第2章:物語じゃない、情報が必要だ(SOAP・情報の標準化)
代官クオールの全面的なバックアップを取り付けた翌日から、アルフレッドらの仕事は一変した。彼らは代官の勅書を携え、グレンデール地方の各地に散らばる医師、薬師や村長たちのもとへ早馬を飛ばした。目的は一つ、各地で起きている「事象」を、一箇所に集約することだ。
数日後、代官館に置かれた調査本部には、各地から届けられた羊皮紙や木片、さらには端切れに書き殴られた報告書が山のように積み上がっていた。
深夜。調査本部の机には、カメリアが淹れたばかりのハーブティーが三つ置かれていた。レモングラスの清涼な香りが、泥のように溜まった疲労をわずかに溶かしていく。
「……無理だ。アバカスの珠を動かす以前の問題だ」
ブルーノが、届けられた一束の報告書を投げ出した。
「アルフレッド、君が集めてきたこれはデータではない。『文学』だ」
「文学、だと?」
「これを見ろ。『村の若者が火のような熱を出し、三日三晩うなされた。山の神の怒りは激しく、若者はついに天に召された』。……これのどこに数字がある?」
ブルーノはアバカスの珠を苛立たしく弾いた。
「『火のような熱』とは、触れた瞬間に手を引っ込めるほどか? それとも、ただ肌が少し乾いている程度か? 『うなされた』のは、痛みか、震えか、それとも意識の混濁か?……こんな不透明な言葉のゴミをいくら集めても、計算のしようがないんだ」
カメリアが静かにブルーノの向かいに座り、自分のノートを開いた。
「ブルーノの言い方は最悪だけど、突き当たっている壁は同じだわ。アル、今日の診療でわかったんだけど、ある薬師が言う『重症』と、私が診る『重症』は、基準が全く違うの」
カメリアは、ランプの明かりの下で一枚のメモを書き出した。
「例えば、この患者。薬師は『苦しんでいるから重症だ』と書いた。でも私が診たら、患者の手足は冷たく、ただ震えていただけだった。逆に、見た目は静かでも、肌に指を押し当てても白くならず、血の滲んだような斑点が出ている『本当に危ない人』が見落とされている報告もある。……感情と事実が、ぐちゃぐちゃに混ざっているのよ」
「感情と事実を、分けることができないか」
アルフレッドが、ハーブティーの湯気越しに呟いた。
「俺たちが欲しいのは、誰が診ても変わらない『動かせない事実』だ。だが、患者本人が訴える『苦しみ』も無視はできない。……これらを整理する『型』が必要なんじゃないか?」
三人は、深夜の沈黙の中で羊皮紙を囲んだ。アルフレッドが羽ペンを執り、羊皮紙を四つの区画に分ける線を引いた。
「追跡者の報告は、こうしろと教えらえれてきた」
左上の区画を差してこう続けた。
「まず、俺が感じたこと。獲物の気配、予感、そういったものを最初に報告する。正直、あまりこの話は聞いてくれない」
次に左下の区画を差して、
「大事なのはここだ。感情を加えず、見てきたこと、聞こえたことを報告する。枝が曲がっていた、糞が落ちていた、足跡があったといったことだ」
そして右上を差して、
「それから、見立てを話す。群れからはぐれた鹿1頭、イノシシの親子3頭、といった具合だ」
続いて右下を差して、
「最後は、どうやって狩り立てるか。作戦を話す。これを基に、狩りの本隊が動く」
カメリアが手を打つ。
「そのやり方、私たちの報告に使いましょう。まず一番上には、患者が口にした苦しみを書く。痛い、寒い、苦しい。これは【主観(Subjective)】。患者の言葉そのものね」
その下に指を滑らせた。
「その次は、私たちが『五感』で確かめたこと。熱なら、額に手を当てたときの感覚。例えば、『平時と同じ』『やや温かい』『手を長く置いていられないほど熱い』の三段階に分けましょう。脈なら、誰もが知っている『守護聖人の賛歌』の第一節を口ずさむ間に、何回打つか。これなら誰でも測れるわ。これを【客観(Objective)】に据える」
「いいぞ」ブルーノの目が鋭くなる。「その『客観』さえ純化されていれば、俺はアバカスを叩ける。曖昧な『火のような熱』を、共通の尺度に置き換えるんだ」
「そして三つ目」アルフレッドが続ける。「上の二つを突き合わせて、俺たちがどう『判断』したか。呪いの何段階目か、あるいは別の病気か。これを【評価(Assessment)】とする」
「最後は」カメリアが茶を一口飲み、微笑んだ。「次に何をするか、どんな薬を試すかという【計画(Plan)】ね。これがあれば、次の薬師が来たときに迷わずに済む」
S、O、A、P。
ランプの灯火の下で、情報の標準化という最強の武器が産声を上げた。
「さあ、アル。明日からこの『枠』を全域の薬師に配って。これに従わない報告は、代官様に言って突き返してもらうわ」
数日後。調査本部に届く報告書は一変していた。
『下流の村:二十歳男性。
S(主観):関節がバラバラになるように痛む。
O(客観):熱は「手を長く置いていられない」から「やや温かい」へ。腕に点状の発疹。脈は聖歌一節の間に95。
A(評価):典型的な山の呪い、第二段階への移行。
P(計画):絶対安静、山からの水を禁じ、白湯を補給』
ブルーノは、整然と並んだ「O」の列を見て、方眼紙に死神の足跡をプロットすると、流れるような手付きで計算を始めた。
「……情報の純度が上がった。アルフレッド、見えるぞ。この死神は、特定の場所に、特定の周期で現れている」
深夜の報告会から生まれた小さな四つの枠組み。それは、混沌とした世界から「真実」だけを抽出するための、強力な濾過器となった。
【幕間:天界の観測所にて】
神A (カルテを整理する医師風の神)
「おー、第2話で早くもSOAPの導入か。いい仕事するな。現代の医学では、これを知らない医学生は卒業させてもらえないレベルの基本だぞ」
神B (スマホをいじりながら)
「でもさ、ブルーノってちょっと口悪すぎない? 薬師さんたちも必死に書いてるのにさ」
神A
「まあ、データサイエンティストの性だな。GIGO(Garbage In, Garbage Out)……ゴミを入れたらゴミしか出てこない。誰だって、不正確なデータでシミュレーションしろって言われたら、ブルーノ以上にブチ切れるはずだぞ」
神B
「あー、情報の整理整頓か。でも、今回のSOAPの『枠組み』のおかげで、ようやく『何が起きているか』が正しく伝わるようになったね」
神A
「そう。これで情報の『質』が担保された。次は、その質の高いデータを武器に、ブルーノが『伝統という名の嘘』を粉砕しにかかる番だ。……さあ、第3話はEBM。権威あるお医者様が、ブルーノの数字にどう打ち負かされるか、見ものだぞ」




