第6章:特効薬はない、ならば予防だ(公衆衛生)
「運び屋」を特定した。それと並行して、病に倒れた人々の救命という、医学本来の模索も続いていた。
カメリアは『医学全書』に記された古今の処方をすべてを拾い上げ、薬草の組成を変え、考え得る限りの組み合わせを試した。しかし、その献身的な努力は一向に報われなかった。
「……ダメよ。どれも、死神の歩みを止めることはできない」
カメリアは、空になった薬瓶の並ぶ棚に、力なく頭を預けた。
一度「運び屋」に毒を注入され、高熱を発した患者を劇的に救う手段は、この時代の知識のどこを探しても存在しなかったのだ。
深夜の調査本部の一室。三人の間には、重く、粘りつくような沈黙が流れていた。
「バルタザールの瀉血よりはましだ。だが……」アルフレッドが声を絞り出す。「今日、新たに三人が発症した。俺たちが手を尽くして看病しても、そのうちの一人は、明日の朝を迎えられないだろう。……医学とは、これほどまでに無力なのか?」
ブルーノは無言でアバカスの珠を弾いていた。だが、その計算は空回りし、虚しい音だけを響かせていた。
「……カメリア。正直に言ってくれ。この毒を打ち消す薬は、本当に作れるのか?」
「……わからない。でも、今の私の知識では、これが限界よ。医学全書にあるのは『病に侵された個人』をどう救うかだけ。でも、毒が血に回ってしまえば、もう手遅れなの。私たちは、火が回った後の城に、バケツで水をかけているだけなのよ」
「なら、城の門を閉めればいい」
アルフレッドが、低く鋭い声で言った。
「治療法がないなら、羽虫に刺されないようにするしかない。毒を入れさせなければ、薬を調合する必要もなくなる」
アルフレッドは、王都の貴族の寝室に張られた、贅沢な「蚊帳」を思い出していた。
「村の家々を、あの薄布の幕で覆うんだ」
「……布を張って羽虫を避ける、だと?」
ブルーノが、意外なものを見る目でアルフレッドを見た。
「アルフレッド、それは『家事』や『生活の知恵』の範疇だ。医学全書にそんな記述はない。医学とは、病める体にメスや薬で介入し、生命の理を正す崇高な儀式だ。……虫を避けるために布を張るなど、それは医者の仕事ではない」
それは当時の、そして三人の深層心理にある「医学」への固定観念だった。彼らは無意識のうちに、「病後の個人の治療」だけが医学だと信じ込み、その袋小路で立ち止まっていたのだ。
「そんな『定義』に何の意味がある!」
アルフレッドが机を叩いた。
「目の前で人が死んでいくんだぞ。薬が効かないなら、布で防ぐ。それが医学と呼ばれなくても、俺は構わない。個人の体を治せないなら、村という『集団』を布で覆い、死神の接触そのものを断つんだ」
アルフレッドの切実な怒りが、「医学」という概念の檻に囚われていた二人の目を覚まさせた。
「……そうか。分母を変えるのか」
ブルーノの脳裏で、滞っていた数字が躍り始めた。
「医学の対象を『個人』から『集団』へと広げる……。もし、この村全体を一人の巨大な患者と見做すなら、家々に蚊帳を張ることは、一人ひとりの傷口を縫い合わせる手術と同じことだ」
カメリアも顔を上げた。
「ええ……。病人を待つのではなく、病が生まれる場所を塞ぐ。……治療ではなく、予防。それが既存の医学に含まれないというのなら、私たちが今日、ここで新しい医学の定義を書き換えればいいわ」
翌日、アルフレッドはクオール代官の権限を使い、王都から大量の薄布を調達した。「布で呪いが防げるか」と嘲笑う保守派の医師たちや村人に対し、ブルーノは冷たく言い放った。
「これは気休めではない。……算術が導き出した『防壁』だ。今日から、医学は診察室を出て、人々の家の『窓』と『寝床』を戦場とする!」
三人は手分けをして、まずは被害の激しい地区に蚊帳を配布し、設置を命じた。
それは、人類が初めて「個」を救うための医学を、「社会」を守るための科学――公衆衛生へと進化させた瞬間だった。
【幕間:天界の観測所にて】
神A (予防医学の父風の神):
「きたー! 『医学の再定義』だ! 当時のエリートほど、『虫を避けるなんて下々の知恵であって、医学ではない』というプライドに縛られていたんだ。そこを打ち破ったアルフレッドの執念、お見事!」
神B (蚊帳の中でくつろぎながら):
「医学が『病院の中だけ』から『村全体』に広がった瞬間だね。派手な手術や魔法の薬じゃないけど、これこそが歴史を変える一歩だよ」
神A:
「そう。治療法がないという無力感を、視点の転換で突破した。これは物語としても科学史としても熱い展開だ。……さて、第6話はあくまで『概念の提示』。次は、この『布の盾』に本当に効果があるのかを、全人類に認めさせるための最終試練だ」
神B:
「ついに、逃げも隠れもできない最強の証明……RCT(無作為比較対照試験)の出番だね」




