で疲弊しており、全世帯を覆うための防虫網(蚊帳)も、特殊な薬草香も、決定的に不足していたのだ。
「代官様、予備の網はこれだけです。街の全世帯の、せいぜい半分を覆うのが限界です」
アルフレッドが提示した在庫目録を、クオール代官は苦々しく見つめた。
「半分か。……残りの半分は、これまで通り死神の羽音に怯えて暮らせと言うのか」
重苦しい沈黙が流れる中、ブルーノが静かに、しかし鉄のような響きを持つ声で口を開いた。
「……ならば、その『半分』を、我々の最後にして最強の証明に使わせてください」
アルフレッドはブルーノを凝視した。その瞳の奥にある、氷のような決意を読み取ったからだ。
「ブルーノ、まさか……」
「そうだ。誰に網を配り、誰に配らないか。それを、我々の恣意ではなく、純粋な『偶然』に委ねる。――無作為化だ」
「狂気だぞ!」アルフレッドは机を叩いた。「助かる命をクジで選ぶというのか!」
「アルフレッド、聞け」ブルーノは一歩も引かなかった。「今、中途半端に全員へ薄く対策を施せば、結果もボヤける。そうなれば、本国の重臣どもに『巨額の投資をして排水路を整備せよ』と説得する根拠を失う。今、目の前の半分を『対照群』として捧げることで、未来の数百万人が救われる鉄の証拠が得られるんだ」
翌朝、広場には二つの大きな木箱が置かれた。一つには全世帯の名が書かれた木札が、もう一つには「白」と「赤」の石が同数ずつ入っている。
「これから、クジを引く! 白を引いた家には、防虫網と燻煙材を至急配備する。赤を引いた家には……申し訳ないが、これまで通りの生活を続けてもらう!」
アルフレッドの声が震える。村人たちは騒然となった。
「不公平だ! 具合の悪いやつがいる家から優先して配れ!」
一人の男が叫んだ。だが、カメリアがそれを制した。その瞳には涙が溜まっていた。
「……ダメなの。重症者がいる家だけに配れば、後で結果を見たときに『もともと重症だったから死んだのか、網に効果がなかったから死んだのか』が分からなくなるわ。……私たちが知りたいのは、網そのものに、どれだけの『命の重さ』があるか。そのためには、運不運さえも均一に散らさなきゃいけないの」
カメリアの言葉は、薬師としての魂を削る断腸の思いだった。目の前の患者に手を差し伸べない苦痛。それはアルフレッドが剣で斬られるよりも深い傷を、彼女の心に刻んでいた。
クジ引きは無情に行われた。白を引いて歓喜する者、赤を引いてアルフレッドを罵倒する者。
仲良く暮らしていた隣り同士の家が、赤と白に分かれた。そして、赤の家から犠牲者が出た。
ブルーノは、その光景を直視しなかった。彼は窓を閉め切り、毎日届けられる報告を、無機質な数字としてアバカスに叩き込み続けた。
一ヶ月後。ブルーノは、完成した一枚の紙を二人に突きつけた。
「……結果だ」
そこには、残酷なほど鮮明な境界線が引かれていた。
* 対策群(白の石): 新規発症者 3名、死者 0名。
* 対照群(赤の石): 新規発症者 28名、死者 11名。
「見たか。これが命と引き換えに得られた、真実だ」
ブルーノの声は、勝利の喜びよりも、深い疲労に満ちていた。
「赤の石を引いた家の11人は、我々が、いや、俺が殺したも同然だ。……だが、これで本国のどんなに愚かな大臣でも、認めざるを得ない証拠が完成した」
翌朝、クオール代官はブルーノの報告書を手に、本国から派遣された視察団の前に立った。
「諸君。これが、我々が支払った犠牲の対価だ」
クオールは、28名対3名という数字を、黄金の冠よりも重々しく突きつけた。
「反対する者は、この数字以上に納得のいく理屈を持ってこい。できぬのなら、直ちに全予算を排水路整備と防疫へ投入せよ!」
本国の役人たちは、ブルーノが導き出した「偶然が介入する余地のない圧倒的な事実」を前に、沈黙するしかなかった。
その夜、アルフレッドは対照群に割り振られていたすべての家を回り、余った資材を配り歩いた。「すまない」と頭を下げるアルフレッドに、生き残った村人たちは複雑な、しかし感謝の混じった表情で網を受け取った。
テラスで、三人は街を見下ろした。
「……あの子たち、救われたかな」カメリアが呟いた。
「ああ。多くの犠牲を払ったが、もう『誰を救うか』でクジを引く必要はない」
ブルーノは背後で、最後のアバカスの珠を弾いた。
「……次は、金の話だ。この数字を使って、守銭奴の商人たちから軍資金を毟り取ってやる。アルフレッド、カメリア。最後の戦いだぞ」
【幕間:天界の観測所にて】
神A(神妙な面持ちの神):
「やり遂げたな。RCT(無作為化比較対照試験)。現代医学において『黄金律』と呼ばれるこの手法は、まさにブルーノが言った通り、科学のために誰かを一時的に対照群に置くという、強烈な倫理的ジレンマを孕んでいるんだ」
神B(涙を拭きながら):
「見てて辛かった……。でも、確かに『情』で配る家を決めていたら、バルタザールみたいな連中に『もともと健康な奴に配っただけだろ』って言い訳を許してたかもしれないんだよね」
神A:
「その通り。感情を殺して数字を見る。それが、結果として最も多くの人を救う唯一の道なんだ。その数字は、尊い犠牲の上に得られたってことだ」
神B:
「次は、その数字を使ってお金を集めるんだね。命を金に換算するなんて、また荒れそうだけど……」
神A:
「ああ。だが、それこそが医療経済学。夢物語を現実に着地させるための、最も泥臭くて、最も必要なステップだ。……最終話、グレンデールの未来を決める交渉が始まるぞ」




