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第1章:死神の足跡は方眼紙に残る(医療統計学)

 グレンデール地方の夏は、本来であれば黄金色に輝く麦穂と、ミシェル山から吹き下ろす涼風を象徴する季節だった。しかし、ここ数年、その風は「死をもたらす災い」だと囁かれている。


「また張り出されたな」


 冒険者ギルドの煤けた掲示板の前で、アルフレッドは足を止めた。周囲のハンターたちが忌々しげに目を逸らす中、彼は一枚の依頼書を剥ぎ取る。


【緊急依頼:ミシェル山麓における奇病の正体究明】

 内容:夏季に発生する発熱および出血性疾患の正体解明。

 報奨:金貨50枚および調査費用の全額支給。

 依頼主:グレンデール代官 クオール・リンベルト


 アルフレッドはハンターだ。だが、力任せに弓を射かけるわけでも、巧妙なわなを仕掛けるわけでもなかった。彼は、野山で獲物のわずかな足跡からその正体や巣を突き止める「追跡者スカウト」だ。彼の武器は小さな異変も見落とさない解像度を持った観察眼。そんな彼は、村を覆う恐怖が単なる「山の神の呪い」で片付けられることに強烈な違和感を抱いていた。


 依頼書を持って受付に向かうアルフレッドに、周囲からの冷ややかな視線が突き刺さる。

「おい、アル。悪いことは言わねえ。剣で斬れない『呪い』に首を突っ込むのはやめとけ。お前みたいな利口な男が死ぬのは、ギルドの損失だ」

 受付の老人が声をかける。アルフレッドは、依頼書を懐に収めながら、薄く笑った。

「呪いと戦うんじゃない。俺が知りたいのは、その『呪い』とやらが、何者かということだ。敵が判らないことには、戦いようもないだろう」


 彼はその足で、村はずれの修道院に併設された薬院へと向かった。幼馴染の薬師カメリアの知識を借りるためだ。


「カメリア、例の熱病の患者、その後はどうだ?」

 アルフレッドの問いに、カメリアは手元の記録帳から目を上げずに答えた。

「最悪よ。今朝、また三人が運び込まれた。みんな同じことを言うわ。『目の奥が、見えない針で突き刺されるように痛い』って」


 彼女は、患者の容態を「かわいそうに」と嘆くことはしない。代わりに、熱の推移、発疹の形、痛みの部位を、冷徹なまでに詳細に書き留める。


「ただの熱病じゃない。アル、この病気には特徴的な『波』があるわ。最初は激しい熱が出る。数日後に一度下がるの。村人は『治った』と喜ぶわ。でも、それは死神の休息に過ぎない。その翌日、さらに激しい熱と共に出血が始まる。……この『二度目の波』で、多くの命が消える」


「カメリア、力を貸してくれ。代官の依頼を受けた」


 薬草をすり潰していたカメリアが手を止めた。彼女は、祈祷や瀉血といった「古い医術」の無力さを誰よりも知る薬師だ。


「アルフレッド、無茶よ。私たちが相手にしているのは、剣の届かない『見えない死神』なのよ」


「だからこそ、お前の知識が必要だ。瘴気だの呪いだのという言葉で逃げたくない」


 カメリアは薄く笑い、壁際に積まれた膨大な診療記録に目をやった。


「私一人じゃ無理。でも、その『見えない死神』を、紙の上に引きずり出す術を知っている男なら、あそこにいるわ」


 彼女が指差したのは、修道院の奥にある薄暗い書庫だった。


 そこには、積み上げた方眼紙の前で、計算板アバカスを弾く音を響かせている男がいた。修道士ブルーノ。三十歳になるその男は、修道士でありながら神に祈る時間よりも、アバカスの珠を弾く時間の方が圧倒的に長い変人だった。


「……あと少し。あと数ポンドの『白い聖灰』だ」


 ブルーノは二人の来客に気づきもせず、方眼紙に二本の曲線を描き込んでいた。


「ブルーノ、収穫の研究はどう?」


 カメリアの問いに、ブルーノは顔を上げ、にやりと笑った。


「完璧だ、カメリア。見てくれ。この『緑を呼ぶ雫(厩肥)』を増やせば、確かに麦の芽吹きは勢いを増す。だが、ある一点を超えると麦は己の重さに耐えきれず倒れ、収穫はかえって減ってしまう。そこに、骨を焼いて砕いた『実りの粉(骨粉・木灰)』を、この絶妙な天秤の加減で混ぜ合わせる。すると……」


 方眼紙の上で、二つの変数が交わり、最も高い収穫量を示す「頂点」が可視化されていた。


「アルフレッド、彼は変人だけど天才よ。土の力を数字で測ったように、病の勢いも『数』として捉えることができるはずだわ」


「ブルーノ、代官からの依頼だ。力を貸してくれ」アルフレッドが改めてブルーノに頭を下げる。「例の疫病を追っているんだ」


 ブルーノは少し戸惑った様子で返した。

「アル、スカウトの君や、薬師のカメリアでもわからない謎をどうして私が? 私には死者を弔うことしかできないと思っていたが……」


「ブルーノ、敵は姿を見せないの。だから貴方の算術でその足跡を見つけて」


「ふむ、面白い。神に祈り、そのご加護を待つよりは、よほどマシな時間の使い方だ」

 ブルーノは修道士としてはあるまじき物言いで、チームへの参加を承諾した。


「さっそく、とりかかろうじゃないか」

 ブルーノは、先ほどまで熱心に読み解いていた畑の麦についての研究資料をさっと片付けると、書庫から何冊かの帳簿を取り出した。


 一冊は彼が私的に研究している「降水量と農作の記録」。もう一冊は、修道士として義務付けられている「埋葬の台帳」だ。

 帳簿に記された数字を、猛烈な勢いで書き写しながらアバカスの玉に叩き込む。


「……やはりそうだ。天が泣けば、地も泣くというわけか」

 彼は、方眼紙に描かれた二本の線を指差した。


「一本は、この十年の夏の降水量だ。もう一本は、同じ期間にこの修道院で行われた葬儀の数。……恐ろしいほどに、この二つは『同じ形』をして踊っている」


 カメリアが身を乗り出して覗き込む。

「雨が降れば降るほど、人が死んでいる……ということ?」


「いや、正確には違う。雨のピークからちょうど月が満ち欠けを一巡りする頃、葬儀のピークがやってくる。天の涙が地に浸み込み、それが死神の毒として熟成されるには、それだけの時間が必要なのだ。私は麦を育てるために天の恵みを計っていたが、皮肉なことに、同時に死神の足音まで計っていたらしい」


 ブルーノの声には、発見の興奮と、救えなかった命への苦い悔恨が混じっていた。


 翌日、三人は代官クオール・リンベルトの執務室にいた。クオールは眉をひそめ、提出された「雨と死の相関図」を眺めていた。


「病の原因を調べるのに、なぜ葬儀の記録と雨の量が関係あるのだ?」


 アルフレッドが一歩前に出た。


「代官様、この図を見てください。この重なりは偶然ではありません。ブルーノは肥料の研究で『最適な比率』を見出す術を持っています。病も同じです。いつ、どれだけの雨が降り、どのタイミングで誰が倒れたか。その記録を積み上げれば、死神が好む『条件』を導き出せます。原因がわかれば、戦いようがあるはずです」


 クオールはしばらく沈黙した後、力強く頷いた。


「面白い。君たちの『調査』を承認しよう。活動資金、村人との交渉、面倒ごと、汚れ仕事は私が全部引き受ける。その代わり、必ず死神の正体を突き止めろ。既に、旅の商人たちがこの街を避けるようになった。このままではこの街は立ち行かぬ」


 その夜、代官館に設けられた調査本部の一室で、三人は小さなランプを囲んでいた。カメリアが淹れたハーブティーの香りが、張り詰めた空気を和らげる。


「さて、リーダー。何から始める?」


 ブルーノがまだ何も書き込まれていない方眼紙を広げた。アルフレッドは、窓の外に広がる闇を見つめた。


「まずは『確かな足跡』を集める。カメリア、過去数年の患者がどこに住み、いくつで、いつ熱を出したか、すべて書き出してくれ。ブルーノ、お前はそれをこの紙に落とし込んでくれ」


 ブルーノは、まだ真っ白な方眼紙の格子模様を指でなぞりながら、低く笑った。


「いいだろう。神に祈るよりは、この方がよほど生産的だ。……死神をこの方眼紙の上へ招待し、数字のステップで踊らせてやろうじゃないか。奴がどこを通って、どこへ向かおうとしているのか、その足跡をすべてこの格子の中に閉じ込めてやる」


「頼もしいわね。でも、まずはそのステップを記録するための『言葉』を揃えなきゃ。医師たちの記録は、あまりに詩的すぎて使い物にならないもの」


 カメリアが持ち寄った、バラバラな書式の診療記録。

 ランプの火が揺れる中、アルフレッドの目、カメリアの知識、そしてブルーノの算術を駆使した、彼らの「狩り」がいよいよ始まった。


【天界の観測所にて】

 神A(切れるデータサイエンティスト風に)

「……始まったな。まずは『記述疫学』の第一歩、データの収集と相関の発見だ。ブルーノという男、なかなか筋がいい。異なる二つのデータセットを重ねて、時間のズレ(ラグ)を伴う相関に気づくとは」


 神B(いかにも普通の人風に)

「えーっと、つまり『雨が多いと葬式が増える』って気づいただけでしょ? それって、雨で風邪でも引いただけじゃないの? 農業マニアの修道士さん、考えすぎだよ」


 神A

「そこが凡人の限界だな。彼は『医療統計』という概念がない時代に、事象を数値化し、客観的な比較を行ったんだ。特に、肥料の最適化で使っていた『変数を制御して結果を見る』という思考回路が、そのまま病の分析に転用されているのが素晴らしい」


 神B

「でもさ、原因はデング熱……つまり蚊が媒介するウィルス感染症でしょ? いくら紙の上で死神を踊らせても、分析機器もないこの時代に、正解にたどり着けるのかなぁ。僕ならとりあえずお祈りして寝ちゃうよ」


 神A

「治療ができなくても、敵の『行動パターン』がわかれば、防衛線を張ることはできる。……しかし、カメリアが言った通り、次の壁は手強いぞ。バラバラな主観で書かれた『汚いデータ』をどう整理するか。情報の標準化、これができない限り、方眼紙の上の死神足跡は、落書きにしか見えないだろうな」


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