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第3章:千年の伝統か、三十人の事実か(EBM・権威への挑戦)

 その男は、煌びやかに装飾された四頭立ての馬車に揺られ、多くの付き人を従えて本国からやってきた。代官が大金をはたいて招いた高名な医師、バルタザール。「山の神の呪い」などという迷信を鼻で笑い、最新の、と彼が信じる医術を携えた救世主である。


 彼は到着するなり、患者たちを診て宣告した。

「呪いなどではない。これは血の汚れだ。患者の不摂生、あるいは体内の四体液の不均衡。原因は患者の内側にある。ゆえに、悪い血を抜き、浄化せねばならん」


 彼は『医学全書』の記述を、神の言葉と同じ重さで信じている。彼にとって、瀉血しゃけつのためにメスを振るうことは神聖な救済だった。


 その日の深夜。報告会という名のお茶会の場に、カメリアは疲れ果てた様子で現れた。

「……バルタザール先生は、自分が絶対に正しいと信じているわ。今日、彼が治療した患者のうち三人が亡くなったのに、『彼らは血が汚れすぎていた。もっと早く、もっと大量に抜くべきだった』と。……死の原因さえ、患者の不備に求めているのよ」


 アルフレッドが、ノートを叩くように閉じた。

「現場の薬師たちも彼の権威に圧倒されている。何せ彼は『私は数千の症例を見てきた。私の目が証拠だ』と言うんだ。だが、我々の記録(SOAP)を見ると、彼の治療を受けた者の容態は、明らかに悪化している」


 ブルーノはランプの炎を見つめながら、冷たく言い放った。

「彼は『呪い』を否定し、医学的に振る舞っているつもりだが、その実、自分の過去の経験という名の『偶像』を拝んでいるだけだ。カメリア、彼にとって、目の前の死者は『自分の正しさを裏切った不届き者』に過ぎないんだよ」


「ねえ、二人とも。これを見ていて」

 カメリアが、湯気の立つ二つのカップを机に並べた。片方には透明な白湯が、もう片方には琥珀色のハーブティーが入っている。


「バルタザール先生はこう言うわ。『このお茶を飲んだから、患者は治った。私の経験がそれを知っている』と。でも、それって本当に正しいのかしら?」

 カメリアは、透明な白湯のカップを指差した。


「私たちが本当に知りたいのは、その隣にある『白湯(何もしない)』を飲んだ人の結果よ。もし、白湯を飲んだ人も同じように治ったのなら、お茶には意味がなかったことになる。あるいは、白湯の人の方が元気になったのだとしたら、お茶はむしろ毒だったということになるわ」


「……なるほど」アルフレッドが身を乗り出した。「先生は、琥珀色のカップ(治療群)の結果だけを見て、それが透明なカップ(対照群)より優れていると勝手に思い込んでいるわけか」


「カメリア、小麦の研究でも同じことをした」

 ブルーノが、二つのカップの間に指で線を引いた。

「肥料を一切入れない『無処理区』を作らねば、土そのものの力を知ることはできない。土の力を知らなければ、肥料の価値も測れない。人間の命でも、同じことが言えるわけだ」


「彼にとって、透明なカップの中身――つまり『自分の治療を受けなかったらどうなったか』という事実は、最初から存在していない。だが算術の目で見れば、二つの条件を並べて比較しない限り、その液体が薬か毒かを決めることは不可能なんだ」


 ブルーノは、白湯とハーブティーの対比をそのまま方眼紙に書き写した。

「アルフレッド、カメリア。明日から、バルタザールの治療を受ける三十人と、治療を受けられなかった三十人を、同時に追跡する。年齢も、発症からの日数も、可能な限り揃えろ。奴の『治療』に、透明な水を超える価値があるのか、白日の下に晒してやる」


 一週間後。代官館の大広間。

 ブルーノは、バルタザールとクオール代官の前に、一枚の比較表を突きつけた。


「バルタザール殿。あなたの『医学全書』と、私の『三十人の事実』。どちらが真実に近いか、この数字が示しています」

 ブルーノがアバカスの珠を弾く。


「あなたが瀉血を施した三十人のうち、生存者はわずか九名。対して、あなたの瀉血を受けず、我々がただ安静にさせただけの三十人のうち、生存者は二十一名。先生、あなたの医術は、生き残るはずだった命を奪っているのではないですか?」


「無礼な!」バルタザールは顔を真っ赤に染めた。「たまたま私のところに、死ぬ運命にあった不摂生な患者が集まっただけだ! 私の経験では――」


「先生、言い訳は無用です。我々が選んだ三十人は、あなたの患者と年齢も、熱の出方も、住んでいる地区も同じだ。違うのは、あなたのメスが届いたかどうか、それだけだ」

 アルフレッドが冷たく遮った。「数字は、あなたの『経験』よりも残酷に、そして正確に現実を映し出している。先生、あなたが信じているのは医学ではない。……鏡に映った、万能な自分自身だ」


 クオール代官は、突きつけられた圧倒的な生存率の差を前に、バルタザールへの依頼打ち切りを即座に決断した。


 深夜の調査本部の一室。ランプの明かりの下で三人はいつものようにハーブティーを囲んでいた。

「……勝ったな、ブルーノ」

「ああ。だが、恐ろしいことだ。千年の権威が、たった三十人の正確な記録によって崩れ去った」


 ブルーノは、空になった二つのカップを見つめた。

「誰が言ったかではなく、どちらの結果が優れているか。……EBM(根拠に基づく医療)。アルフレッド、カメリア。俺たちは今夜、古い時代の終わりを、この茶杯の中に見たのかもしれないな」


【幕間:天界の観測所にて】

 神A(学会帰り風の神):

「出たー! ブルーノのEBM(Evidence-Based Medicine)アタック! 18世紀の『経験論』を、たった1枚の比較表で粉砕したな。EBMにおいて重要な要素の一つは『比較コンパリゾン』だ。バルタザールのように『治療した人』だけを見ていちゃダメなんだ。『治療した人』と『何もしなかった人(対照群)』を同時に見ること。これが科学的思考の分水嶺だな」


 神B(寝転がって漫画を読んでいる神):

「でも、バルタザールさんも可哀想じゃない? 本気で救おうとしてたかもしれないのに」


 神A:

「そこが医療の怖いところなんだよ。『善意で行われる、根拠のない治療』が人を殺す。現代でも、昔は『風邪には抗生物質』なんて言われてたけど、今はEBMによって否定されてるだろ? ブルーノがやったのは、権威という巨大な壁に、『根拠』で挑む作業なんだ」


 神B:

「でもさ、ブルーノの統計って、まだサンプル数が少ない気がするんだけど……大丈夫?」


 神A:

「鋭いな。だからこそ、彼は次に『統計的有意性』を求め始める。たまたま運が良かっただけなのか、それとも本当に効果があるのか……さて、次は村人の『偶然だろ!』という反論をどう封じ込めるかだ」


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