グロテスクな恋
彼は、自分の体の一部を
恋人に預けている。
正確に言えば、左腕だ。
肩から先がない。
代わりに、彼女の部屋の
ガラスケースの中に、
それはある。
「今日も、ちゃんと磨いたよ」
彼女はそう言って、ケースを撫でる。
彼はそれを見ながら、コーヒーを飲む。砂糖は二つ。昔から変わらない。
「ありがとう。今日は指、少し艶がいいね」
「湿度かな。あなた、最近乾燥してるでしょ」
会話は穏やかで、どこにでもある恋人同士の朝だ。
ただ一つ違うのは、彼女が愛情を注ぐ対象が、
彼の“現在進行形ではない部分”だということだけ。
彼は事故で腕を失った。
彼女は、その腕を失った瞬間に、彼を愛した。
「全部のあなたを愛してる、って言う人は多いけどさ」
ある夜、彼女はそう前置きしてから言った。
「私は“失われたあなた”のほうが、正直で好き」
彼はそのとき、冗談だと思って笑った。
彼女は笑わなかった。
それから彼女は、腕を欲しがった。
病院に掛け合い、書類を書き、法律の隙間を縫って、
まるで引っ越しの荷物みたいに、彼の左腕は彼女の部屋へ移った。
最初は戸惑った。
けれど彼女は、腕を扱うときだけ、とても優しかった。
指先を洗う。
爪を整える。
関節の角度を確認して、
「今日は疲れてるね」と話しかける。
その声は、彼が生きているときよりも、ずっと愛おしそうだった。
「ねえ」
彼はある日、聞いてみた。
「今の俺と、あれ。どっちが好き?」
彼女は少し考えてから答えた。
「比べるものじゃないよ。
今のあなたは“現実”。
あの腕は“真実”」
わからなかった。
けれど、彼女の目が本気だということだけは、痛いほどわかった。
彼女は言う。
生きている人は、
嘘をつく。
成長する。
変わる。
裏切る可能性がある。
でも、失われたものは、そこから先、
何もしない。
期待も、
失望も、
増えない。
「安心するの」
そう言って彼女は、ガラス越しに腕へキスをする。
彼は、嫉妬した。
自分自身に。
夜、彼女が眠ったあと、
彼はケースの前に立つ。
「お前さ……」
腕に向かって、独り言を言う。
「俺より愛されてるの、どういう気分?」
返事はない。
当然だ。
それなのに彼は、なぜか負けた気がした。
ある日、彼女は言った。
「ねえ、お願いがあるの」
嫌な予感がした。
予感は、だいたい当たる。
「右腕も、私にちょうだい」
冗談のトーンじゃなかった。
「あなたは、もう十分生きたでしょ?
でも、私の愛は、まだ完成してない」
彼は、笑えなかった。
「それ、俺が“いなくなる”って意味だよな」
彼女は首を傾げる。
「いなくなるんじゃない。
“完成する”の」
彼はその夜、初めて彼女を抱かなかった。
代わりに、自分の体を強く抱きしめて眠った。
翌朝、彼女は泣いていた。
「私、あなたを失うのが怖い」
彼は思った。
――違う。
彼女は、“生きている自分”を失うのが怖いだけだ。
別れ話は、あっけなかった。
彼女は腕を返さなかった。
「これは、私の恋だから」と言った。
彼は何も言わず、帰った。
数年後。
彼は義手にも慣れ、普通の生活をしている。
ある日、骨董市で、ガラスケースを見かけた。
中には、見覚えのある左腕。
値札には、こう書いてあった。
――「愛された痕跡」
彼は、少しだけ笑った。
グロテスクなのは、
腕を愛した彼女じゃない。
自分がまだ、
「あれは確かに、恋だった」
と思ってしまった、その心だ。




