第9章81【微熱、揺れる陽だまりの中で【前編】】
穏やかな風が吹いていた。
山間の隠れ家に身を寄せて数日。命の危険にさらされた日々の余韻は、未だ完全には癒えない。それでも、このひとときだけは……そう思いたくなるほど、かおるにとっては珍しい「日常」だった。
「かおる、そこ座って。髪、整えてあげる」
アリシアが木製の椅子を指さし、優しく微笑む。彼女のブロンドの髪は今日もよく陽を反射し、まるで柔らかな光をまとっているかのようだった。
「いや、いいって。自分でやるし……」
「だめ。私がやりたいの」
あまりにも真剣な表情に、かおるはそれ以上拒めなかった。アリシアが背後から櫛を手に取ると、かおるの髪を丁寧にとかしはじめる。櫛の動きに合わせて、ふいに触れる指先のぬくもりが、どこかくすぐったい。
「……こういうの、慣れてないんだなって思った」
「そりゃそうだよ。いきなり女の子に髪とか……その、触られたりしたら……」
「触られたり“したら”? ……ふーん」
不意に、アリシアの手が止まる。かおるが振り返ると、彼女はどこか拗ねたように唇を尖らせていた。
「誰かに触られたことあるんだ?」
「ないないない、誤解だって!」
「ふふっ、冗談だよ」
からかうように笑う彼女の目は、どこか真剣だった。その目に見つめられると、胸の奥がじわりと熱くなる。
——好きだ。
その想いが、言葉に出そうで、でもまだ怖くて。
そんな曖昧な時間が、心地よくも切なかった。
***
その夜、かおるは夢を見た。
血の匂い。炎の揺らめき。首のない転生者の死体。
そして、仮面をかぶった男がこちらを見ている——。
「かおる……!」
アリシアの声で目が覚めた。汗ばんだ体を起こすと、彼女が心配そうに隣にいた。
「大丈夫……? すごくうなされてた……」
「……夢、だと思う。でも、なんか嫌な予感がするんだ」
かおるの胸の内に、冷たい針のような不安が差し込む。
この平穏が、永遠には続かない。
そしてそれは、的中することになる——。
***
翌日、遠く離れた帝都・ベルアージュ。
仮面の男・《仮執行者グレイズ》は、報告を受けていた。
「転生違法者“田中かおる”、目撃情報、再浮上です」
「ほう……面白い。ずいぶん長いこと、雲隠れしていたものだ」
グレイズはゆっくりと席を立ち、黒いマントを翻す。
「再執行の準備を。……次は、仕損じない」
闇が、再びかおるたちを包み込もうとしていた。